03

 今日の昼休み、十一番区の食堂に集合ね。

 伝令神機の電子書簡箱を確認すると、そんなメッセージが届いていた。千智は「了解」とだけ返して朝の身支度を始める。
 今日も今日とて、さめざめと雨が降り続いている。梅雨時は髪がまとまらないから嫌だなあ。そんなことを考えながら千智は髪を結び、さっと化粧を施した。
 軽く朝食をとり、死覇装に着替えると赤い番傘を手に取って家を出る。戸締りをしっかり確かめて、千智は傘をさして歩き出した。院生時代の寮生活を含め、一人暮らしを始めてかれこれ数十年になる。朝の身支度に手間取るなんてことはもちろんなくて、むしろある種のルーティンになりつつあった。
 規則正しい生活が身についたのは、きっと育ての親の影響だろう。この半年でやっと通い慣れた技術開発局までの道を進みながら、千智はそんなことを考えた。

 技術開発局では、昼夜を問わずさまざまな解析作業が行われている。どれだけ朝が早くとも、どれだけ夜が更けようとも、煌々とした明かりが灯っているそのさまは千智をほっとさせた。ここに来れば、時間を忘れて仕事に取り組める。今日はそのことが、とてつもなくうれしかった。

「おはようございます」
「はよ。早えな、お前」

 局内に入ると、ちょうど奥にある研究室から大柄な男があくびをこらえたようすで現れた。霊波計測研究科通信技術研究所の研究科長である鵯州だ。

「鵯州さん、夜勤でしたっけ」
「おう、リンの野郎に引き継いだから帰って寝るわ」
「はーい、お疲れ様です」

 とぼとぼと疲れた様子で部屋を出る鵯州を見送って、千智は執務室へと向かう。今日は昨日やり残した護廷十三隊業務をさばかなくてはならない。とはいえ閑散期の業務量はたかが知れている。午前中で終えて、午後からは研究室に入り浸ろう。そんなことを考えながら千智は執務室の扉を開けた。
 早朝の誰もいない執務室。なぜだか空気が淀んでいる気がして、千智は自席に荷物を置くと窓を開ける。カーテンがゆらゆらと揺れるさまを確認して、千智は席について机に置かれている書類をめくった。昨日残してきた量よりも少しは増えているものの、この分だと昼休みに入る前には終わりそうだ。さて、と一番上に置いてあった書類を手に取って、千智は仕事に取り掛かった。
 数十分もすれば、十二番隊の隊員たちが出勤し始めた。平隊員のひとりがお茶を淹れてくれたので、ありがたく礼を言ってそれを受け取る。それをちびちびと飲みながら、終わった書類の抜け漏れがないかを確認していると、ふと昨日の出来事が脳裏をよぎった。

「なあ、やっぱり深い意味があるって言ったらどうする?」 

 そう呟いた、檜佐木の低い声を思い出す。とっさにわからないふりをしてみたけれど、その言葉が内包する意味に気づかないはずはない。真剣な眼差しで千智を見つめる瞳。少し照れたような表情。きっと好意を抱いてくれているんだろうなと思う。けれど、手放しでそれを喜べるほどもう子どもではないことも確かだった。
 思考の渦にはまってしまいそうになり、千智はぎゅ、と固く目を瞑る。そうして何度か瞬きをして、また新しい書類を手にとった。それは考えていることを振り払いたいときの千智の癖だった。





 正午を少し回ったころ、十一番区にある食堂を覗くとお目当ての人は既に四人掛けの席に座っていた。頬杖をつきながら窓の外をぼんやり見ているその人は、千智の登場にまだ気づいていない。
 昼休みだというのに、食堂はなぜか閑散としていて千智とその人以外誰もいないようだった。千智は注文した蕎麦を受け取ると、まっすぐその人の座る席へと足を向ける。

「お疲れ様です。なんか静かですね?」
「ああ、今日は午後一の斬術訓練の時間が前倒しになってね。他のやつらはあと半刻は鍛錬場さ。まあ、だからこそきみを今日呼んだんだけれど」

 その人、綾瀬川弓親はにこやかにそう告げると自らの向かいの席に座るよう千智に促した。机には弓親が注文したのであろう日替わり定食の盆が乗っている。

「弓親さんは参加しなくていいんですか?」
「今日提出の書類の締め切りがあったから免除されたんだ」
「わあ、不満そう」
「そりゃ僕だって机仕事より訓練の方がいいよ」

 どこか不服そうな表情でそう告げた弓親は両手を合わせて、いただきます、と呟いた。それに倣うように千智も同じ動作をして、受け取ったばかりの蕎麦に箸をつける。

「それだけかい? きみ痩せたんじゃないの」
「そりゃ十一番隊に居たときよりは痩せましたよ。まず運動量も減りましたしね」
「へえ。ま、室内にいることのほうが多そうだしねえ」

 僕には考えられないな。弓親はそっとそう呟いて味噌汁に口をつける。十一番隊にいたころは、毎日朝から晩まで鍛錬に明け暮れる生活を送っていた。よく鍛え、よく食べ、よく休息をとる。遠回りに思えるけれど、力をつけるには何度もそれを繰り返すしかないことは、護廷十三隊の一員であれば誰もが理解している。護廷十三隊の随一の戦闘集団である十一番隊にいたころはそれをしっかり意識していたはずなのに、十二番隊に異動して以降、鍛錬の回数も食事の量も減ってしまったことは事実だった。
 自主練の時間でも作ろうかな。蕎麦をすすりながらそんなことを考える。すると弓親が「そういえば、」と思い出したかのように口にした。弓親を窺うと、なぜだかその口元には笑みが浮かんでいた。どこか楽しげな、それでいて少しの冷やかしの混じったそんな表情だ。

「ねえ、昨日、あそこの店で飲んでただろう」

 弓親はにこやかに昨日千智と檜佐木が訪れた店名を口にする。やっぱり。そんなことを思った。弓親のからかうような面持ちを見た瞬間思い出したのだ。昨晩店を出た瞬間、遠くに見えたひと際賑やかなあの集団。隊長や副隊長の姿こそ見えなかったものの、あれはどう見ても十一番隊の隊員たちだった。

「気づいてたのは僕だけだと思うから気にしなくていい。けど驚いたよ」
「何か問題あります?」
「問題っていうか、きみ、もしかして檜佐木クンのこと好きなの?」

 わざわざ千智を呼び出した理由はこれだったのだろう。にやにやとした笑みを浮かべて問いかけてくる弓親に、千智ははあ、とため息をついた。弓親とは護廷十三隊に入隊した当時からの付き合いだけれど、人の感情の機微だとか、人と人との関係だとか、そういった細やかなところにとにかく聡い人だった。今更ながらそれを思い出して、千智はそっと口を閉ざす。昔からこの人には隠しごとなどできやしない。千智のそんな考えを見透かすように、その反応を肯定と受け取った弓親は言葉を続けた。

「意外だなあ。てっきり朽木隊長みたいなクールなタイプが好みなのかと思ってた」
「何でそこで朽木隊長が出てくるんですか。昔からお世話になってるから、私が勝手に懐いてるだけですよ」

 茶化すようにそう告げた弓親に首を振って否定する。食べ終えた蕎麦の器を机の端に寄せて、千智はふと浮かんだ疑問を口にした。

「というか、なんでわかったんですか?」
「いつからきみを見てきてると思ってるの。わかるよ、そりゃ」
「……弓親さんには敵わないなあ」

 きっと昨日のほんの一瞬のあの空気を感じ取ってそう判断したのだろう。弓親のそういう鋭さは今も健在だ。机に置いてあった急須から湯飲みにお茶を注ぎながら、そんなことを考えた。弓親の手元にある湯飲みも空に近くなっていることに気が付いて、千智は何も言わずその湯飲みにもお茶を入れる。ありがとう、と呟いて湯飲みを受け取った弓親がこう切り出した。

「ねえねえ、付き合わないの?」

 喜色をあらわにしてそう問いかけた弓親に、千智は考える間もなく即答する。考えるまでもなく、わかりきっていたことだった。

「付き合わないですよ。誰とも」
「ふうん。昨日遠目に見た限りでは、檜佐木クンもきみのことを好いてるのに?」

 湯飲みに口をつけながら、弓親がそう言った。小さく付け加えられた千智の言葉に触れはせず、けれど見透かすような眼差しで千智を見つめている。その視線にすべてを誤魔化すことなどできないことを悟って、千智は重い口を開く。

「……院生時代の親友が、彼のことを好きだったんです」
「過去形ならいいんじゃないの」
「彼女、卒業前に現世実習中の事故で亡くなってて」

 千智のその言葉に弓親は特に驚いたようすもなく、なるほどね、と呟いた。当然のことだ。死神にとって、仲間の死は何も珍しいことではない。けれど千智にとってその親友、蟹沢ほたるの死は大きな衝撃を与えたのだ。
 とてもやさしい子だった。可愛らしい、眩しい笑顔が大好きだった。入学当時、人々に遠巻きにされることの多かった千智にとっての初めての友達だった。千智が人の目を気にして思い悩んでいたときも、ずっと隣にいてくれた。そんなことを思い出す。

「だけど、死んだら何も変えられないよ。僕らは死神なんだから、そこを履き替えちゃいけない」

 弓親の言葉は、正論だ。それをわかってはいるけれど、なぜか心の奥底にその死がこびりついている。親しい人が千智の前からいなくなってしまうのは、これでもう、二度目のことだった。

「……それだけじゃないんじゃない?」

 口をつぐんでしまった千智に、弓親はそう問いかけた。嫌になるくらい、聡い人。そんなことを思いながら、千智は弓親をじっと見つめる。弓親は握っていた湯飲みを机に置き、こう切り出した。

「きみの本当の憂慮を当ててあげようか。……お兄さんのこと、気にしてるんだろ?」

 ああ、気付かれた。弓親の言葉にそんなことを思いながら、千智は思わず両手で顔を覆う。泣き出したいわけじゃない。けれど、心の奥底をここまで言い当てられては、もう弓親の顔をまっすぐ見ることなどできなかった。
 弓親は小さなため息をひとつ吐くと、うつむいた千智の頭にその手のひらを乗せた。きれいに手入れされてはいるが、男性の大きな手のひらだ。その手で千智の頭を撫でながら、優しい声色で弓親は言葉を続ける。

「檜佐木クンは、どこまで知ってるの」
「……私が幼少期朽木家に居候してたことは知ってます。でも、それくらいかなあ」

 絞り出すようにそう答えた。幼いころ、千智は前六番隊隊長の朽木銀嶺の元に預けられていた。きっと迎えにくるよ。そう告げた人が戻ることは終ぞなく、千智が霊術院に入学することで朽木家での暮らしは終わりを迎えた。

「きみの秘密主義が良くないんだろうね。隠してること、全部預けてしまえば楽になれるのに」
「自分ですら抱えきれないものを預けることなんてできませんよ」

 ぽつりと弓親がこぼしたその言葉に、千智はそっと顔を上げる。血のつながった家族も、無二の友も。千智が大切に思う存在は、みんな千智のもとからいなくなってしまう。その中に檜佐木までもが入ってしまうのは千智にとって耐え難いことだった。

「難儀だねえ。僕はきみのそういうところ、嫌いじゃないけどさ」

 そう呟くと弓親は小さな笑みを浮かべた。まるで慈しむような、そんな表情だった。閑散とした食堂に騒々しい話し声が近づいてくる。その声を聞きながら、千智はそっと過去の記憶を思い出した。
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