07

 白哉と別れ、乱菊たちが待つ居酒屋へと足を進める。その瞳に心配の色を浮かべた白哉の表情を思い出す。何事にも動じず、常に落ち着き払った印象を与える白哉だが、彼の本質はそうではないことを千智はよく知っていた。きっと彼は千智が動揺すると思ったのだろう。だからこそ技局に正式な調査依頼が来て千智が唐突にその地名を目にする前に、それを伝える役を買って出たのだ。不器用な優しさを持った人だと思う。そして、そんな彼が気遣ってくれることをありがたいと感じた。
 自分でも意外なことに、不思議と心は凪いでいた。あの場所に奇妙な虚が出るなんて、当時のことを連想しても仕方ないはずなのに —— 。長い歳月の経過は千智の心を強くしたのかもしれない、なんてことを考えているうちに赤い暖簾のかかった居酒屋に辿りついた。この店こそが、今日の宴会の会場だ。

 暖簾をめくって店に入ると、その店の一番奥の座敷にとりわけ目立つ集団が座っている。千智は店主に軽く頭を下げるとその座敷に近づいた。

「おう、遅かったな」
「お疲れ様です。技局を出ようとしたら急に仕事を振られるんだから、参りましたよ」

 千智が到着したことに真っ先に気付いたのは座敷の入口近くに座っていた班目一角だった。その向かいに座った弓親と、弓親の隣にいた恋次がこちらを振り返る。どうやら十一番隊の面子がここには固まって座っているらしい。

「お疲れ。一角の隣、空いてるよ」
「あ、じゃあ失礼します」
「あら、千智! 遅かったじゃなーい!」

 弓親に促され、座敷に上がるべく草履を脱いだタイミングでひと際大きな声が千智を呼んだ。声の聞こえた方向に顔を向けると、座敷の奥に座った乱菊が千智に向けて手を振っている。人好きのする笑みを浮かべた乱菊はすでに出来上がっている様子で、目の前の机には一升瓶がいくつか置かれていた。乱菊の隣は雛森が、向かいの席には檜佐木や吉良が座っている。

「すみません! 急に仕事が入っちゃって」
「いいのよお。ていうかそんなとこに座らないでこっち来なさいよ」

 そんなとこってなんだよ、と一角がこぼすのもお構いなしとばかりに、乱菊が千智を手招きする。どうやらお呼びみたいっスね。そんなことを恋次が酒を啜りながら呟いた。ほんの少しだけ身構えると、こちらを振り向いた弓親と目が合った。その目にはどこか面白がるような色が浮かんでいる。その目を見て、千智はこっそりとため息をついてから奥の席へと足を進めた。
 乱菊に呼ばれるのは良い。会うのも久々だし、積もる話もたくさんある。けれど —— 。そんなことを考えていると、ほんの一瞬、乱菊の向かいに座った檜佐木と目が合った。ちょっと気まずい。そう思いながらも、なぜだかどきり、と心臓が跳ねるのを感じて千智は思わず目をそらしてしまう。

「ちょっと修兵、詰めて詰めて」

 そんな千智の葛藤など知る由もない乱菊が、檜佐木にそんな声をかける。こっち結構狭いんすよ、なんてことを口では言いながらも、檜佐木は隣に座る吉良に近寄る形で人ひとり分の席を開けた。
 先ほどの白哉の言葉には狼狽えることなどなかったはずのに、どうしたことかここに座るというたったそれだけのことに心臓が波打つような心地がする。どぎまぎする気持ちを隠しながら席につくと、檜佐木は何も気付かないような様子で千智に品書きを手渡した。

「ほら、お疲れさん。何呑む?」
「あ、ありがとう」

 品書きを受け取り礼を言うと、檜佐木は「おう」と軽く答える。何のことはない、いつもと同じ態度の檜佐木に少しだけ心が落ち着いた。
 品書きの中から好きな銘柄の果実酒を選び、注文する。店員が運んできたそれを受け取ると、目の前に座った乱菊がにこやかに切り出した。

「元気にしてたー? 最近顔見ないから心配しちゃった」
「元気ですよ。異動してちょっとバタバタしてましたけど、だいぶ慣れましたし」
「千智さん、十二番隊に移って半年くらいでしたっけ?」

 乱菊の隣に座る雛森がそう問いかける。両手で包み込むようにグラスを握る姿がなんとも愛らしい。明るく真面目で人懐っこい性格の雛森は千智にとってもかわいい後輩だ。

「そうそう。ちょうどそれくらいかな」
「あんたがいなくなってからお昼一緒に食べることもなくなったし寂しいわあ」
「一区画挟むと移動に時間かかるからなかなか厳しいですよね」
「あれ、お二人ともそんなことされてたんですか?」

 千智の言葉に雛森がいいなあ、と呟いた。

「隊舎が隣だったからよく待ち合わせして行ってたのよ。ま、休憩時間なんて作ればいいんだからまた行きましょ! 今度は雛森も一緒にね」
「わあ、ぜひお願いします!」

 そんな会話をしていると、ふと雛森の持つグラスが空になっていることに気が付いた。品書きを渡そうと手に取ると、その動作に気付いた檜佐木が小声で千智に話しかける。
 それ貸して。唐突に言われた言葉にその意味を考える間もなく机の下で品書きを渡すと、檜佐木は受け取ったそれをそのまま隣にいる吉良に差し出した。
 そのまま何かを吉良にささやくと、吉良はわずかに顔を赤くして檜佐木に何かを言い返した。そんな吉良の言葉に檜佐木はくつくつと声を押し殺すように笑ってみせる。どうしたのだろう。そんなことを考えていると、吉良が覚悟を決めたように前を向き、乱菊と談笑している雛森に声をかけた。

「雛森さん、グラス空いてるけど、次どうする?」

 そう言って品書きを手渡せば、雛森はにこやかに礼を言って品書きを受け取った。

「わあ、吉良くんありがとう!」

 雛森のその言葉に照れたような表情を浮かべる吉良を見ていると、期せずしてこちらを向いた檜佐木と目が合った。なぜだか檜佐木はふっと笑って目の前にあったお猪口に手を伸ばす。どこか得意げな表情を浮かべるその顔を見て、千智はなるほどと思う。

「……吉良くんってそうなんだ?」
「ああ。本人に聞いた。つーか前に阿散井と三人で飲みに行ったときに聞き出した」

 小声でそう尋ねると、檜佐木も声を落としてそう返した。年次が近いことや女性死神協会での繋がりもあり、雛森とはふだん交流があるものの、千智は吉良とはそこまで親しいわけではない。だからこそ、吉良が雛森に好意を持っていることに今日初めて気が付いた。

「あんたたち仲良いわねえ。吉良とは同期なんだっけ?」

 檜佐木と千智の会話に耳を傾けていた乱菊が、にやにやとした笑みを浮かべながら隣に座る雛森にそう問いかける。先ほどから酒を注いでは呑み、注いでは呑みの状態で、いよいよ酔いが回ってきているように見えた。

「はい! 今日来てる中で言うと、阿散井くんもそうですよ」
「ふーん、そうだったのねえ」

 雛森の明るいそんな返事に、乱菊はどこか愉しげな表情を浮かべて吉良に視線をやる。思わず目をそらした吉良の様子を見て、千智は心の中で合掌した。こうなった乱菊はもう誰にも止められない。きっと明日からそのことでからかわれる日々が始まるだろう。そんなことを考えていると、乱菊がこちらに向き直り口を開く。何となく嫌な予感がした。

「そういえば、修兵と千智も同期よね。なんかあんまりそんな感じしないけど」

 こっそり後輩を哀れんだ罰が当たったのだろうか。平然を装って言葉を交わしていたものの、その会話に少しの気まずさを感じていた相手との話を振られて千智はわずかに動揺した。その心の揺らめきを隠すように、千智は手元にあった酒で喉を湿らせてから口を開く。

「あれ、そうですか?」
「あんたたち二人とも飲み会には来るけどそんなにしゃべってるとこ見ないし」

 乱菊はお猪口を呷ったあとでそう言った。その言葉を聞いて、あれ、とどこか違和感が頭をかすめた。

「同期の中じゃ割と仲良いほうだと思いますよ。院生の時も同じ組だったし。なあ、立花」

 手酌で酒を注ぎながら、何も気にしていない様子で檜佐木がそう答える。淡々としたその様子に、千智は少しだけ面食らいながらも言葉を続けた。

「え、ああ、そうだね。ていうか普通にしゃべってますよ?」
「そう? ま、千智と弓親の組み合わせをよく見てたからそっちの印象のほうが強いだけかもね」

 乱菊はあっけらかんとそう言ってみせた。他意のないその言葉にほっとして、そっと手元にあったグラスを握る。中に浮かぶ氷がコロンと音を立てた。その音を聞きながら、先ほど感じた違和感に思いを馳せる。
 乱菊に言われた通り、檜佐木とこんな席で会話するなんて、これまであまりなかったということに初めて気がついた。放課後の教室や誰もいない給湯室。檜佐木と言葉を交わすのはいつだってそんな場面だった。




「あら、もうこんな時間だわ。いったん出ましょうか」

 二十一時を過ぎたころ、居酒屋の壁時計を見た乱菊がそう切り出した。
 外に出ると、とうに日は落ちてしまったものの、空にはまばゆいばかりの星が輝いている。あと一週間も経てば七夕だ。そろそろこの長雨の季節も終わりを迎えるのだろう。
 ほんのりと酒が回り、何となく空を見上げる。ぬるく湿った風があたりを吹き抜けて、千智はどこか汗ばむような心地を覚えて首元を手で拭った。
 店から少し離れた場所で、はじめに店を出た檜佐木や吉良、雛森たちが和気藹々と言葉を交わしている。その数歩手前では、酔っ払った恋次が一角に何かを捲し立てていて、一角がいかにもめんどくさそうな様子で応対していた。

「恋次って意外に絡み酒ですよね」
「酒に弱いわけじゃないんだけどね」

 そんな光景を見ながら、千智は隣に立つ弓親とそんな言葉を交わしていた。一角が助けを求めるようにこちらを見たものの、弓親はそれをひらりと手を振ってかわしてしまう。

「今日、来てよかっただろう」
「……そうですね」

 視線を前に向けたまま、唐突に弓親がそんなことを口にした。座敷の端と端という遠く離れた席に座っていたにも関わらず、千智のことを気にかけていてくれたらしい。肩につかないよう丁寧に切り揃えられた弓親の髪が梅雨時の湿度を含んだ風に揺れていた。そのさまを見ながら、千智は感謝の言葉をぽつりとこぼす。弓親はふふ、と笑ってみせた。

「あ、乱菊さん。お会計ありがとう」
「いいっていいって! さーて、二軒目行くわよ!」

 ほんの一、二分ほど経っただろうか。勘定を取りまとめて会計を済ませた乱菊が明るく店主に礼を告げてこちらに向かってくる。そのことにいち早く気が付いたらしい弓親が礼を言ったのに合わせ、まばらにみんな感謝の言葉を述べた。どうやら夜はまだまだ続くらしい。
 時間的にももう一軒くらい行ってちょうどいいくらいだしなあ、なんてことを考えながら千智は乱菊にこっそりと話しかける。

「すみません。私明日早いので、先に帰らせてもらいますね」
「えー! 帰っちゃうの?」
「久々だし私も行きたいんですけどね……。さっき涅隊長に言われて片付けてきた仕事、朝一で提出なんですよ」

 つい先ほどまで格闘していた書類を思い浮かべながら千智はそう告げた。提出が遅れでもしたら何をされるか分かったものじゃない。自隊の隊長である涅は優秀な上司だが、基本的に自分の役に立たないものにはとにかく冷たかった。研究者としてはまだまだ他の局員には敵わない千智としては、事務仕事くらいきちんと片付けなければ、と思うのだ。

「しょうがないわね。また今度、近いうちに行きましょ」
「はい、またぜひ」

 乱菊とそんな会話をして、隣にいた弓親にもぺこりと頭を下げる。他の面々はすでに次の店に当たりを付けて移動し始めていた。わざわざ引き止めてまで挨拶するのも悪い気がして、そのままふたりと別れ、数歩進んだ。後ろから思いがけない言葉が聞こえたのはそのときだった。

「あ、俺もこいつ送って帰ります」
「そお? じゃ、任せたわよ〜」

 聞きなれた低い声に、訳もなく心臓が波打つのを感じる。そっと振り向けば、檜佐木がこちらに近づいてくるのが分かった。乱菊は軽い口調で返事をすると次の店へと向かうべく、先に足を進めていた一角たちのほうへと向かって歩き出した。
 時間にしてほんの一瞬。何か思考を巡らせる間もなく、檜佐木が千智の目前へと現れた。

「……ってことだから、送るわ」

 どこか視線をそらして、頭を掻きながら檜佐木はそう告げた。酔いとは別の何かが、千智の頬を熱くする。視界の端で弓親が振り返り、にやりと笑ったのが見て取れた。

「……よかったの? 二次会」
「まあいつもの面子だし誰も気にしねえだろ。行くぞ」

 そう言って歩き出した檜佐木の背中の後を追うように千智もやっとのことで一歩を踏み出した。それはまるであの日の焼き直しのような光景だった。
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