13

「巨大虚 —— だな」
「……一応聞くけど」
「違う。あのときの虚とは」

 突如現れた虚から瞬歩で距離を取り、どちらともなく戦闘態勢に入る。
 いつでも動けるように重心を低く取ると、奇怪な姿をした虚が警戒するような唸り声を上げた。

「調査だけのはずだったのに、当たりを引くとはね」
「何の痕跡も見つけられないよりはマシだろ」

 斬魄刀を構え、檜佐木は千智を庇うように半歩前に足を踏み出した。死覇装に覆われた大きな背中が目の前に見え、思わず千智は咎めるようにその名を呼ぶ。

「……檜佐木」
「悪い。良い気はしないだろうけど、俺の後ろにいてくれ」

 返ってきたのはいつになく硬い声だった。
 調査同行の名目でここにやって来たとはいえ、千智は護廷十三隊きっての戦闘部隊・十一番隊の出身だ。千智よりも二つも席次が上の檜佐木には劣るかもしれないが、それでも庇ってもらうほど弱いわけじゃない。檜佐木もそれはよく理解しているだろうに —— 。そう思ったけれど、その声を聞けば、檜佐木が己の背に千智を庇おうとする理由を瞬時に察してしまう。
 きっと、おそらくこの人は —— この状況が怖いのだ。
 かつて同輩を目の前で失った檜佐木にとって、この状況は当時を彷彿とさせると言っても過言ではない。この優しい男は、これ以上仲間を失うことが耐えられないのだろう。
 なんだか申し訳ないような、悲しいような、そんな気持ちを覚えた。すべてを背負う必要などないはずなのに、そうあろうとする檜佐木の責任感が好きだった。そんなことを考えて、それから千智は静かに首を横に振る。

「大丈夫、気にしてない」

 檜佐木は目前に迫る虚を真っ直ぐに見据えたまま、もう一度「悪いな」と呟いた。千智はその謝罪を遮るように檜佐木の背中に言葉を投げかける。

「でも聞いて。策があるの」
「……策?」
「この虚が姿を消す原理はわからないけれど、要は隙をついて倒せばいいんでしょう」

 千智のその言葉に檜佐木は口を噤んで続きを促した。
 もともと今回の調査同行の目的は該当の虚の痕跡の調査および分析だ。霊圧の補足が難しい虚を討伐するには、ただ闇雲に捜索にあたるわけにもいかない。出現の条件や保有する能力を見極めた上で虚を昇華するための前段階としての情報精査が今回の目的ではあったものの、こうなっては倒してしまったほうが遥かに良いというのが千智の見解だった。
 前方を警戒したまま千智の話に耳を傾けていた檜佐木としてもそれは共通の認識だったようで、彼は「そうだな」と相槌を打つ。檜佐木の声に応えるように、千智は聳え立つように佇む異様な化け物を見据えてこう告げた。

「私が斬魄刀を解放すれば、この虚に奇襲できると思う」

 目の前にある背中が驚きを表現するかのように一度だけびくりと跳ねる。それから檜佐木は訝しげな声を上げた。

「お前の斬魄刀の能力って ——
「檜佐木には見せたことなかったよね?」

 斬魄刀の鍔を押し上げ、鯉口を切る。この距離ならば、目の前に立つ檜佐木も千智の斬魄刀の効果範囲に含まれる。だから委細を説明しないまま、千智は斬魄刀を解放するべくその名を呼んだ。

かくせ、霧虹」

 目前に佇む虚以外の霊圧が、消えた。

 使い手の霊圧を完全に隠匿する —— 。これが千智の持つ斬魄刀・霧虹の第二・・の能力である。
 その適用範囲は使用者のみならず、半径五メートル以内に存在する共闘者にも効果を付与することができる。

「これで私たちの姿も霊圧も、あの虚からは確認できないわ」
「……なるほどな」
「あとは……」

 そう説明すると、千智はゆっくりと刀に霊圧を込めた。注ぎ込む霊圧の量に比例して、虚の目前に精巧な傀儡くぐつがじわじわと形作られていく。
 千智の持つ斬魄刀・霧虹の主たる能力 —— 。それは、己の霊圧を込めた傀儡を操り、攻撃を繰り出すというものだ。

「へえ。便利だな、それ」
「まあね。何なら遠隔操作で鬼道も飛ばせるわよ」

 霊圧の感じられない空間の中、千智はそう告げるとにっと口角を上げる。なるべく、自信ありげに見えるように。仲間の命を背負って立とうとするこの人に、わずかでも背中を預けてもらえるように。

「……心強いな」

 目の前に立つ檜佐木がこちらに流し目を寄越してからぽつりとそう呟いた。彼らしくもない小さな声が何だか愛おしく感じて、千智は今は目の前の敵に集中すべきだと頭を振る。

「行きましょうか」
「ああ」

 前に立つ背中に、このまま並び立てたなら —— 。千智の迷いも、答えを見つけられる気がした。




 それからの展開は早かった。
 千智が縛道で動きを封じた虚を斬魄刀を解放した檜佐木が奇襲を実行。出現条件や能力そのものは特殊だったものの、上位席官であれば難なく倒せる虚だったようで、四半刻ほどでその昇華・滅却を完了した。

「なんでこんな能力を持った虚がこんなところにいたんだろう」
「調査する間もなかったな」
「痕跡くらいなら残ってるかもしれないし、また明日にでも来てみるよ」

 斬魄刀を納め、檜佐木に向き直る。能力を持った虚が尸魂界に出現するのは稀なため、念のため調査をしなければ。もしかすると隊長直々に来たいと言い出すかもしれない。そんなことを考えているとこちらをじっと見据える檜佐木と目が合った。

「あのさ、」
「うん」
「瀞霊廷に戻る前に、少しだけ時間をもらえるか」

 意志のある眼差しだ。檜佐木と視線を交わすたび、千智はそんなことを考える。
 その目からは逃げ続けることは、きっともうできやしない。千智は頷いて、虚が出現するまで座っていた岩場にさっと腰を下ろした。檜佐木もそれに倣うように隣に座る。いったい何を言われるのだろう。話の続きならば、千智のほうから切り出すべきなのに —— 。そんなことを考えていると、檜佐木は何かを思い出すような優しい表情でこう言った。

「六回生のころ、あの魂葬実習から帰ってきた俺に、何を言ったか覚えているか?」

 檜佐木の言葉に、思わずはっと息を飲む。
 忘れるはずはない。あの日、一回生の引率として現世に出ていた同期たちが戻ってきて —— 親友のほたるだけが戻らなかった日。雨の降りしきるなかで、千智に頭を下げ続けていた檜佐木のあの震える肩は今でも目に焼き付いている。そして、そのとき千智が彼にかけた言葉も。

「お前、あの日俺にこう言ったんだ。『死神になろう。護りたいものを護れる死神に』って」

 檜佐木の頭を撫でながら、千智は確かにそう言った。けれど、それは檜佐木のためというよりは、むしろ自分を慰めるために告げた言葉だった。

「……うん、覚えてる」

 そう頷いた千智に、檜佐木は丁寧に言葉を紡ぐ。

「立花がそう言ってくれたから、俺は死神になることができた」
「……それは違う。私の言葉なんてなくても、檜佐木ならきっと大丈夫だったよ」
「違わない。俺は友達が死ぬのも、自分が死ぬのも怖いんだ。立花がそう言ってくれなかったら、死神になるのを諦めてた」

 千智を燃えるような眼差しで見据え、檜佐木はそう語る。買い被りすぎだ。そう思い、千智はそっと俯いた。この強くて優しい人なら、何も千智がいなくとも、他の同期たちに支えられて死神となる道を選べたはずだった。だから千智に固執する必要はどこにもないのに、どうして……。そんな思いが胸中を渦巻いていく。檜佐木はそんな千智の葛藤に気付いているのかいないのか、ただきっぱりと言葉を続けた。

「あの日お前にそう言われて、考えたんだ。俺が護りたいものはなんだろうって」

 不意に、逸らしていたはずの目が檜佐木のそれと交差する。俯いていた顔をいつしか覗き込まれていたことに気が付いて、千智は慌てて顔を上げた。真剣な瞳と目が合って、今度は離せない。

「友達も仲間も、俺にとってはみんな大切で、傷ついてほしくない。でも、何より失いたくないのは、立花の存在なんだ。あのころからずっと」

 そう言うと、檜佐木はそっと表情を緩めた。穏やかで、優しい、まるで彼の内面を表しているかのようだった。その顔を直視して、それから何かを考える間もなく、思わず言葉が溢れ落ちた。

「私、まだ檜佐木に言えないこと、たくさんあるよ。昔から、隠しごとばっかりしてきたの」

 それは、虚が出現する前に口にしようとしていた言葉でもあった。
 兄の正体は、きっとこの先も明かせない。それを知られて檜佐木に距離を置かれることが、もう、怖くて怖くて仕方ないのだ。けれど、卑怯だとも思う。彼はこんなにも心を砕いてくれているのに —— 。そんな罪悪感が千智を襲う。
 いったいどんな言葉が返ってくるのだろう。きっとこの関係も白紙に戻るかもしれない。そう考えていたはずなのに、返ってきたのは思いがけない言葉だった。

「いいよ。お前が話したくなるまで待つよ」

 思わず目を瞬かせる。檜佐木の真っ直ぐな瞳が千里を射抜くように見つめていた。
 その言葉の意味を理解したとたん、じりじりと夏の日差しが降り注いでいることに気がついた。何だかまるで、突如夢から覚め、現実に戻されるような不思議な感覚。いつしか夏特有の湿った風もぴたりと止み、まるで彼の斬魄刀を彷彿とさせる、風死す季節がやってきたかのようだ。頭の片隅で、そんなことをぼんやり考えていた。

「……檜佐木」
「ん?」

 小さく名を呼ぶと、優しい声が返ってくる。千智は一度深呼吸をして、それからまた、口を開いた。

「好き。院生のころから、ずっと好きだった」
「おう。……俺もそうだよ」

 柔らかい風が、また二人の間を吹き抜ける。愛しげに細められた彼の瞳に、何だかもう一度恋に落ちたように胸が高鳴るようだった。
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