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 ジェームズ・ポッターとリリー・ポッター夫妻のもとに息子のハリーが生まれたのは1980年7月31日のことだ。当時の記憶に思いを馳せると、その知らせを受けた日は特に蒸し暑く、蝉がみんみん鳴き始めたころだったように思う。エミリがリリーからその旨を記したふくろう便を受け取ったのは、夏真っ盛りの日本でだった。
 レギュラスとの洞窟での一件以降、エミリの故郷である日本で暮らしていた二人は英国魔法界とはほとんど連絡を取らずに過ごしてきた。たまにくる知らせと言えば、二人が日本に来る手助けをしてくれたマクシミリアンからの魔法界の動向を伝えるものや、エミリが恋人の死を悼んで故郷へと帰ってしまったと思い込んでいる友人からの励ましの手紙でのみであった。友人たちに嘘をついていることには気が引けたが、レギュラスのことを考えれば仕方のないことだ。何よりエミリ自身がその道を選んだのだから、後悔などあるはずもなかった。
 とにかく、そんな理由もあって、エミリは久々に来た友人からの手紙をわくわくとした気持ちで開いた。畳のにおいのする部屋の縁側に、その手紙を遠路はるばる運んできたふくろうがちょん、とたたずんでいることですら何となくおかしく思う。きっと数か月ぶりのリリーからの便りに浮き足立っているのだろうな、と思っていると、縁側を歩く足音が聞こえてきた。ふとその音が止まったのを感じて視線を上げれてみれば、レギュラスがそこにいてこちらを見つめている。「入ったら?」。そう声をかけると、レギュラスは表情を緩めてそのままエミリの隣に座り込んだ。

「誰からです? あなたがそんなに嬉しそうな顔をするなんてマクシミリアンからじゃあないでしょう?」

 にこにこと人好きのする笑みを浮かべ、レギュラスはそう問いかけた。ずいぶんと柔らかい表情を見せるようになったものだと思う。ほんの一年ほど前までは、ほとんど見ることのなかった表情だ。あの一件が起こるまで彼の両肩に乗っていた重圧は、それほどまでに重いものだったのだろう。

「リリー・エバンズって覚えてる? グリフィンドールの監督生で、スラグ・クラブにもよく招待されてた女の子よ」
「……あなたと仲の良かった赤毛の彼女ですよね? 確かポッターと結婚したとか聞いたけれど」
「そう、その彼女からの手紙なんだけどね。どうやらジェームズとの間に子どもが生まれたみたいで」

 ほら、と言って同封されていた写真をレギュラスに見せると、彼は小さく笑って写真を覗き込んだ。その写真の中で、一人の小さな赤ん坊がきゃっきゃっと声を上げて笑っている。

「……何というか、ポッターにそっくりだね。シリウスがかわいがりそうだ」

 そう目を細めて笑うレギュラスにエミリは少しだけ嬉しさを覚える。兄に関する話題を頑なに避けていた彼はもういない。あのとき自分が守りたかった家族のなかの一人に、シリウスも入っているということに気づいたのだろう。そういう彼の優しいところを好きになったのだろうとふと思う。

「本当に、ね。きっとみんなに愛されるいい子になるわ。久しぶりの明るいニュースね」

 エミリがそう呟くと、レギュラスはその瞳に愛しさを滲ませて、エミリの肩を引き寄せた。そうして「そうだね」と、小さく、ほとんど聞こえないような声で呟く。その声色があまりにも優しいものだから、エミリは彼に体重を預けながら、この子はこの暗黒時代において、英国に残してきた友人たちの光となるのだろうと考えていた。




 そして当時のエミリのそんな思いは、思いも寄らぬ形で現実となった。確かにその子どもはイギリスにいる魔法使いたちにとって掛け替えのない光となったのだ。そのときエミリが思いを馳せた友人たちの生命と引き換えに。
 そんな経緯もあり、エミリがホグワーツの教員となったこの二年間、ハリーのことを気にかけない日はなかった。けれど直接声をかける機会もなく、またこの先も(ハリーが古代ルーン文字学を選択しなかったものだから)ただこっそりと自己満足のように見守り続けるだけなのだろうと思っていた。しかし、リーマスが闇の魔術に対する防衛術の教員として就任することとなってその状況は一変する。エミリもリーマスもそれぞれの事情からかつての友人たちとは疎遠になっていたのだが、それも今年までの話だ。久方ぶりの再会を果たした二人の話題は自ずと彼らの友人と、その息子についてとなる。この二年間の活躍っぷりだとか、コンパートメントで約十年ぶりに間近で見た少年らしい姿だとか、そういう話題だ。
 盛り上がりすぎるのも良くないかしら。
 ふとエミリはリーマスと再会してから胸の内でかすかに考えていた思考を取り出した。
ホグワーツに入学する以前のハリーの親戚宅での生活は、あまり親身に面倒を見てもらったというわけではないと聞いている。そんな彼を助けようともしなかったのに、成長した姿だけを喜ぶというのは好ましくないような、そんな気がしたのだ。もっとも、ダンブルドアはハリーが親戚宅で暮らすことに重きを置いていたようだったから、どちらにせよエミリにできたことは少ないだろうけれど。

「ルーピン、開けておいてくれ。我輩は、できれば見たくないのでね」

 そんなふうにエミリが思考の淵に沈んでいる間にも、物語は進んでいく。立ち上がるなりそう言ったセブルスを見て、グリフィンドールの生徒たちが嫌そうな顔をするのが見て取れた。

「ルーピン、たぶんだれも君に忠告していないだろうが、このクラスにはネビル・ロングボトムがいる。この子には難しい課題を与えないようご忠告申し上げておこう。ミス・グレンジャーが耳元でひそひそ指図を与えるなら別だがね」
「術の最初の段階で、ネビルには私のアシスタントを務めてもらいたいと思ってましてね。それに、ネビルはきっと、とてもうまくやってくれると思いますよ」

 何だか生徒に対していただけない言葉を吐いた気がする。そんなことを考えて、呆気に取られているうちに、リーマスはごくごく自然に槍玉に挙げられたネビルをフォローしていた。彼のこういった優しさは彼だけの強みなのだろう。ふとリーマスと目が合ったので励ましの意味を込めて笑みを浮かべると、彼はエミリに向かって口を開いた。

「悪いね、使わせてもらうよ」
「どうぞどうぞ、授業で使う資料をまとめたいからもう少しここにいさせてもらうけれど。私こそ悪いわね。セブルスってば私と話してるときから機嫌が悪かったの。彼、どうにも私のことが苦手みたいね」
「きみが苦手というよりは、きみの従兄弟が苦手なんじゃないかい? たまにだけどきみはやっぱり彼の親戚だなあと思うことがあるよ」

 ぽんぽんと軽口を叩くように言葉を投げかけてくるリーマスにわざとらしくムッとした表情を作ってみせると、それを見たリーマスは声を上げて笑う。楽しげなその様子に少しだけ安心しながら、エミリは羽ペンを手に取った。それを合図にするようにリーマスが生徒たちに声をかける。

「さあ、それじゃ」

 リーマスがそう言ったタイミングで、部屋の奥にある洋箪笥がバーンという音を立ててわなわな揺れる。それを目撃した生徒たちがびくっと震えるのを一瞥すると、リーマスは静かに言葉をつないだ。

「心配しなくていい。中に“まね妖怪”――ボガートが入ってるんだ」

 リーマスのその言葉に生徒たちは怪訝な表情を浮かべている。それと同時に、エミリの頭の片隅にこんな考えがふっと浮かんだ。

 もし今の自分がボガートと対峙したなら、はたしてボガートは何に化けるのだろうか。back top
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