09

「今すぐに返事してくれってわけじゃないから。ただ、考えてくれると嬉しい」

 千智を十二番隊隊舎の前までしっかりと送り届けた後で、檜佐木はそんなことを呟いた。穏やかな優しい笑顔。瞳は熱を帯びていて、彼の好意を静かに語るようだった。返す言葉が思い浮かばなくて、ただ頷きだけを残して別れたのが一週間前のこと。あの日から彼には会えていない。

 送り梅雨の季節も終わり、近ごろは瀞霊廷にも夏真っ盛りと言わんばかりに太陽の光が降り注いでいる。じめじめとした暑さは過ぎ去ったものの、今度はじりつくような日差しが肌を突き刺すようで、千智は空調の効いた研究室にこもりがちになっていた。

 十二番隊に移籍して半年。千智が専門とするのは義骸に関する研究だ。最近になってようやく与えられた個人の研究室には、その先行研究となるいくつかの文献がバラバラに置かれていた。千智は研究室の中にある肘掛け椅子に座り込んで、手元にあった論文をぱらぱらとめくる。内容を読み込もうとしても頭に入ってくることはなくて、千智はめくっていた論文をそっと閉じた。
 技術開発局の書庫に乱雑に仕舞われていたその論文の著者名を無意識のうちになぞりながら、千智は物思いに耽っている。仕事をしている途中にも、一人になると彼の告白にどう答えるかを考えてしまうのがここ最近の常だった。

 長年焦がれていた彼に想いを伝えられ、嬉しくなかったと言えば嘘になる。彼のまっすぐな瞳に胸がときめいたのも事実だった。けれど、どこか心の奥底で、その想いには応えられないと思う自分がいる。亡くなった親友が彼に好意を寄せていたこと。幼いころに姿を消した兄の存在。そんなことばかりが頭を過ぎる。親友の好きな人に懸想することは許されない気がしたし、兄がどうして行方をくらましたのか、それを知ったらきっと檜佐木も千智の前からいなくなってしまうに違いない。だからこそ、院生時代から千智は檜佐木への想いを隠し続けてきたのだ。

 千智は溜め息を一つ吐いて、再び論文に目を落とす。義骸の構成要素である霊子体について事細かに記されたそれは未完成のまま書庫の奥底に眠っていたものだった。手書きで雑然と書かれた見慣れた文字。これは、研究者でもあった千智の兄が書いたものだ。
 おそらくこれは草稿に過ぎないものだったのだろう。だからこそ検閲をすり抜けてここに存るけれど、完成したこの論文は閲覧を禁じられ、今は記録として地下議事堂の大霊書回廊にのみ存在を許されている。その筆跡をじっと見つめながら、千智は幼い日の記憶に思いを馳せた。



 あれは、百年ほど前のこと。すっかり日の暮れた瀞霊廷の六番区にあるひと際立派な邸宅の前で、兄は幼い千智をしっかりと抱きしめてこう告げた。「きっと迎えにくるよ」。それが兄に千智に残した最後の言葉だった。
 焦燥感に駆られた様子で駆け出した兄の背中を見送ったその翌朝から、千智は自らの姓を名乗ることを禁じられた。千智が本当の姓を名乗ることで不要な咎めを受けることを危惧した朽木銀嶺の言いつけだ。
 立花、というのはもう記憶にすら残っていない母の旧姓なのだという。それを教えてくれたのも、その日から千智の面倒を見てくれたのも、当時の朽木家当主の朽木銀嶺とその息子の蒼純だった。あの頃はなぜ自らの姓すら禁句とされたのか何もわからずにいたけれど、今となってはその理由をはっきりと理解できた。
 兄が千智を置いて去っていったあの日から、その名は重罪人の名として尸魂界に刻まれていることを、千智はずっと隠し続けてきたのだ。




 精読していた論文を読み終えたところで時計を見上げると、時刻は十一時三十分を少し過ぎたところだった。千智はめくっていた論文を机に置き、大きく伸びをする。せっかく研究室にこもる時間が取れた日だったのに、仕事が進まなかったことを残念に思う。何とか湧いてきた集中力もどこかに消え失せてしまい、千智は雑念を払うように大きく息を吐いた。
 少し早いけれど、昼食でも食べに行ってしまおうか。そんなことを思いながら千智は研究室を出る。確か執務室には阿近がいたはずだ。一声かけてから技術開発局を出ようと廊下を歩いていると、普段は静まり返っている執務室から何やら話し声が聞こえてきた。
 明るくよく通る声。扉越しに聞こえる声に耳を澄ませながら誰が来ているのかを少し考えて、すぐに答えにたどり着いた。聞きなれたその声に千智は首をかしげながら扉を開ける。

「あ! 来た来た」
「乱菊さん? こんなところでどうしたんですか?」

 執務室の中にはいたのは千智が思い浮かべた通りの人だった。乱菊は千智に気が付くと嬉しそうに手を振ってみせた。勝手知ったる様子で空いている席に腰をかけた乱菊の隣には雛森が座っていて、少し居心地が悪そうに、けれどにこにことした人好きのする笑みを浮かべている。その向かいでは阿近がどこかめんどくさそうな様子を隠さずに自席に座ったまま書類をめくっていた。

「あんたを待ってたのよ。さっき雛森がうちに書類持ってきたもんだからさ。あと少しでお昼だし、一緒にご飯でもどう?」

 最近ここらへんに新しいご飯屋さんができたっていうじゃない、と朗らかに乱菊が告げる。千智が返事をするよりも早く、阿近が乱菊のその言葉に反応した。

「よし、昼休憩長めにとってもいいから行ってこい」
「え、いいんですか」
「何よお、阿近。あたしの相手がめんどくさいっていうの?」

 何を話していたのかは知らないが、どうやら天真爛漫な乱菊にペースを崩されていたらしい。からかうようにそう告げた乱菊に、感情のこもっていない声で「そんなことないですよ」と呟きながら、阿近はさっさと行けと言わんばかりに手を振った。
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