02

 信じられないものを見た。
 見た、と言うべきか、体験した、と言うべきか。
 夏油さんの力強い腕に手を引かれ、金襴で作られた袈裟の硬い布地が肩に触れる。どこからともなくペリカンのような巨大な呪霊が現れて、その嘴に飲み込まれたその次の瞬間には、私は裏山にあるあの宗教施設の拝殿にいた。
 呪霊に吐き出され、勢い余って転んだ私を尻目に、夏油さんはそっとそのペリカンに手をかざす。みるみるうちにその呪霊は形をなくし、彼の手のひらへと集まっていった。夏油さんはその呪いの塊を手に取ると、こちらに向き直る。

「ようこそ。荒っぽくなってしまってごめんね」
「……びっくりしました」

 呪霊とは長い付き合いだが、飲み込まれたのは初めてのことだった。それを告げると夏油さんはくつくつと笑って尻餅をついたままの私の手を掴み、立ち上がらせてくれる。いつものように私についてきた犬型の呪いが足元でガルガルと威嚇するような声を上げていた。

「君よりこの子のほうが怒っているみたいだ」

 まいったな、とちっとも困っていなさそうな調子で夏油さんが頭を掻く。それからそのまま私の手を引いて、歩き出した。
 どこぞの由緒ある神社のように、厳かで絢爛な拝殿だった。人影はひとつもなく、恐いほどにシンと静まりかえっている。ふもとの町にもかなりの信者を抱えているはずなのに、と思い、夏油さんに問いかければ、彼は「今は参拝の時間じゃないからね」とこともなげにそう答えた。
 拝殿から伸びる、石畳の道を歩いて行く。清廉な印象を与える神社建築の建物の内部に入り、数分が経ったころ、夏油さんは格子でできた扉に手をかけた。
 ギィ、と、木枠がきしむような音を立てて扉が開く。リノリウムの敷かれた床がパッと目に入った。目前にはこれまで歩いてきた道とはずいぶん雰囲気の違う部屋が広がっている。

「ちょっと待っててね」

 オフィスにある会議室のような、そんな無機質な空気の流れる部屋だった。そのなかにぽつんと置かれた布張りのソファを指さすと、夏油さんは手をひらりと振ってどこかへ行ってしまった。
 ここに座って待てということかな。そう解釈して、私は部屋の雰囲気にそぐわない、カジュアルなソファに腰を下ろす。身体が沈み込むほどのやわらかい布地。淡いアイボリーのそれに背中を埋めると、思わずため息が出た。もしかすると、今の私はあまりにも考えなしの行動をしてしまっているのかもしれない。

「……暇だな」

 することがないので、いまだに興奮している様子の犬型の呪い――実は清和という名前がある――をわしゃわしゃと撫でた。清和の顎の下に触れながら、ゆっくりと思考を巡らせる。つい勢いで付いてきてしまったけれど、夏油さんが悪い人だったとしたら、どうしよう。
 スマートフォンも財布もすべて部屋に置いてきてしまったし、外に出るにもこの山を歩いて降りるのは少しばかり大変そうだ。宗教の勧誘目的くらいだったらまだしも、夏油さんは呪術師だ。彼が井口さんに憑いていた呪霊を祓った、という情報だけでそう決めつけてここまで付いてきてしまったものの、彼が呪いを用いて悪事を働くほうの――いわば呪詛師という可能性もある。そのあたりの判断の仕方は、教わっていなかった。
 術式は受け継いだけれど、術師稼業を継がなかった私にできるのは、清和の制御くらいである。あれだけ等級の高そうな呪霊を使役している夏油さん相手に大立ち回りを演じることなどできはしないだろう。

「何とかなる……と、信じておこう」

 がらんとした空間に、ぽつりと呟いた声が嫌に響く。清和が気遣うように私の手を舐めていた。


 しばらく手持無沙汰に清和を撫でて遊んでいたところで、ふと、誰かの話し声が聞こえた。夏油さんが帰ってきたのかも。無意識に背筋を伸ばしつつ、耳を澄ませたところで、気付く。
 上背のある彼の足音よりもずいぶん軽い靴音。何より、楽しげに響く高い声。夏油さんのそれではない。

「ただいまー!」

 辺りに響いたのは、鈴が鳴るような無邪気な女の子の声だった。開きっぱなしになっていた格子戸から声のする方向を窺えば、そこにはよく似た顔立ちの女の子がふたり、連れ立って歩いていた。中学生くらいだろうか。制服を着た女の子ふたりが顔を突き合わせておしゃべりに興じている。
 きっと、不躾な視線を投げてしまっていたのだと思う。私が彼女たちを観察していることに気が付いた女の子の片割れが不意に顔を上げて、その大きな瞳と目が合った。

「あんた信者の人? こんなところまでどうやって入り込んだの?」

 明るい髪を頭の上でお団子に纏めたほうの女の子が、訝しがるような声をあげた。隣に立つ黒髪の女の子の手をぎゅっと握って、警戒するようにこちらを睨みつけている。堅くこわばる声を聞いて、ここに来るまでの廊下に『関係者以外立ち入り禁止』と記された看板が掲げられていたことを思い出した。

「場合によっては――」

 女の子の一人が、ポケットにしまっていたらしい「何か」を取り出そうとしたときだった。

「ああ、美々子に菜々子。おかえり」

 穏やかな声が、緊張の漂う凍った空気を霧散させる。席を外していた夏油さんが、水滴の付いたグラスを二つ、その両手に持って、格子戸のところに佇んでいた。

「夏油様! ただいま!」
「その人は私のお客様だよ。失礼のないように」
「そうだったの? ごめんなさい」
「大丈夫、気にしないで。ただ、今日はもう部屋に戻りなさい」

 女の子たちに笑いかけながら、夏油さんは優しくそう告げた。彼女たちは「はあい」と少し不服そうな声で返事をして、部屋を通り過ぎようとする。その目が私をまじまじと観察するように凝視するのを居心地悪く感じながら、私はそっと目を伏せた。

「すまないね。何か言われた?」
「いえ、特には」
「そう。……彼女たちは私の家族でね。普段はここには他人を立ち入らせないから、びっくりしてしまったみたいだ」

 失礼な態度で申し訳ないね、と夏油さんは眉尻を下げてすまなさそうな顔をする。

「どうぞ。外は暑かっただろう」
「ありがとうございます」

 受け取ったグラスのなかで、透き通った琥珀色の液体がゆらゆらと揺れていた。口をつけるとアイスティーのさわやかな風味が舌を転がっていく。

「名前を聞いても?」
「あ、青柳円佳と言います」

 グラスを傾けて喉を潤しつつ、夏油さんはおだやかにそう切り出した。自己紹介すらしていなかったことに、今さら思い至る。「円佳ちゃんって呼んでいい?」という夏油さんの言葉にうなずくと、彼はうっそりした笑みを浮かべて言葉を続けた。

「この町に呪術師が住んでいるとはね。しかも、うちからあんなに近いところに」
「呪術師なんですかね……。仕事は請け負っていないんですが」
「ここに住んで長いの?」
「就職してひとり暮らしを始めてからなので、二、三年ですかね。ああ、でも」

 次々と重ねられていく質問に、こちらも淡々と答えていく。一方的にも思える問い掛けの羅列だったけれど、不思議と嫌な気はしなかった。夏油さんのゆったりとした態度がどこか安心感を感じさせていたのかもしれない。

「でも、うちの大家さん――井口さんの肩に憑いていた呪いが、ここに来てから消え失せたのは知っています。夏油さんが、祓ったんですよね?」

 夏油さんは何かを考えこむように顎に手を当てた。

「あったな、そんなこと。取り込んだ呪霊自体は別の一級呪霊を捕まえるときにぶつけて消えてしまったけれど」
「……呪霊操術ですよね? 初めて見ました」
「ずいぶん物知りだね」

 彼は口角を綺麗に上げると、私の顔と足元に寝そべる清和のことを順番に見やる。探るような目つきだった。手に持っていたグラスをサイドテーブルに置き、夏油さんは大仰に腕を組む。正絹の僧衣が揺れ、白檀の香りがふわりと漂った。

「君は、術師の家系だろう? 呪術の習得は家で行われたのかい?」
「はい。祖母に教わりました」
「しかし、憑霊の家系とは。話にはよく聞くけど、実際に君のような術式を見たのは初めてだよ」

 家や個人に取り憑いた憑霊を使役する、憑霊操術。特別に珍しい術式というわけでもないけれど、その術式を宿した一族は、そのほとんどが術師であることを隠している。呪いに取り憑かれた家系は古来忌み嫌われるものであるし、また、呪われているがゆえか、早死や身の回りの不幸も多かった。

「……術師として働けと言われたことはないの? 君のように代々呪術師の家系であれば、依頼なんて腐るほど来そうだけれど」
「非術師からの依頼、と言う意味であれば、まったくないですね。祖母の代で東京に出てきたので、こちらの知り合いは誰もうちが呪術師の系譜だなんて知りませんし」

 そこで、言葉を切った。青柳家に取り憑いている、この清和という呪いはかつては祖母が、祖母が引退してからは父が使役していた。

「ただ、同業から――呪術高専からの依頼、なら昔はあったみたいです。父は呪術高専の卒業生でしたので」

 夏油さんの三白眼が、わずかに揺れた気がした。
 東京都立呪術高等専門学校。呪術に携わる者ならば誰もが知っている、呪術教育機関である。祖母が父を連れて田舎から上京してきたとき、知り合いの呪術師を頼って入学させてもらった学校だった。父は、この学校で呪術の基礎を学び、術式についての見識を深め、卒業後も高専に仕事を斡旋してもらっていた。そして。

「父は私が生まれる数日前に亡くなりました。身の丈に合わない呪霊を祓いに行かされて、そのまま。なのでもし依頼や――もしくは入学の勧誘があっても、祖母は門前払いだったのだと思います」
「それは……」

 夏油さんは哀れむような曇った表情を浮かべている。慰めの言葉を選んでいるような、そんな表情にも思えた。

「辛いことを思い出させてしまったね」
「いえ。私は父を覚えていないので」

 そう言いながら、グラスに入ったアイスティーを啜る。冷たい液体が喉を濡らし、結露したグラスからは水滴がいくつか垂れた。履いていたデニムパンツに丸い水の跡が落ちているさまを見て、ふと我に返る。
 なんで私、初めて会ったこの人に身の上話なんかしているのだろう。

「夏油さんは、」

 どうして、この宗教を――?
 続けようとした言葉が何となく尻すぼみになってしまう。私が勝手に自分のことを打ち明けるのならともかく、初対面の人に聞くにはあまりにも不躾に思えたからだ。代わりに、こう問うた。

「夏油さんは、高専の出なんですか?」
「……どうしてそう思う?」
「高専の話になったとき、ほんの少し、驚いていたように見えたので。高専関係者なのかな、って」

 へえ、と夏油さんはおかしそうに笑みを浮かべる。 

「君は、賢いね」

 続けられた言葉は、肯定の意味も、否定の意味も、どちらをも含んでいない、そんな曖昧な言葉に思えた。

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