06

 西日の差し込む瀞霊廷の通い路を、ほんの少しだけ早足で進んでいく。定時五分前に突然降って湧いた仕事をどうにか片付けて、慌てて技術開発局を飛び出してきたのが十九時過ぎのこと。弓親に誘ってもらった飲み会も、乾杯の音頭をとうに終えているころだろう。
 急な残業が入ってしまったことはすでに弓親と本日の発起人である乱菊に伝えているものの、約束に遅れるというのはどうにも性に合わなかった。誰に対しても礼を欠くようなことがないように。そう言い含めるように育てられた自覚は多分にある。その教えはあの家を出て数十年経つ今も千智に色濃い影響を残しているらしい。
 技術開発局を擁する十二番区を抜け、中央一番区に足を踏み入れる。その区画の中心部にある乱菊お気に入りの居酒屋が本日の会場だ。死神たちの暮らす瀞霊廷は中央一番区を中心に各隊の区画が放射状に広がっている。隊をまたいだ飲み会などが開催される際には、皆が集まりやすい中央一番区の店を選ぶことが多かった。
 護廷十三隊の要たる一番隊隊舎や尸魂界の最高司法機関である中央四十六室が裁定を執り行う中央地下議事堂などが置かれた中央一番区 —— 通称“真央区”にはいつも厳かな空気が漂っている。いつ来てもこの雰囲気には慣れやしない。そんなことを考えながら足を進めていると前方に見慣れた人影を見つけた。

 肩にかかるくらいの長さの濡羽色の髪。その名を表すかのような色白の見目麗しいそのかんばせ。千智の行く先の道を横切ろうとしていたらしいその男もこちらに気付いたらしく、その足を止める。

「あ! お疲れ様です」

 とことこと駆け寄ってそう声をかけると、その男 —— 朽木白哉はこくりと小さく頷いた。

「千智か」
「久しぶりですね。お元気でした?」

 にっと笑いながらそう話しかけると、相対する白哉は生真面目な顔つきで返事を寄越した。

「ああ。……十二番隊はもう慣れたか」
「やっと、って感じです。まあ涅隊長には振り回されっぱなしなんですけど。今日も明日の朝までに提出しないといけない書類を押し付けられたんですけどね、いつ渡されたと思います? 定時五分前ですよ、五分前!」

 やれやれ、と首を振りながら続けられた千智の言葉に、白哉の表情がふっと緩む。その微々たる変化に気付くことができる人は、今やもう数少なくなってしまった。
 幼少期を彼の家で過ごした千智にとって白哉は幼馴染のような存在だった。千智が真央霊術院に入学しあの屋敷を出たころに、彼はあのうつくしい人と結婚した。銀嶺が千智を家に置き始めたときよりもはるかに強く、白哉とその妻、緋真との婚姻が反対されていたのをよく覚えている。その反対を押し切ってまで籍を入れたにもかかわらず、体の弱かった緋真はたった数年の結婚生活を送ったあとあっけなく逝ってしまった。

「息災で何よりだ」

 やわらかな表情でそう言葉を紡いだ白哉を見て、その優しさを理解してくれる人が増えればいいのにと思う。その端正な顔立ちも相まって冷徹に見えるものの、白哉は懐に入れた者に対しては厳しくも温かい。唐突に、彼が数年前に義妹として迎え入れた少女のことを思い出した。なぜ急に彼女を養子として迎え入れたのかはわからない。けれど、いつも寂しげな表情を浮かべた彼女と白哉がもっと仲良くなってくれれば、それは千智にとってもうれしいことだった。

「白哉さんこそ。……って、これからどこか行くところでした? もしかして引き止めちゃってます?」
「いや、金印会に寄ってきたところだ。もう帰る。お前こそ用事があったんじゃないのか」
「あはは、今から飲み会で。実はもう始まってるんですけど」

 護廷十三隊の隊士たちに人気の、手ごろな価格帯の居酒屋の名前を口にする。なかなかそういった大衆店に足を踏み入れることなどないのだろう。白哉はそれがどこにあるのかすらわからないようすだったが、千智のその言葉にそうか、と小さく呟いた。

「ならば早く行ったほうが良い。……が、一つだけお前の耳に入れておきたいことがある」
「どうしたんですか?」

 そう尋ねると、白哉は少しだけ逡巡するような表情を見せる。幼いころならいざ知らず、冷静沈着な一面を身に着けた現在の彼にしては珍しい表情だった。もうほとんど沈みかけた太陽が、細長く伸びるふたりの影を色濃く地面に映し出している。その影を目で追うようにほんの一瞬千智から目をそらした後で、白哉は意を決するような面持ちで口を開いた。

「近ごろ、妙な虚が流魂街をうろついているらしい」
「と、言うと?」
「姿が見えない、霊圧も補足できない。それでいてそれが何かを襲った痕跡だけは強く残る、そういう虚だそうだ」

 霊圧を補足できない虚 —— 。それを聞いた瞬間に思い出したのは、かつての友人の命を奪った虚だった。確か、あの巨大虚も霊圧を消せたはずだ。

「そのうち技術開発局に調査依頼が行くだろう」

 そう続けたあとで、白哉は口を閉ざして千智の顔をじっと見つめた。何かを探ろうとしているような、そんな視線に思える。友人の仇とよく似た虚の存在を千智に伝えてしまったことを慮っているのだろうか。そんなことを考えて、ふと気が付いた。千智が院生時代に友人を亡くしたことは知っていても、その原因となった虚がどんな能力を持っていたかまで白哉はきっと知りはしないだろう。

「その虚はいくつか決まった場所に現れる。六番隊の管轄地域もその一つだが、先日別の地域にも出現した」
「……どこに出たんですか」

 その問いかけに、白哉はひとつの地名を告げた。なるほど、彼が言い淀んだ理由がよくわかる。そして、わざわざ千智にそのことを知らせたわけもしっかりと理解した。
 千智の兄が姿を消す前、最後に訪れたとされる場所 —— 。それがその虚の出現地だった。
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