04

 それは、真央霊術院の六回生に上がったばかりの春のことだった。春の陽気に誘われて、友人たちとこっそり寮を抜け出した。星を見に行こう。誰ともなくそんなことを言い出して、一行は院生寮のすぐ近くにある小高い丘を目指して歩いていた。

「あーあ、あと一年で卒業かあ!」

 千智のすぐ隣を歩きながら、朗らかな声で蟹沢ほたるはそう言った。雲一つない夜空には星影がきらきらと瞬いている。街灯などない野山であるはずなのに辺りはぼんやり明るく見えて、まるでその星のきらめきが自分たちを照らしているようにさえ思えた。

「なあに、卒業したくないの?」
「だってこうしてみんなで過ごせるのもあと一年って思うと寂しくない?」

 にこにことした笑みを浮かべながら、ほたるはそう問いかけた。連れ立って寮を抜け出してきた他の友人たちも、まばらに広がってそれぞれいろんな話をしながら足を進めている。和気藹々と笑いあいながら、言葉を交わす。それはとても簡単なことだけれど、確かにこの光景は今このときにしか得られない。ほたるの笑顔につられるように、千智も口元を緩めて言葉を返す。それは、一抹の希望を込めた言葉だった。

「入隊しても集まれるよ、きっと」
「……そうだね。絶対集まろうね!」

 千智、仕事が忙しくなったら構ってくれなさそうだしなあ。からかうようにそう告げて、ほたるはふふ、と笑ってみせた。遠くから友人たちがほたると千智を呼ぶ声がする。いつの間にか友人たちはあの丘のふもとまでたどり着いていたらしい。はーい、と元気よく返事をしてほたるは小走りに友人らのいる場所へと向かっていく。千智もそのあとを追おうとして、ふと気が付いた。

 目的地である丘の先、はるか遠くの夜空には三日月が浮かんでいる。遮るものなど何ひとつない星月夜にぽっかりと浮かぶ月の姿は、なぜだか千智の心をひどく揺さぶった。見覚えのあるあの孤月。あの日のことを思い出す。そうだ、あれは今日と同じ三日月の輝く晩のことだった。

「千智ー? どうしたの?」

 遠くでほたるや友人たちが千智を呼ぶ声がする。千智は慌ててその声に返事をすると、友人たちのもとへと駆け出した。たった今浮かんだ記憶を振り払おうとしながら。





 その翌日。すべての授業が終わった夕暮れの教室で、千智は一人、古びた手帖をめくっていた。
 わずかに開いた窓からはさわやかな風が吹き込んでいる。なぜだか一人になりたくて、寮へと帰る友人たちを見送った千智はそのまま教室の自席に座り、何かを考え込んでいた。
 今日は調子の上がらない一日だった。その原因を、千智は痛いほど理解していた。
 かつて、昨晩と同じ月を見た日の光景が脳裏に浮かぶ。いつも笑顔を浮かべていた兄が、口を一文字に結んで焦燥に駆られたようすで慌ただしく千智の手を引いて駆け出していく。あの夜を境に、幼い千智のそれまでの生活は一変した。

「あれ、まだ残ってたのか」 
「檜佐木くん」

 そんな記憶が頭の中を覆い隠しそうになったそのとき、教室の外から声をかけられた。当時、霊術院の第一組の級友だった檜佐木修兵が教室の扉から不思議そうに千智を見つめている。

「どうしたんだよ、こんな時間まで」
「何も。ちょっとぼーっとしてただけ。檜佐木くんこそどうしたの?」
「俺は今日日直だったからな」

 檜佐木は軽くため息をつくと、教室に入って千智の前の席に腰をおろした。そのまま椅子にもたれながら檜佐木はぐっと大きく伸びをする。教室に居残っていた級友と何かお喋りでもしようという心算らしい。一見強面に見える外見とは裏腹に、檜佐木はきわめて気さくな男だった。
 卒業前のこの時期にも関わらず、すでに護廷十三隊への入隊が決定している秀才。同学年一の有望株であるけれど、それを鼻にかけることなく誰とでも分け隔てなく接する檜佐木に憧れている人はとても多かった。千智の親友である蟹沢ほたるもそのうちの一人だ。千智は机の上に開きっぱなしになっていた手帖をさりげなく閉じて、言葉を返す。

「ずいぶん時間かかってるね。なんか面倒ごとを押し付けられたとか?」
「いや日誌がな。今日なんてずっと座学だったろ。マジで書くことなくてさあ」
「あー、実習も訓練もなかったもんね。確かに内容に困るかも」
「だろ? で、何書くか考えてたら、大宇奈原がキレてチョークぶち折ったのを思い出してさ。けど思い出しちまったが最後、その場面しか浮かばねえんだよ。焦るだろ」

 檜佐木は心底疲れたようすでそう続ける。その言葉に千智は思わずくすくすと笑い声を漏らした。講師の大宇奈原厳呉郎が授業中に生徒の私語に怒ってチョークを握りしめた光景を思い出す。確かにあれは、座学続きの退屈な今日の授業内容の中ではなかなか印象深いワンシーンだった。
 それを伝えようと口を開こうとして、ふと千智を窺うように見つめる檜佐木と目が合った。その瞳の鋭い輝きに千智は思わず口を噤む。

「……あのさあ」
「ん? どうしたの?」
「立花、お前、なんかあった?」
「……何が?」
「いや、気のせいだったらいいんだけど、ちょっと元気なさそうに見えたから」

 そう言って檜佐木は千智から目をそらすと頭を掻く。少しだけ、きまりが悪そうな表情だった。その表情を見てふと気が付いた。先ほどの笑い話は、千智を励ますためのものだ。

「蟹沢と喧嘩でもしたのか?」
「ほたると? いやいやまったくそんなことないよ。ちょっと気分が上がらなかっただけ」

 心配そうにそう問いかける檜佐木のようすに思わず笑みがこぼれた。優しい人だと思う。ただの級友にすぎない千智が落ち込んでいるからと言ってわざわざ声をかけてくれるような人なんて他にいるだろうか。きっと檜佐木のそういう性格が人気のもとなのだろう。そんなことを考えた。

「ごめん、心配かけちゃったね。でも檜佐木くんに気付かれるとは思わなかったなあ」
「ふーん、ならいいけどな」

 檜佐木はそう呟いて視線を落とす。しばらくの間、沈黙が流れた。続くはずの言葉をお互いに探しているような、そんな時間だった。静寂に耐え切れず、千智は無意識に手元にあった手帖にそっと手を伸ばす。その動作に気が付いた檜佐木が口を開いた。

「立花って物持ちいいんだな」
「? どういうこと?」
「手帖。ずいぶん年季が入ったように見えるから」

 知らず知らずのうちに行っていた動作に言及されて、千智は一瞬ぽかんとした表情を浮かべる。しかし、続けられた檜佐木のその言葉に目を瞬かせた。
 手触りの良い、本革の手帖。本革に付き物の経年変化を経て濃い飴色に変わったそれ。かつてまだその手帖が明るい駱駝色をしていたころ、大きな手のひらがそのページをめくっていた、その光景が自ずと目に浮かんだ。

「……これ、実は私のじゃなくて、兄のものだったの」

 それは、突然姿を消してしまった兄の私物のうち、たった一つ千智の手元に残ったものだった。兄が一心不乱に何かを書きつけていたその手帖。兄の足跡を辿りたくてそれを開いてみるけれど、今の千智の知識ではこの手帖に書き込まれている言葉を何ひとつ紐解くことはできなかった。

「へえ、兄貴の。……って悪い。嫌なこと聞いた」

 ごめんな。そう謝罪の言葉を口にする檜佐木に千智は首を横に振る。
 千智が幼少期を五大貴族のうちのひとつ、朽木家で過ごしていたことはいまや周知の事実となっている。縁戚でもない千智が朽木家で暮らしていたことを勘ぐって、根拠のない憶測が飛び交っていたのは霊術院に入学したころのこと。朽木蒼純の妾の子だとか、はたまた朽木銀嶺が光源氏よろしく若紫を育てようとしているだとか、まことしやかに囁かれていたそんな謂れのない噂をきっと檜佐木も知っている。
 そして、それを知っているのなら。千智の血の繋がった兄などといった存在は、疾うにいないということにもきっと気が付いたはずだった。

「気にしないで。檜佐木くんが悪いわけじゃないし。……ていうか私も気にしてないしね」

 ありがたいことに周りの人が優しくしてくれるから。そう続けて千智は口角を上げた。本当に、これまで人に恵まれて生きてきたと思う。そうでなければ、きっと千智はあの夜から時を待たずして命を落としていただろう。だって、お兄ちゃんは —— 。そんな言葉が頭に浮かんで、千智はそっと目を閉じた。そんな千智を見て、檜佐木は言葉を探すようにして口を開く。

「立花さあ。無理して笑わなくていいんだぜ」

 檜佐木のその声に千智ははっと息を呑んだ。いつのまにか俯いてしまっていた顔を上げる。檜佐木は真剣な声色で、はっきりと言葉を続けた。

「泣いちまえとまでは言わないけどさ。蟹沢とか、俺とか。お前のこと心配してるやつたくさんいるんだからな」

 檜佐木のその黒曜石のような瞳がじっと千智を見つめている。きりりとしたその眼差しが千智の心に突き刺さった。本当に優しくて、誠実な人。周りをよく見て、思ったことを素直に伝えられる人。ただの級友相手でさえ、その気が塞いでいればそれを救いあげようとまっすぐにぶつかっていける人。
 そんな人だから、きっとみんなが好きになる。だからほたるだって、他の友人たちだって。そんな言葉が頭に浮かんで、千智はふと気が付いた。
 
  —— どうしよう。好きになってしまった。





「おかえり。遅かったね」

 あれから何とか取り繕って教室を出ると、もう夕日は沈みきってしまっていた。院生寮の前で檜佐木と別れ、女子寮に戻った千智をほたるが出迎えてくれた。

「ごめんごめん、ちょっとぼんやりしてた」
「もー、千智ってばそういうところあるよね。何かあったならちゃんと相談してよー?」

 明るくそう言いながら、ほたるは寮の玄関口から少し入ったところにある長椅子へ座るように千智を促した。そうして何かを取り出そうと手元にあった紙袋をがさごそと探る。あったあった。そう言って取り出したのは霊術院から程近くにある和菓子屋の苺大福だった。

「はい、これ」
「……どうしたの? 急に」
「んー? なーんか悩んでるみたいだったから、これでも食べたら元気出るかなって」

 せっかく買ってきたのに千智ったらなかなか帰ってこないんだから。そう言いながらほたるは手に持っていたうちの一つを千智に手渡すと、自身もその大福にかぶりついた。

「夕食前だから、一個ずつね」
「……ありがとう、ほたる」

 ふふふ、と声に出して笑うほたるの顔。その笑顔が千智はとても好きだった。
 もらった苺大福をかじりながら、ついさっき感じた胸の高鳴りを思い返す。いっそのこと、この甘い甘い和菓子と一緒に飲み込んでしまえば良い。そんな感情がふと芽生えた。きっとほたるのことがなくたって、それは告げることの許されない想いなのだ。心の奥底に秘密を隠したままあの誠実な人に恋心を抱くなんて、とても許されない。そんな気さえした。

「あ、そういえば! ねえねえ聞いてよ〜」
「なに、うれしそうな顔して」
「今度の一回生の実習の引率ね、檜佐木くんと同じ組を受け持つことになったの」

 満面の笑みを浮かべてほたるはそう告げた。
 一回生の魂葬の初実習。卒業前の六回生がその引率をするのが真央霊術院の伝統でもあった。六回生のなかから何名かが選出されて、三人一組で一つの学級を受け持つ。その先導役に、ほたるは選ばれていた。

「よかったじゃん! もう一人は誰だったの?」
「青鹿くんだよ。やりやすい組み合わせで良かったあ。まあそれが千智だったらもっとよかったけど!」

 ほたるはそう言ったけれど、自分がそれに選ばれることなんてありえない。千智はそんなことを考えた。明言されたことはなかったけれど、千智の現世実習の機会が極端に制限されていることにこのとき既に気が付いていた。

「まあまあ、そう言わずに。楽しみだね」
「うん! 頑張ってくるね」

 そんな会話をしたことを、千智は護廷十三隊に入隊した今でもはっきりと覚えている。

 それは、現世へ赴いた蟹沢ほたるが命を落とす、たった二か月前のことだった。
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