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 一瞬の静寂。そして、阿近が即座にこちらに目線を向けたことに気が付いた。
 目の前に立つ涅はにやにやと読めない笑みを浮かべている。千智はちらりと阿近の顔色を伺ったあとで、めくっていた報告書を閉じて口を開いた。

「わかりました。で、いつ向かえばよいでしょうか?」
「アァ、今からだヨ。その報告書を起こした死神がこちらに来しだい出発だ」

 そう指示を出すと、涅はさっさと研究室に引っ込んでいく。執務室には千智と阿近だけが残されていて、その阿近がどこか言いづらそうな様子でこう告げた。

「……代わってやろうか」
「いえ、そういうわけには。……いや場所がどうこうという理由じゃなく代わってもらいたい気持ちもあるんですが」
「何言ってるんだよ」

 調査同行に赴くことはやぶさかではないけれど、このタイミングで檜佐木と顔を合わせるにはいささか気まずいものがある。そんなことを思って言葉を返せば、阿近があきれた表情を浮かべて大きく溜め息を吐いた。

「……お前もあの場所をもちろん覚えているんだろう」
「忘れることはないでしょうね」

 百年前の、あの夜のこと。
 兄はその場所で禁忌を犯し、尸魂界を永久追放された。そのことは当時兄の部下だった阿近もよく知っている。だからこそ千智があの場所に向かうことに難色を示しているのだろう。
 お互いに何と言い表せばよいのかわからないまま僅かな沈黙が流れる。開きっぱなしになっていた執務室の扉からからふわりと夏の湿度を含んだ風が吹き込んで、それがなぜだか一週間前のあの夜を彷彿とさせた。

「大丈夫ですよ。心配しないで」
「……隊長も何を考えているんだか」

 沈黙を破った千智の言葉に阿近が頭を振ってそう答えた。話を切り上げたのは、近づいてくる霊圧に気が付いたからだ。よく知る霊圧とほんの少しの衣擦れの音。そして、「失礼します」というよく通る低い声が執務室に響く。檜佐木だ。

「何かあったら連絡しろよ」

 阿近はそう告げると檜佐木に「よろしくな」と言い残し自身の研究室へと踵を返した。どうやら昼食は諦めたらしい。そんな阿近を横目に千智は檜佐木に向き直った。




 建物に囲まれている瀞霊廷ならばいざ知らず、平屋がぽつりぽつりと点在するだけの郛外区には夏の日差しが燦々と降り注ぎ、その暑さを強調していた。
 西流魂街——。かつて自分も暮らしていたことのあるこの場所を、檜佐木と並んで歩いていることがどうにも違和感があって、千智はほんの少し気恥ずかしい気持ちになりながら目的の場所へと向かっていた。檜佐木のほうも同じような感情を抱えているのか言葉少なに足を進めている。

「内容は?」
「聞いた。報告書も見せてもらったわ」

 しばらく無言で進んだあとで檜佐木がぽつりと口を開く。まばらに散らばっていた家々も今や通り過ぎようとしていた。
 この先はどの方向に進めば良いんだっけ。
 そんなことを思いながら、千智は手元にあった報告書に目を落とした。確か地図が書かれていたはずだと思いながら、一枚、二枚と紙の束をめくっていると、隣を歩く檜佐木が不意に横道を指差して言葉を発する。

「こっちだ」
 
 ようやく見つけた地図に目をやると、その地図には確かに檜佐木が指さした細道が描かれていた。

「詳しいね。先行調査は檜佐木も出てたの?」
「いや? 単純に霊術院に入るまで住んでたのがこの辺りだったからだな。目的の場所も昔行ったことがあって、よく覚えてるよ」

 そうさらりと言ってのけた檜佐木に、千智は思わず目を瞬かせた。長い付き合いではあるけれど、彼がこの地区にゆかりがあるだなんて初耳だった。
 ちらりと彼のほうを伺うと、どこか遠くを見つめた檜佐木がおもむろに口を開く。
 
「もうざっと百年くらい前になるかな」
「何が?」
「今から行く場所で虚に襲われたことがあるんだよ」

 目を細めた檜佐木がそう呟いた。夏の熱を孕んだ風が強く吹き、彼の前髪が揺れる。その風が、何かを懐かしむようなそんな檜佐木の表情を際立たせていた。

「そのとき助けてもらった死神に憧れて、俺はこの道を選んだんだ」

 そう言って檜佐木はまっすぐ道の先を見据える。檜佐木の意志を持った眼差しに千智はある人を思い出した。
 泰然自若としたあの隊長と直接関わることはほとんどなかったけれど、その副官にはよく遊んでもらったことを覚えている。きっと幼い千智に構うなど仕事の邪魔だっただろうに、彼女もその上司であるあの人も、千智には優しく接してくれた。そんなことを思い出した。

「……霊圧の捕捉できない虚だと」

 千智の手元にある報告書にちらりと目をやって、檜佐木は唐突にそう呟く。嫌悪するかのような表情を浮かべた檜佐木に、千智はこう付け足した。
 
「出掛けに過去の昇華記録を確認してきたけど、これまで同じような特性を持つ虚が出現したのは一度きりね」
「なるほどな」

 そう相槌を打つと、彼はそっと足を止めた。檜佐木はかつて同種の虚と対峙したことがあるはずだ。それをお互いに理解していたけれど、どちらともなくそのことには口を噤んでいた。

「……ここがその虚が頻繁に出現する場所らしい」

 檜佐木がそう告げた場所は、木々が拓けただだっ広い空間だった。
 西方郛外区の、第六区。この場所に足を踏み入れるのは初めてのことだと、なぜかこのタイミングで気がついた。
 なるほど、ここがそうなのか。そんな言葉が頭の片隅を過ぎる。確かに流魂街の居住区から離れたこの場所ならば、秘密裏にコトを進めることもできるだろう。けれど、いくら人里離れた場所と言っても流魂街は死神の管理する場所だ。自らの率いる隊ならともかく、他所の隊の管轄区で——? そんな疑問が浮かんで、千智ははっとかぶりを振った。今はそんなことを考えている場合ではない。

「とりあえずしばらく待機、か?」
「……そうね。痕跡か何かあれば —— 、と思ったけど、何もないみたいだし」

 千智がそう答えると、檜佐木は辺りを見渡して腰掛けるのにちょうど良い岩場を指差した。それに従うように隣り合ってその岩に腰掛けるとなぜか奇妙な沈黙が流れる。さらさらと草木を揺さぶる風の音だけが辺りに響いていた。

「……悪かったな」
「どうして謝るの?」

 唐突に檜佐木がそんなことを口にして、千智は思わず目を瞬かせる。ちらりと隣に座る檜佐木のほうを窺うと、彼はただじっとこの先にある森を見据えていた。

「俺が執務室に入る前、阿近さんと喋ってただろ? あれ聞いて、この前の、迷惑だったかと思って」

 出発前、阿近としたやり取りを思い返す。あのとき兄が消える前最後に訪れたとされる場所に赴く千智を慮った阿近に対し告げた言葉を、やっとのことで思い出して、千智は慌てて首を横に振った。

「あ、あれは違うの。檜佐木に言われたことについてじゃなくて……」
「……そっか。ならいいんだ。悪い、言いにくいこと聞いて」

 そう告げると檜佐木は目を細めて微笑んだ。それは極めて穏やかな声だった。この人にはきちんと向き合わないといけない。檜佐木の声を聞いて、千智はそんなことを考えた。

「ねえ。この前のこと、返事をする前にあなたに言っておきたいことがあるの」
「ああ」
「……兄がいたって言ったことあるでしょう。あの人が行方知れずになる前に、最後に訪れたのがこの場所なの」

 ざあ、と風が強く吹く音がする。うっすらと香る夏の匂いになぜかあの白橡の髪の毛を思い出して、千智はゆっくりと口を開いた。
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