05

「悪い」

 雨が強く降る日のことだった。自身もその顔に消えない傷を負いながら、命からがら帰還した檜佐木は千智にそんな言葉を告げた。雨に濡れながら頭を深く下げた檜佐木にかける言葉なんて見つかるわけもなく、千智はただ手に持っていた番傘を彼のほうへと差し向けた。
 固く結ばれた唇を何とか開こうとするけれど、喉の奥がぎゅっと締め付けれられるような心地に苛まれ、何ひとつ言葉を発することなどできやしない。いったい自分は、何を、どう伝えたいのだろう。自らの感情をうまく綴る言葉を見つけられないでいるうちに、ふと檜佐木が嗚咽を漏らしたことに気が付いて、何とか震える声でたった一言呟いた。

「顔を上げてよ、檜佐木くんのせいじゃないよ」

 こういうときにまるで空虚な言葉しか出てこない自分が心底嫌になる。ありきたりで、中身のない言葉を紡いだあとで、そう思った。それは間違いなく檜佐木のせいではなかったし、檜佐木が千智に謝る道理なんて一切ないはずだった。

 一年第一組の魂葬実習にて、巨大虚が出現。院生たちを襲撃した ——
 そんな知らせが舞い込んだのは、檜佐木やほたる、青鹿といった級友が出立した数時間後のこと。一回生に怪我はなかった。咄嗟の判断で檜佐木が先に一回生たちを逃がしたのだという。けれど、檜佐木はその顔に消えない傷を負い、青鹿は重傷とも言える大怪我をした。蟹沢ほたるは、一回目の虚の攻撃によって亡くなった。
 檜佐木らが訪れた場所は、現世の中でも虚の出現率が少ない土地のはずだった。だからこそ院生たちだけで行う魂葬実習の対象地域として選ばれていた。そんな場所で巨大虚、しかも霊圧を消せる虚などという過去に例を見ない存在が現れるなんて、誰も思うはずがない。だからあれはただの事故なのだと、教員たちは檜佐木を励ましていた。

「けど、俺が!」

 それでも、引き絞るような声で檜佐木はそう叫ぶ。そうだ、檜佐木はそういう人だった。例え自分に落ち度など何ひとつなくとも、その場に立ち会った者として、級友としての責任をきちんと果たそうとする、そんな優しい人。きっと檜佐木のそんな一面をほたるも好いていたのだと千智は思う。
 慟哭する檜佐木の体もぼろぼろで、痛々しいほどだった。顔の半分を覆い隠すような包帯がその怪我の酷さを物語っている。
 どうしてあの子じゃなければいけなかったのだろう。どうして大切な人は皆、千智のもとから去ってしまうのだろう。そんなことを考えながら、千智は檜佐木の肩にそっと触れる。雨露にぐっしょりと濡れて冷たくなってしまった体を引き寄せて、ふたり、地面に座り込んだ。赤い番傘が、雨で柔らかくなった土の上にぽとりと落ちる。この優しい人がこれ以上自分を責めなくていいようにその頭を撫でながら、千智はこっそりと涙をこぼした。





 あれから数十年の時が経ち、千智は護廷十三隊に所属する死神として忙しい毎日を送っている。
 入隊と同時に配属されたのは千智が希望していた十二番隊とは全く異なる機能を持つ十一番隊だった。
 どうせ死ぬなら派手に喧嘩で —— 。そんな気風を持つ十一番隊に馴染むのは苦労したけれど、それでもたくさんのことを学ばせてもらった。

「すみません、黙り込んじゃって」
「気にしてないよ」

 そう切り出すと、ずっと頭を撫で続けてくれていた弓親がふっと笑う。千智が十一番隊に入隊した当時、教育係として指導してくれたのが綾瀬川弓親その人だった。
 弓親 —— というよりも、千智の入隊を受け入れた十一番隊の幹部たち、と言ったほうが正しい —— は、千智の事情をよく知っていた。千智の入隊が決まった際、その経歴についての説明があったのだという。隊長の更木剣八は、千智が朽木家で育てられていたことも、兄の存在も、すべて理解した上でこう言った。

「それがどうした? てめえがどこで生まれてどう育ったかなんて知ったことか。大事なのはこれからどう生きるかだろうが」

 これからどう生きるか —— 。その言葉通り、剣八は千智が頑張れば頑張るほど、結果を出せば出すほど評価してくれた。尊敬できる上司だった。斬術や白打の才だけでは体力のある男性の隊員たちと渡り合って行けず、鬼道や瞬歩といった技術面を磨いた千智を馬鹿にする隊士もいたが、剣八はその能力を高く買い、席官の地位を与えてくれた。ありがたいことだな、と強く思う。十一番隊で七席まで昇進し、その後現在の十二番隊に異動した。今の千智の存在があるのは剣八のおかげと言っても過言ではない。

「なんか私、更木隊長に聞かれたら怒られそうなこと言っちゃいましたね」
「本当だよ、うじうじして。怒られてても助けないからね」

 件の斬術訓練が終わったのだろう。俄かに騒がしくなり始めた食堂で、弓親はにやりと笑ってそう言った。どちらともなく食べ終えた食器の乗った盆を持って席を立つ。昼休みも残り僅かとなっている。十二番区にある技術開発局はここからそう遠くはないけれど、早めに戻るに越したことはない。返却口に皿を戻して食堂を出ると、朝方から降り続いていた雨足がまばらになっていることに気が付いた。このぶんなら、傘を差さずとも帰れそうだ。千智は傘立てに立てかけてあった傘を手に取ると弓親に声をかける。

「じゃあ、戻りますね。今日はありがとうございました」
「ああ。じゃ、また」

 そう言って弓親は顔の横で手を振ってみせた。みっともないところを見せてしまった。ほんの少しの反省の気持ちを心にとどめて、千智が技局へ戻ろうと数歩踏み出したところで、弓親が「あ、」と何かを思い出したかのように呟いた。

「そうだ、千智。ちょっと待ってくれよ」
「どうしました?」

 その呼びかけに足を止めると、弓親は霧雨の降る中を小走りで近づいてくる。何か用事でも残していたのだろうか。そんなことを考えながら千智は手に持っていた傘を開いて弓親のほうに差し掛けた。弓親は当然のようにその傘を受け取ると、千智を連れ立って歩き出す。

「明日乱菊さんに呑みに誘われてるんだけど、きみも来るかい? とりあえず一角と恋次は連れて行くけど」

 一つの傘の下、並んで足を進めながら弓親はそんなことを切り出した。十番隊の副隊長である松本乱菊はさっぱりした性格で社交性に富んだ人だ。千智が十二番隊に異動する前は、隣の隊だったこともあり、よく昼食や呑みに連れて行ってもらっていた。そのことを知っているからこそ、こうして弓親も千智に声をかけてくれたのだろう。
 異動してから半年間、業務に慣れることに必死で飲み会から足が遠のいてことも事実だった。久々に、ぱーっと呑みに行くのもありかもしれない。乱菊に弓親、一角や恋次といった気心の知れた面子なら楽しい酒の席になることは間違いがないし、と考えてふと気づく。乱菊がよく呑みに行く顔触れの中には彼もいるはずだ。

「それ、檜佐木も誘われてません? 昨日の今日じゃなくても、さすがに気まずいような……」
「へえ。何か気まずくなるようなことがあったんだ?」
「……そうじゃないですけど」

 弓親の言葉に、言い方を失敗したな、と思いながら千智は足元に目をそらす。瀞霊廷内の道は流魂街のそれとは違いきれいに整備されているけれど、雨が降れば当然土埃が舞う。じわじわと草履と足袋が汚れていくさまを見ながら、何となく自分の心を表しているようだと感じた。
 明確な“何か”があったわけではないけれど、昨日のあのやり取りが意味するところには気が付いていて、だからこそ知らないふりをした。そんな状況ではいささか顔を合わしづらいというのが率直な気持ちだった。弓親は千智のそんな思いを知ってか知らでか、まったく意に介さないようすで言葉を続ける。

「ふーん? ま、来るかもね。乱菊さんが声かけてないわけないし。でもきみ、何があったか知らないけどそういうときは早めに顔を合わしておいたほうがいいよ。まさかずっと避け続けるわけにもいかないんだし」

 その通りだ、と素直に思う。弓親は優しい人ではあるけれど、教育係としての厳しい一面もあった。困難から逃げ出すことを決して許しはせず、いつだって問題に立ち向かっていく精神を説いた。十一番隊での経験は確かに千智の心を強くした。そのおかげで今の自分があるのだと思う。千智が何か躊躇するたびに、弓親はその正論で千智の背中を押してくれる。今回のことも、まさにそれだった。

「……わかりました、行きます」
「乱菊さんには伝えておくよ。十九時集合だからね」

 技術開発局のそばまで来たところで、弓親はそう告げて千智に傘を渡した。じゃあ、また明日。そんな言葉を口にして、弓親は元来た道を帰っていく。
 まばらに降っていた雨はいつの間にか止んでいた。
 
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