12

 記憶の糸を遡っていくと、いつも同じ場面が蘇る。
 広い背中。窓から差し込む月の光。寝ている幼い妹を起こさないように、明かりの一つも灯さず机に向かい、一心不乱に何かを描きつける兄の後ろ姿だ。
 窓から差し込む月明かりがことさらに眩しく感じて目が覚めてしまった満月の夜。寝たふりをしながらこっそりと布団の隙間から兄の背中を見つめたその情景が、千智にとっての最も古い記憶だった。

 たった一人の家族だった。
 だから一緒に遊んでもらいたくて、忙しなく書面を捲るその背中に抱き着いたり、膝に潜り込んだりしたことを千智はよく覚えている。兄はそんな千智の頭をひと撫でするとまたすぐ仕事に戻ってしまうような人だったけれど、ひと段落ついたときには千智を抱き上げて、いろんなことを教えてくれた。
 美しい現世の街並みや瀞霊廷のおいしい食事処の話、たった今完成した発明品のこと。その話題は多岐にわたったが、そのどれもがとても魅力的で千智を楽しませてくれた。当時の千智にとっては兄とおしゃべりするそんな時間が一番の幸せだった。

 兄は忙しい人だった。
 腕利きで聡明、千智の自慢だった兄は、ちょうどそのころ護廷十三隊の隊長に就任した。初めのころはどんなに遅くなろうとも泊りがけの任務がない限りは千智の待つ家に戻ってきてくれたものの、しばらくすると隊舎で寝泊まりすることが多くなっていった。
 幼い妹をひとり家に残すことが憚られたのだろう。苦肉の策で千智を隊舎に連れて出勤することも増え、瀞霊廷が千智の遊び場となった。
 大人たちに遊んでもらったり、お菓子をもらったりする日々は楽しかったけれど、仕事をしている死神たちに囲まれるのはいささか緊張するもので、千智は兄のあとをぴょこぴょことついて回っていた。そんな千智と兄の姿を気にかけてくれる人も多くいて、そのころから千智は兄が仕事をしている間、ある屋敷に預けられることが増えていった。
—— うちには孫もいるし、遊び相手くらいにはなれるじゃろう。
 その屋敷の主はそう兄に掛け合ってくれたらしい。当時すでに真央霊術院の院生だった孫にあたる少年は、千智をよくかわいがってくれた。勉学や鍛錬の合間にお菓子を一緒につまんだり、言葉を交わしたりしたその少年は千智よりいくらか年嵩だったけれど、千智にとってははじめての友人でもあった。

 友人もでき、そんな楽しい日々を送っていた千智であったが、対する兄はそのころからますます家に帰らなくなっていった。護廷十三隊の隊長という立場や当時邁進していたある機関の設立に忙しさを極めていた兄は、時折千智を家に連れて帰るものの、ほんの数日一緒に過ごすとまた屋敷に千智を預けに行くような、そんな生活を送っていた。その忙しさもそのときだけのもので、きっと落ち着いたらまた千智と暮らすつもりなのだろう。そんな淡い期待を持っていたけれど、その微かな希望は裏切られることとなる。

 その日も、いつもと同じように兄に連れられあの屋敷に向かっていた。いつもと同じ道をいつも通り、兄はその大きな手のひらで千智の小さな手を包んで歩いていく。
 ただ一つ違ったのは、千智といるときにはどんなに忙しくともいつも笑顔でたくさんの言葉を交わしてくれた兄が、口を一文字に結び、焦燥に駆られたようにあわただしく足を進めていたことだった。千智はもうほとんど駆け足のような状態で、兄に置いて行かれまいと必死に歩いていく。やがて屋敷の門にたどり着き、兄は千智に目線を合わせるようにしゃがみこんだ。

「お兄ちゃん、どうしたの?」

 そう言って見上げた兄はいったいどんな顔をしていただろう。なぜだかその時の表情が思い出せなくて、けれど白橡の柔らかい髪の毛やきらきらと輝く琥珀のような瞳についてはずっとずっと忘れられないまま。

「ごめんね、ボクが行かなきゃならないんだ」

 小さな千智の体を包み込むように抱き寄せて、そう耳元で呟いた兄の声は、ほんのわずかに震えていた。そんな兄が心配で、不安で泣き喚きたかったのに、兄の手を煩わせたくなくて千智はわざと物分かりの良いふりをした。

「今日はおじいちゃんのおうちにいればいいの?」
「……うん。きっと迎えに来るよ」

 兄はぎゅっと強く千智を抱きしめると、千智の頭を撫でて足早に去ってしまった。大きなその背中がどんどん遠く離れていく。その様を千智はなぜだかずっと見つめていた。
 それがたったひとりの兄 —— 浦原喜助と交わした最後の会話であり、彼が唯一千智についた優しい嘘だった。


 次に覚えているのは、その翌日の朝のこと。よく一緒に遊んでくれていたその屋敷に住む少年が、千智が起きるのをじっと待っていた。
 本当なら、迎えに来ると行っていた兄がここにいるはずなのに —— 。そんなことを思った千智は目をぱちくりさせて起き上がった。

「お兄ちゃんはどこ?」
「千智、起きたのか。おはよう」
「おはよう。ねえ、お兄ちゃんはまだ来ないの?」

 そう問いかける千智に少年は困ったように眉尻を下げた。そのしぐさに新月の夜のような黒髪がさっと頬に落ちる。いつも結ばれているはずの髪を少年が結んでいないことに、千智は今更ながら気が付いた。その髪が少年の顔に影を作り、少年の曇った表情を見せないようにしていた。
 そのときその屋敷の主がその部屋に顔を出した。少年を手招きすると、千智にはわからないように小声で何かを告げると慌ただしく去っていった。

「千智、うちにおいで。爺様もきっとそう言うから」

 千智のそばに戻ってくると、少年は泣き出しそうな声でそう告げて、駄々をこねる千智を少年が抱きしめる。奇しくもそれは昨日の兄の様子と被るようだった。

「いやだ。千智はこの家の子じゃないもん」
「そう言うな。私たちと一緒に暮らそう」

 千智よりも年嵩の少年に力強く抱きしめられると少し痛いくらいだったけれど、そうすることで今にも涙がこぼれそうなその顔を千智に見せないように隠していることに千智は気付いていた。そして、兄がもう戻ってこないであろうことにももちろん気がついていた。

「わかったよ。だから泣かないで、白哉くん」
「私が泣くものか」

 そう絞り出すように告げた少年の背中に腕を回して、千智はほんの少しだけ涙をこぼす。それが、千智が覚えている兄の記憶のすべてだった。

 ある意味美しい記憶なのかもしれない。
 千智はときどき、そんなことを考える。兄に置いて行かれたとは言え、千智はとりわけ大きな苦労もせず成長することができた。それもこれも、すべて周りの人に恵まれたからだ。
 当時の千智を預かってくれていたのは、五大貴族のうちの一つ、朽木家の当主にあたる朽木銀嶺だった。銀嶺はきわめて厳格な人であったが、公正で人道的な人でもあった。そうでなければ、尸魂界を追われた兄を糾弾して幼い千智をも捕えようとした中央四十六室を説得し、自分が面倒を見るなどとということは言い出さなかったはずだ。
 貴族が強力な発言権を持つ尸魂界でもその一二を争うほどの権力を持っている朽木家の当主が言い出したことは、よほどのことがなければ覆らない。それを知っていたからこそ、銀嶺は千智を預かる決断をしたのだろう。

 なぜ兄は、千智を連れて行ってはくれなかったのだろう。兄の所業には箝口令が敷かれ、今となっては例え親族ですら —— 否、むしろ親族だからこそと言うべきか —— 当時の研究資料を手に取ることは許されていない。だから千智は、幼いころのあの思い出以外に兄のことをまるで知らなかった。




 兄の足跡を辿りたくて、かつての兄の気持ちを知りたくて、千智は死神となった。
 十二番隊への入隊を希望したのは、かつて兄が率いたその隊にならば何か彼の遺したものがあるかもしれないと思ったからだ。その予想はある意味正しくて、ある種間違いだった。確かに兄が当時記した帳面や書き付け程度のものは見つかったが、兄が何を考え、どうしてあのようなことを起こしてしまったのかということについてはその欠片すらも見つからない。

「……だから、阿近さんがああ言ったのは、檜佐木がどうとかじゃなくって兄のことを思い出させたくなかったからだと思う」

 かつて千智の手を引いて朽木家を訪れたこと。迎えに来ると言っていた兄がそれからずっと戻らないこと。後々になって、兄がこの西方郛外区第六区に足を踏み入れたのを最後に —— より正確に言うならその後中央地下議事堂に連行された記録は残っているものの、さすがにそれを事細かに説明する勇気はなかった —— 行方を眩ませたこと。
 兄の素性は伏せたまま、千智はそんなことをぽつりぽつりと打ち明けた。
 檜佐木と視線を合わせたまま説明するのが憚られ、自分の足元ばかりを見つめてしまう。想いを告げてくれた檜佐木に向き合おうと思ったところなのに、結局全てを詳らかにする勇気は持てなかった。あの優しい兄が大罪を犯したことは今でも信じられない。けれど、もし本当に兄がそんなことを仕出かしていたとしたら —— 。そんな不安が頭を過ぎったからだ。
 檜佐木修兵という男は、ただの同級生に過ぎない時分からずっとずっと千智のことを気にかけてくれていた。一見やんちゃに見えるその風貌からは想像もつかないほど周りをよく見て気を回す人で、優しく、誠実な人格を持った男で、千智もまた、彼のそんなところに惚れていた。だから。
 いつだってまっすぐで、曲がったことなど考えもしないような檜佐木に兄の犯した罪を知られたら?
 優しい檜佐木は表立って千智を糾弾することなどないかもしれないけれど、もし心のどこかで彼に忌避感を抱かれるとしたら、それは千智にとてどうにも恐ろしいことに思えて仕方なかったのだ。

「……そうか」

 自らの臆病を隠したままの説明に、檜佐木はいったい何を感じたのだろう。その表情を窺うことのできないまま俯いていると、檜佐木はそう相槌を打った。
 照りつける太陽が米神に汗を伝わせる。何気なくそれを手で拭って、それから千智はまた、頭を垂れて自身の草履ばかりを見つめていた。隣に座る檜佐木が言葉を探して息を吸う。

「……あのさ」
「……うん」
「立花が気にしてるのって、他に何がある?」

 穏やかな口調で紡がれたのは、そんな言葉だった。思わず顔を上げると柔らかな視線でこちらを見据える檜佐木と目が合って、千智は思わず「えっ?」と間の抜けた声を上げてしまう。千智のその様子に、檜佐木は少しだけ微笑んで、それからこう続けた。

「それだけじゃないだろ? 昔から、ずっと何か抱え込んでる」

 思わず、言葉に詰まる。それから何だか、肩に入っていた力が抜けた気がした。
 いったいいつから気付かれていたのだろう。いったい何が彼に千智の臆病を、逡巡を、気付かせてしまったのだろう。そんなことを考えて、それからそっとため息を吐いた。
 いつからだとか、何がとか、そんなことをあれこれ考えても仕方がない。昔からそうだ。檜佐木は仲間のそういった感情の機微にはとにかく聡い男だった。

「もしそれが原因でこの前俺が言ったことに返事が出来ないと思っているんならさ」

 千智の動揺には触れず、檜佐木は優しい口調で言葉を続ける。彼の紡ぐ言葉を受け入れてしまいたいような、それでいてこのまま聞かないままでいたいような、そんな奇妙な緊張感に心臓がどくどく跳ねるのがわかった。

「別に恋人としてじゃなくてもいい。ただの同期で、友達としてでも良いから —— 立花が抱えてるもの、半分俺に預けてくれよ」

 檜佐木の低く、心地よい声だけが辺りに響いているようだった。どうして彼はこれほどまでに千智のことを気にかけてくれているのだろう。何か言わなければと口を開くけれど、何を言えばいいのかわからず言葉が出てこない。千智のそんな様子にもとうに気づいているのだろうに、檜佐木は相変わらず穏やかな眼差しで千智の言葉を待ってくれている。

「檜佐木、あの、私ね……」

 意を決して何とか彼の名前を呼び、何かを告げようとしたときのことだった。

「……立花」
「ええ。わかってる」

 端的に鋭く呼びかけられ、千智もまた、短く相槌を打った。先程までとは打って変わって、檜佐木が険しい表情で千智の背後を窺っていることに気がついた。反射的に腰に帯びた斬魄刀の柄に手を伸ばすと同時に、後ろから空間を切り裂くような奇妙な音がする。

「……出たな」

 いつのまにか刀を抜いた檜佐木が小さくそう吐き捨てる。振り向くと、禍々しく巨大な虚が泰然とそこに佇んでいた。
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