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 乱菊の言うご飯屋さんというのは、つい先日十二番区に開店したこじんまりとした小料理屋のことだった。海鮮料理がおいしいと評判になりつつあるその店は、近隣の隊からも物は試しと昼食を取りに来る死神たちも多いと聞く。きっと流行に敏感な乱菊も噂を聞いて気になっていたのだろう。
 いつもならば少しばかり並ばないと入れないその店も、正午に差し掛かる前にたどり着いたこともあり待たされることなく中に入ることができた。無垢材でできた座卓に通されて、千智は雛森と並んで座敷に座り、その向かいに乱菊が腰を下ろす。

「何にしようかしら、海鮮丼がおすすめってうちの隊員には聞いたのよねえ」
「おいしそうですね、海鮮丼。あ、でも日替わりもなかなか良さそうですよ。ほら、鱧の照り焼き定食」
「いいですね! あたし、日替わり定食にしようかなあ」

 品書きを見るといくつかの定食や海鮮丼の名前が少し癖のある達筆で書かれていた。それぞれあれやこれやと吟味したあとで、海鮮丼を一つ、日替わり定食を二つ注文する。その間に雛森が席に備え付けられた薬缶からお茶を注いでくれて、乱菊と千智は礼を言ってそれを受け取った。

「この前は楽しかったわね、久々で。吉良がだいぶ悪酔いしてたけど」
「二軒目行ったときですよね? 吉良くんあんまり記憶がないみたいで謝ってました。別に気にしなくていいのに」
「あたしのところにも来たわ。律儀よね、あんなのよくある話だし誰も気にしないわよ」

 お茶を啜りながら、乱菊と雛森がそんな言葉を交わし出す。先日の飲み会の二次会の話をしているらしい。

「吉良くんってそんなに飲むタイプなの?」
「結構深酒するとあんな感じですよ。本人は気にしてあまり飲まないようにしてるみたいですけど」

 そこまで親しくない千智には普段冷静な吉良が酒に飲まれる図がどうにも想像できず、雛森にそう問いかけた。雛森は困ったような笑みを浮かべてそう返す。同期の彼女からすると、そんな光景はままあることのようだった。向かいに座る乱菊は頬杖をつきながら二人の会話を聞いていて、少しだけ怪訝な表情を見せたあと、ひらめいたとばかりに手を打った。

「あ、そっか! 千智はあの場面見てないものね」

 そう口にした乱菊は目をきらきらと輝かせて身を乗り出した。どうやら余計なことを思い出させてしまったらしい。

「ね、あのあと修兵と何かあった?」
「え、どういうことですか?」

 興味津々と言わんばかりの笑みを浮かべた乱菊に雛森がそう問いかけた。

「あの日修兵も千智も二次会来なかったでしょ。あれ、この子が次の日早くて先に帰るって言ったら修兵が送ってくって言いだしたのよ。修兵って、基本的には誰に対しても優しいし気配りするほうだけど、いくら同期って言っても何にもないのにそんなことしないじゃない」

 ましてや千智は腕が立つほうだしね。そう続けた乱菊に、今度は雛森も驚いたような表情を浮かべた。千智はこの場をどう切り抜けようかと考えを巡らせる。だが、いくら言い訳を並べてもあの乱菊の追及は躱せる気がしなかった。

「何にもないですよ?」
「ふーん? ま、あんたがそう言うならそういうことにしといてあげてもいいけどね」

 とりあえず、とばかりにしらばっくれてはみたものの、案の定納得していない様子で乱菊はそう言ってのけた。タイミングよく注文した海鮮丼と日替わり定食が運ばれてきて、店員からそれを受け取りながら乱菊は言葉を続ける。

「けど修兵って優良物件だと思うけどな〜。仕事できるし、顔もまあ、悪くないし?」
「頼りがいもありますしね!」
「あんたもそう思う? 雛森も見る目あるじゃない」

 乱菊と雛森が楽しそうに顔を見合わせてそんな言葉を交わしながらちらりと千智を窺った。千智はそんな二人から目をそらす。うまくその場をやり過ごす方法を考えながら、手元にあった味噌汁に口をつけた。




 それから千智が解放されたのは、昼休みの終わる五分前のことだった。口を噤んでしまった千智にどういうわけか二人が檜佐木修兵がいかにかっこよく、仕事ができて女性死神に人気があるかというプレゼンをし始めて、ほとほと参った千智が思わず口を滑らせるまでそれは続いた。

「檜佐木がいい男っていうのはよく知ってますけど……。どちらかと言うと私自身の問題なんです」

 明かすつもりのなかった言葉を口にしたあと、わずかに驚いたような表情を浮かべた乱菊が、ふ、と目を優しく細めてこう告げた。

「……そ。からかって悪かったわね。けどあんたも充分いい女よ」

 姉御肌の乱菊は、引き際をよくわきまえている。そのことに感謝をしながら、小料理屋の前で乱菊と雛森と別れて千智は技局へと足を向けた。
 執務室に戻ると行きと同様に阿近が出迎えた。ぺらぺらと書類をめくりながら千智を一瞥すると、手元にあった珈琲を口に運ぶ。

「ただいま戻りました」
「おう、おかえり」
「阿近さん、お昼は行かれました?」
「俺は昼は食べない主義でな」

 しれっとした調子でそう言ってのけた阿近に、千智は眉根を寄せる。

「またですか? ちゃんと食べないと体壊しますよ。ただでさえ技局員は生活が不規則なんですから」
「お前も抜いてること多いだろ」

 そんなことを言われ、千智は思わず目をそらす。技術開発局の局員の宿命か、実験や調査が立て込んでくると昼休憩をとる時間がないこともよくある話だ。それに慣れてしまうと阿近のように昼食を取らなくなってしまう局員も多い。

「ま、そうですけど。何か立て込んでる案件があるなら代わりますんで行ってきてくださいよ。今日はそんなに忙しくないでしょう?」

 そう述べると阿近は「あー、」と迷うような声を上げたあとでゆっくりと自席から立ち上がった。珍しく昼食を取る気になったらしい。そうして手に持っていた書類を千智に渡し、「任せるわ」とだけ呟いた。

「了解です。……ってほぼ終わってますね」
「おー。局長に承認もらっといて」
「はーい」

 書類にさっと目を通しながらそんな会話をしていた時のことだった。執務室の奥にある扉ががちゃり、と開き、聞きなれた声が響く。

「待ちたまえ」

 執務室に直結する唯一の研究室から姿を現したのは、十二番隊隊長及び技術開発局局長を務める涅マユリだった。涅は何かが書きつけられたバインダーを手に持ち執務室へと足を踏み入れる。

「緊急の調査同行依頼だヨ」

 涅は手に持っていたバインダーに留められた紙をめくりながらそう口にした。
 調査同行依頼 —— 。それは護廷十三隊各隊が管轄する現世や流魂街などの地域で、普通の死神では処理しきれない事象に遭遇した場合に技術開発局に依頼される十二番隊特有の任務のひとつだった。
 突如として涅が持ち込んできた仕事に、阿近は外に出ようとしていた足を止めて口を開く。

「なんかそういうの最近少なかったっすね。現世ですか?」
「いや、流魂街だ。なかなか興味深い虚が出現したようだネ」
「誰に行ってもらうのが良いですかねー」

 千智の言葉を受けた涅が、ニヤリと口角を上げて携えていたバインダーを無造作に寄越してみせた。バインダーには今回発生した事象について事細かに書かれた数枚の調査報告書が挟まれている。千智は受け取ったそれを何枚かめくり、虚の概要が書かれたページに目を落とす。
 
「君が適任じゃないかネ。霊圧を消したり、姿を消したりは君の十八番だろう?」
「私ですか?」

 涅の言葉と報告書に記入された情報を照らし合わせながら、千智は一週間ほど前、白哉に言われた言葉を思い出した。

「姿が見えない、霊圧も捕捉できない。それでいてそれが何かを襲った痕跡だけは強く残る、そういう虚だそうだ」

 あのとき白哉に言われたのはこれだったのか、とどこか納得するような気持ちを覚えつつ、千智はあの日の会話を振り返る。
 そのあとの飲み会帰りに起きた出来事にすっかり気を取られて忘れてしまっていたけれど、白哉がわざわざそれを千智に伝えた理由をぼんやりと思い返した。

「あれは消しているわけじゃないんですけど……。まあ、そういうわけなら私が行ったほうが原因を解明する手掛かりにはなるかもしれませんね」
「ちなみに場所はどこですか?」

 阿近が涅に場所を問いかけたのに耳を傾けつつ、千智は再び報告書をめくる。あの日白哉が告げた地域での出来事であるならば、きっとこの報告書は九番隊からのものだ。兄がいなくなった日、あの場所に真っ先に向かったのもそうだったのだから。

「西方郛外区、第六区 —— だヨ」

 涅の言葉に隣に立つ阿近が微かに息を呑むのを聞きながら、千智は報告書の末尾にやっとこれを作成した死神の名前を見る。
 そこには九番隊第三席檜佐木修兵、とはっきりとした字で記されていた。
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