01

 古びたアパートの裏手にある山を、中腹まで登ったところにその宗教施設はあった。
 いつからあるのかはわからない。つい先日造られたようにも見えるし、この地に昔から根付いていたようにも思える、そんな具合である。
 山間の地でひっそりと信者を増やしつづけているその宗教は、何年か前までは「盤星教」という名で呼ばれていたらしい。改名したのは私がこのアパートに住み始めるよりもはるか昔のこと。だから詳しいことは何もわからないけれど、信者たちは件の宗教が名前を変えた理由をこう説明している。
――曰く、「仏様が顕現された」と。

 仏様――。すなわち、この宗教の教祖は、ときたま下山してふもとの町を歩き回っていることがあった。僧衣に袈裟をまとった、長髪の男性である。加えてかなりの長身で、いくら東京にほど近いとは言え、この片田舎では町を歩くだけで人目を引きつける、そんな不可思議な存在だった。
 教祖は見かけるたびに、面妖な佇まいの人間を連れていた。凛とした佇まいの女性や、外国の生まれに見える屈強な男たち、顔面に火傷のような傷跡の残る若い男性、果ては制服姿の女の子。統一性のまったく見えないその集団は非常に気味が悪く、何だか近寄り難くさえ思えた。
 しかし、そんな奇妙な面々なんかより、いっとうおそろしく思えたのは、彼を囲む人々すべてがその教祖を慈しむような、恋慕うようなそんな視線を向けていたことだった。
 教祖はいつも、そんな視線にはいっさい気づいていないとでも言うかのごとく、瑞々しい笑みをその端正なかんばせに湛えていた。

――化け物のようなおどろおどろしい「それ」を、そのたくましい肩に背負いながら。





 秋の日差しは夏のそれのように刺々しくはなかったけれど、それでも晴れ間が続けば気温は上がり、汗がにじむ。
 日曜の昼間。アパートの庭で雑草を引き抜きながら、私は軍手におおわれていない右腕で額の汗を拭った。
 古いながらもきちんと整備された、設備の整ったアパートである。加えて自転車で十数分も走れば私鉄と地下鉄が相互乗り入れをしている駅に辿り着く、そんな利便性の高い立地。想像通り、家賃は相場よりも高かった。
 少しばかり予算を越えていた家賃を下げてもらいたい私と、ガーデニングが趣味の腰が悪い大家のおばあさん。賃貸物件の仲介業者も交えた交渉の末、双方の利益が一致して、アパートの庭の手入れは私の週末の恒例行事となった。
 季節ごとに花を定植したり、はたまた追肥をしたり。大家さんの指示に従って作られた庭は四季折々の風情を見事に表現している。花にもずいぶん詳しくなった。春先に植えたダリアやグラジオラスがようやく見頃を迎えた際には何だか嬉しくなって思わず撮った写真をSNSに投稿したものだった。
 草むしりを終え、集めた雑草をゴミ袋に纏めた後で、私ははめていた軍手を手を汚さぬようにゆっくりと引き抜いた。汗をかいた手のひらが秋風に触れ、少しだけ涼しさを感じる。クゥン、と足元で鳴き声が聞こえていた。私はその声の主をそろりと撫でて、それから水やりをするべく庭の端にある立水栓から伸びたホースを持ち上げた。
 散水ホースの先から、シャワーのように水が降り注いでいく。花壇の端から端までをゆっくりと移動して、漏れのないように均等に水を撒いていると、色とりどりの花が咲き誇る花壇に七色の虹が架かった。平和な光景だな、と思う。クラシックの一つでも流れていたら完璧だったのに、とも思った。BGMのように、大家さんの部屋からは経を読み上げる声が響いていた。




「薬師如来のようなお方でしょう」

 笑い皺の刻まれた顔をうっとりと緩ませて、大家さんは歌うようにそう言った。
 「盤星教」が名を変え、年若い柔和な顔つきの男が教祖となって数年が経ったころ。たまたま近所の人に誘われて訪れた集会で、彼女は不思議な力に出会ったのだと言う。

「まるで神の御業よ」と、彼女は微笑んだ。

 酷い肩凝りに悩まされ、縋る思いで参加した集会で、大家さんは教祖への謁見を許された。教祖の男はまるで苦労を労わるかのようにゆっくりと彼女の肩を撫でる。たったそれだけの行為によって、悩みの種であった肩の痛みが嘘のように霧散した、と少女のような笑顔で彼女は語っていた。

「次は腰の痛みを治して頂かなくちゃ」

 そう呟く彼女は、ほとんど毎日のように読経を行い、拝殿を参拝する敬虔な信者となり果てている。

 私がその話を初めて大家さんから聞いたとき、「なんて胡散臭い話なんだろう」と、率直に思った。私がこのアパートに入居したのは、まだ大家さんが肩凝りに悩んでいたちょうどその頃である。
 神様だか仏様だか知らないが、おそらく彼女の腰痛はいくら信心を起こそうとも治りはしない。
 なぜなら肩凝りに悩んでいたころに彼女の肩に鎮座していた、腕の数が異様に多い爬虫類らしきものはどこかに消え去ってしまっていたからだ。


――妖怪。お化け。魑魅魍魎。
 それらを示す言葉はたくさんあれど、適切な名前で言い切ることが出来るのはきっとほんの僅かな人間だけだろう。
 大家さんの肩に纏わりついていたあの化け物は「呪霊」と呼ばれるものだ。人間の負の感情がどろりと固練り、とぐろを巻いて「呪い」となる。

 それを知っていれば。もしくは「呪い」を視認出来ていれば。

 大家さんはきっとこの新興宗教にのめり込むことはなかったはずだ。彼女の肩凝りの原因は呪霊だった。だからかの教祖もそれを祓うことが出来たけれど、その腰痛は単純に加齢によるもので「呪霊」を祓ってどうにかなるものでは、ない。

 散水を終え、使っていたホースをぐるぐる巻き取りながら彼女が作り出した庭を眺めていた。
 「騙されていますよ」と、教えるつもりはまったくなかった。綻ぶように笑う彼女の表情を曇らせたくなかったし、わざわざ「呪い」の何たるかを説明して、頭がおかしいと思われるのも嫌だった。
 足元でまた、キューン、キューンと声が鳴いている。ホースリールを定位置に戻した後で、私はそっと足元を見降ろした。声の主に目線を合わすべくしゃがみ込もうとして、ふと、じりじりとした太陽の光が遮られたことに気が付いた。ひどく背の高い、人間の影が地面に伸びている。

「やあ、暑いですね」

 声を聞いたのは初めてだった。
 振り返ると、秋晴れの暑い日にも関わらず、黒々とした正絹の僧衣を身に纏った男が親しげに片手をこちらに振っている。汗の一つも掻いていない静謐な佇まいと、まるで昔からの友人であったかのような気安い態度。なんだか少しぞっとした。たとえば、一度も言葉を交わしたことなどないはずなのに、彼のことを私はよく理解している、そんな不可思議な感覚。それを味わいながら、私はその男――件の新興宗教の教祖に視線を合わせた。

「井上さんのお孫さんかな?」

 男は目の前にあるアパートを指さすと、やわらかい口調でそう問いかける。男が束ねる宗教の熱心な信者である大家さんのことだろうか。そう判断して、私は首を横に振る。

「違います」

 そもそもの話をすれば、大家さんの苗字は「井上」ではなく「井口」である。けれど、彼の口から言葉が飛び出すと、まるでそれが世界の真理であるように感じられた。

「なるほど、私はこういう者ですが」

 男はやたらと絵になる気取った動作で袂からちいさな本革の名刺入れを取り出すと、その中の一枚を私にそっと手渡した。そこには裏山にある宗教団体の名前と、「夏油傑」という文字がかっちりとした明朝体で記されている。

「そいつのことが気になってね」

 夏油さんはゆるりと右腕をあげて、私の足元にうずくまる「それ」を指さした。彼の動きに合わせるように、しっとりとしたお香の匂いが鼻孔をくすぐる。

「君にも見えているようだったし」

 私をじっと見つめていた冷えた眼差しが、流れるように下へと降りた。彼の視線の動きに合わせるように、私も足元を見下ろすと、白い狼のような大きな何かが丸くなって眠っている。大型犬のように見えるけれど、そうではないというのははっきりとわかる。本来やわらかい体毛に包まれているはずの体表が、ぬらぬら光る白いうろこに覆われていた。

「祓ってあげようか?」

 端的に問いかけられて、ほんの一瞬、迷ってしまう。けれど、すぐに私のなかで答えが出た。

「これは私のなので、退治されると困ります」
「これが何か知っていると?」
「呪霊でしょう? 私の血筋に憑いているものなので、よく知っていますよ」

 海を知らない夢想家が、魚を模して作ったような呪いの類聚。どういうわけだか狼を形どってしまったそれは、私の血族に代々受け継がれてきた、いわば相伝の術式だった。

「……なるほど、憑霊の家系か」

 夏油さんは犬のような呪いを指さしていた腕をぱたりと下ろした。
 呪いはすうすうと息のようなものを漏らしながら、ぐっすりと眠っている。呪いが睡眠をとっているのも奇妙な光景だな、と思った。

「あの、」
「ん?」
「……夏油さんは、呪術師なんですか?」

 彼は少しだけ逡巡するような表情をする。

「……うん、まあ、そうなるね」
「うちの家族以外で、初めて術師の人と会いました」
「そうなの? 君は、」

 続くはずだった言葉は、突如として発せられた、ガタッ、という物音に遮られた。この庭に一番近い部屋――つまり、大家の井口さんの部屋だ――から発せられている。井口さんの部屋にだけ設置されている勝手口は建付けが悪く、開け閉めにコツと力を必要としていた。日課の読経を終え、井口さんが庭の様子を見るためドアを開こうとしているらしい。

「――おいで」

 彼はすっと目を細め、先ほど呪いを指さした右腕を差し出した。袖口から血管の浮き出た力強い腕が覗いている。思わず、手を取った。知りたいことがたくさんあった。

「円佳ちゃん?」

 キィ、という引っ掻くような音の後で、聞き慣れた井口さんの声が背後に響いた。その瞬間、夏油さんに強く手を引かれ――。

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