08

 繁華街を抜け、静まり返った中央一番区をふたり並んで歩いていた。人通りも少なくなった夜の真央区にはどこか張り詰めた空気が漂っており、緊張を感じさせるほどだった。
 漆を塗られたように黒く染められた夜空を見上げると、きらきらと光るたくさんの星が浮かんでいる。まるで無数の金剛石が織り込まれた帯のように星々が連なる光景を見て、千智はそっと夏の訪れを感じていた。

「ほんとあっついな、今日」

 汗を拭うように髪をかき上げて、隣を歩く檜佐木がそんなことを呟いた。梅雨の終わりを告げる白南風がふたりの間を吹き抜け、その髪は風に吹かれ重力に従うようにはらりと額に落ちる。初めて出会った院生時代にはもう少しだけ長かったその髪も今やすっかり整えられ、彼の精悍な顔立ちを際立たせていた。

「梅雨ももう終わるみたいね。昨日はぽつぽつ降ってたけど、今日は晴れてたし」
「夏が来るのもあっという間だな」

 そんな言葉を交わしながら、ゆっくりと足を進めていく。ともすれば手と手が触れ合ってしまいそうな、そんな距離感を保ちながら千智はそっと檜佐木の方に視線を向けた。
 ふと隣を歩く檜佐木の顔を窺うと、彼はまっすぐに空を見据えている。研ぎ澄まされた鋭い瞳。その目がじっとこちらを見つめたあの晩のことを、千智はどうしても意識せずにはいられなかった。

「なあ、やっぱり深い意味があるって言ったらどうする?」

 あの夜、千智のまっすぐ見つめてそう呟いた檜佐木の低い声を思い出す。あのときは何とかその問いかけへの答えをはぐらかしたけれど、もしもう一度同じことを言われたら、今度はきっと誤魔化すことなどできないだろう。

「そういえばさ」

 言葉は途切れ、辺りにはふたりの足音だけが響いていた。その静けさを切り裂くように檜佐木が唐突に口を開く。こちらに顔を向けた彼と思わず目が合って、千智は慌てて目を逸らした。そんな千智の行動を気にも留めない様子で檜佐木は言葉を続ける。

「こないだはごめんな」
「何のこと?」
「いや、急に黙り込んだりしただろ」

 檜佐木はそう言うと再び目線を前に戻した。どうやら彼もあの夜のことを思い出していたらしい。あの日の帰り道も今日と同じように千智を送ってくれた檜佐木だったけれど、ふたりの間に会話はなく、ただ隣に並んで足を進めるのみだった。

「……気にしないよ、そんなの」

 何となく、彼がそれを気にかけていたことが淡く心を揺さぶって、千智は目を細めて地面に視線を落とす。瀞霊廷の整備された真っ白い路面。気が付くとそこには月明かりに照らされたふたり分の影の鈍色だけが色濃く映っていた。

「もしかしてずっと気にしてた? 檜佐木って、意外に心配性だよね」
「初めて言われたな、それ」

 小さくそう呟くと、檜佐木はふっと穏やかな笑みを浮かべる。少し照れたような、それでいてどこか嬉しそうな、そんな表情だった。その面差しを見て、千智はなぜか彼とふたりきりで初めて話したあの春の放課後のことを思い出した。
  —— 夕暮れの誰もいない教室。目の前には檜佐木がいて、その彼の優しさに息の詰まるような恋をした。当時ほとんど会話もしたことがない千智を気にかけて、言葉を選びながら励まそうとしてくれた彼の姿は今でも鮮明に覚えている。悩んでいる人を放っておけない彼の誠実さは今でも全く変わりはしない。

「心配性って言うとやっぱりちょっと違うかもだけど。でも、周りのことをよく見てるし、実はかなり気配りしてるんだなって思うよ」

 思いのほか酔いが回っているのかも。言葉を紡いでから、そんなことを思う。それはこれまで一度も口にしたことのない、そして告げるつもりなど一切なかった言葉だった。

「六回生のころ、一度放課後に二人で話したこと、覚えてる?」
「ああ」
「私、あのとき檜佐木に言われた言葉に救われたの」

 そっと彼のほうに顔を向けると、檜佐木もこちらを静かに見つめていた。その瞳に宿る熱が酒のせいであることを祈りながら、千智はまた口を開く。

「ありがとう」
「礼言われることじゃねえよ、そんなの」

 どこか面映げな表情でそう呟いた檜佐木の表情に千智は目を細める。親友の想い人に抱いた気持ちを誰かに共有することなんてできるわけもなく、胸の奥底に押し込めたはずのあの恋着。その思いが知らず知らずのうちに心に沸き上がり、千智はあのときと全く同じ気持ちで今ここに立っている。
 ああ、また仕舞い込んでおかなければ。そう考えて千智は人知れずため息を吐いた。もう何年も何十年も隠してきたはずの感情が、ここ数日は浮き彫りになってしまっている。そのきっかけとなったのは、昨日のこと。弓親と交わした会話だった。

「ねえねえ、付き合わないの?」
「付き合わないですよ。誰とも」


 弓親にはっきりと言い当てられた憂慮に思いを馳せる。千智が思慕の情を隠しておきたいのは何も亡くなった親友の好きな人だから、という理由だけではない。きっと誰に恋をしても、千智はそれを伝えることはしなかっただろう。その根幹は、弓親の言う通り百年前に姿を消した兄の存在にあるのだから。

「……あのさ」
「なあに?」
「俺、ずっとお前に聞きたかったことがあるんだけど、聞いてもいいか」

 そんなことを考えていると、檜佐木がふう、と大きく息を吐いた後でそんなことを切り出した。たった今浮かんだ感情をそっと隠すように口元に笑みを浮かべる。彼が続けたのは、予想だにしない言葉だった。

「綾瀬川と付き合ってるのか?」

 今しがた思い浮かべていた人の名前が檜佐木の口から飛び出して、少しだけ動揺する。

「えっ、弓親さん? 付き合ってないよ、入隊したころからよくしてもらってはいるけど……。なんで?」
「昔から仲良いだろ。昨日も一緒に歩いてるの見かけたし」
「ああ、一緒にお昼食べてたのよ。弓親さん以外の隊員が斬術訓練でいないからって呼び出されたの」

 それは嘘ではないけれど、もちろん真実すべてではない。弓親が昨日千智を呼び出したのはその前日に千智と檜佐木がふたりで夕食を共にしていた姿を見たからだ。しかしそれを伝えるのは憚られて、千智はまるで言い訳をするかのように檜佐木の言葉に返答した。

「そうか。いや、なんか昨日見かけたときにずいぶん距離が近かったから気になったんだ。変なこと聞いて悪いな」

 檜佐木はと言えば、納得したような、それでいてどこか腑に落ちないような、そんな相反する感情をその顔に浮かべてこちらを見つめている。
 距離が近いといえば、弓親に呼び止められ、ふたりで一つの傘の下、十二番隊までの道を歩いていたときのことだろうか。確かに傍から見ればただの同僚と言うには近すぎる距離感だったのかもしれない。けれど、相手はあの弓親だ。弓親も千智も、友愛以上の感情を持ちえないことはお互いにはっきりと認識している。
 そのことを弁明しようとして檜佐木のほうにそっと目を向けたあとで、千智はまたその視線を足元に移した。つい先ほど自らの気持ちを隠してしまおうと決めたところなのに、どうして必死に言い訳をする必要があるのだろう。

「ううん、気にしないで」
「そう言ってもらえると助かる」

 そんなふうに言葉を濁すと、檜佐木はそっと笑ってそう呟いた。





 ふと気が付けば、中央一番区の整然とした街並みを過ぎ、目の前には木々が広がっていた。真央区からの視線を遮るように植えられたその木々を抜けると、そこには技術開発局が管理している庭園がある。実験に用いる植物の菜園も兼ねたその庭園を越えると十二番隊の隊舎はすぐそこだ。

「送ってくれてありがとう。ここを通り抜けたらもうすぐだから、ここまでで大丈夫よ」

 千智はそっと足を止めてそう切り出した。檜佐木のほうへ視線を向けると、彼はほんの僅かに逡巡するような沈黙のあと言葉を続けた。

「……いや、ここまで来たら隊舎の前まで送っていくわ」

 そう呟くと檜佐木は一歩踏み出した。月の光をその背中に背負い、逆光に照らされた檜佐木の表情が読み取れなくて、千智はなぜか足を進めるのを躊躇する。数歩先に進んだ檜佐木がこちらを振り返り、立花、と呼びかけるのを聞いて、千智は慌てて彼の背中を追った。

「ここ、こんな感じになっているんだな」

 庭園に足を踏み入れると、そこにはさまざまな草花が咲き、ささやかな小川が流れている。技術開発局の局員以外の死神が普段ここに来ることはほとんどなく、檜佐木もその例外ではなかったらしい。物珍しそうにあたりを見回す檜佐木はどこか幼げにも見えて、千智はこっそりとそれを目に焼き付けた。

「あんまり来たことないでしょ? 実験用の草木の栽培場所でもあるから、技局員はともかくうちの一般隊員でも来たことない人いるんじゃないかな」
「へえ。しかし見事なもんだな。瀞霊廷にこんな場所があるなんて」
「他の隊の区画に行くと見慣れないものとかあって面白いよね。私いまだに九番隊の隊舎と編集所はどっちがどっちかわからなくなるわ」
「あー、確かに似たような姿かたちしてるしな」

 他愛もない会話をしながら、檜佐木とふたり、ゆっくりと歩みを進めていく。あたりには水の流れる音が微かに響いていて、今日一日揺れ続けていた心も落ち着く気がした。
 段々水の音が大きくなり、この庭園に唯一流れる小川が近づいていることに気が付いた。ゆるやかに流れる水の動きは、月影を反射するようにきらきらと揺らめいている。足元に光るきらめきをぼんやり見つめていると、そのなかの光の一つがふんわりと浮き上がった。

「……蛍だわ」

 ふと気が付くと、そこには夜空に浮かぶ星々にも似た儚い光がいくつもいくつも灯っている。瀞霊廷内では珍しくここには水辺も植物もそろっているものの、ここに蛍が生息しているなんて、庭園を管理する十二番隊の隊員である千智ですら知りはしなかった。誰かが技局に持ち込んで繁殖を試みたのだろうか。そんなことは日常茶飯事だったから特に気になりはしないけれど、その朧げな輝きは千智の心をそっと締め付けた。

「……きれいね」
「……ああ」

 思い出したのは、かつての親友のことだった。夏を彩る名を持った彼女は、今の千智を見て何を思うのだろう。親友と同じ人を好きになって、その親友が亡くなったあとも彼の近くに立ち続ける千智に何を言うのだろう。
 そんなことを考えながら、彼女の穏やかな笑顔が脳裏に浮かんで千智は小さくかぶりを振る。千智が想いを隠し続ける理由を彼女に紐づけるのは、彼女に対する冒涜にも思えた。

「立花、今何考えてる?」

 唐突に檜佐木がそんな言葉を口にする。まるでつい今しがた考えていたことを見透かすかのようなその言葉に、千智は思わず苦笑を漏らした。そのままちらりと隣に目をやれば、彼がどこか意を決したような面持ちで佇んでいることに気が付いた。

「何にも」

 息を吐くように嘘をついて、千智は彼のその意志の強い切れ長の瞳をじっと見据える。檜佐木は何も答えず、ただまっすぐこちらを見つめていた。どこか居心地が悪く思えるような、そんな沈黙だった。その静けさをどうにか切り抜けてしまいたくて、千智は檜佐木からそっと目を逸らす。

「立花。なあ、聞いてくれ」

 それは、きわめて穏やかな口調だった。けれど、はっきりと意志を持った強い声色に、千智は思わず顔を上げる。

「お前、もしかすると俺の言いたいことに気付いてるかもしれないけど」

 その言葉に吸い寄せられるように、逸らしていた目を彼に向けた。千智をじっと見つめる檜佐木の瞳には、まるで燃え上がるような熱が灯っている。その熱の意味を理解した途端、千智はただその心臓が早鐘を打つように高鳴るのを感じていた。つい先ほどまで聞こえていた水の音も風の吹く音も、まるで消え失せてしまったかのように思えるその空間に、檜佐木の低い声が響く。

「好きだ。……多分、もうずっと昔から。俺と付き合ってほしい」

 生温い風が頬を撫でる。どこか照れくさそうな、それでいて慈しむような彼の面持ちに胸をぎゅっと締め付けられるような心地がした。
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