03

 秋も深まり、アパート裏にある山の紅葉もいよいよ見頃を迎えていた。
 開け放たれた窓から刺すように冷たい朝の風が吹き込み、1Kの小さな部屋のなかで白いレースのカーテンが舞っている。いつもなら目を癒してくれる山の緑が赤く色づいているのを目に留めて、何となく、あの施設のきらびやかな拝殿に似合いそうだ、なんてことを考えていた。
 あの秋晴れの日から、夏油さんとは時々言葉を交わすようになった。
 もともとふもとのこの町でしばしば目にすることのあった人だ。生活圏が被っているとでも言うのだろうか。朝の花壇への水やりの時間や夜の会社帰りのタイミングなど顔を合わせる頻度は思いのほか高く、また、夏油さんは呪術師の知り合いがいない私のことをいつも気にかけてくれているようだった。

 悪い人ではない、と思う。
 けれどいい人か、と聞かれるとよくわからない。
 そもそも新興宗教の教祖、という時点で彼はずいぶんときな臭い存在だ。信者の呪いを祓っている、と言えば聞こえは良いが、呪いを祓って非術師から金を巻き上げるという行為も褒められたものじゃない。

「私は呪術師の味方だよ。何かあったら頼っておいで」

 あの日、帰り際に夏油さんはそう言った。山のふもとまで私と清和を送ったあとのこと。まだ赤く色づいてはいない、青い海のように茂った木々に囲まれて、彼は穏やかに笑っていた。

――あれは、いったいどういう意味の言葉だったのだろう。



 はっと我に返って、付けっぱなしになっていた液晶テレビに目線を送ると、画面の左上に大きく刻まれた時計が家を出る三十分前を指し示していた。朝から物思いに耽ってしまったことを後悔しながら、私は慌ててローテーブルに置いた化粧鏡と向き合った。
 身体に染み付いた手順で自分の顔にメイクを施しながら代わるがわる流れていくニュースを聞き流していく。就職してから今日までの、変わることのない毎朝のルーティンだった。芸能人の不倫報道、政治家の不祥事、都内の人気ベーカリーの特集などが続いたあとで、ひとつ、気になる報道を耳にした。

「昨日、東京都■■区の公立高校で生徒四人が怪我をしているのが発見されました。被害者の生徒たちは教室に設置されていた掃除用具をしまうロッカーに詰め込まれた状態で発見され、重傷を負っているとのことです。警察は事件事故の両面で捜査をするとし、居合わせた男子生徒一名に詳しく話を――」

 あ、呪いの仕業だ。
 ほとんど直感的に、そう思った。四人の学生をロッカーに詰め込むなんて芸当、そうでもなければできるはずがない。
 通常こうした事件は呪術高専が関与し報道を控えると聞いたことがあるけれど、今回は介入が間に合わなかったのだろうか。学校に呪霊がいるのか、もしくは居合わせたという男子生徒が呪われているのか判断はつかないものの、今回は後者のような気がした。何せ、私も同じ被呪者という立場だ。そういうのはどういうわけなのか、なんとなくわかってしまう。
 ここまで大々的に報道されれば、仮にもしこの男子生徒が呪われていたとしても呪術高専によって保護されるはず。続報がなければ高専が介入した、ということで決まりだろう。そう考えながらメイクを終え、テーブルに広げていた化粧品をまとめてポーチの中に突っ込んだ。
 スーツのジャケットを羽織り、前もってセットしていた髪を軽く整え直す。それからビジネスバックを肩にかけ、私は部屋の隅に置いてある白い箱と写真立てに声をかけた。

「いってくるね、おばあちゃん」

 写真立ての中では笑い皺の刻まれた老女が優しい笑みを浮かべている。昨年亡くなった祖母の遺影と、それからずっと墓に入れ損ねている彼女の遺骨がぽつんと置かれていた。



 電車を乗り継いでやってきた先、喧騒に包まれた街の中に私の職場がある。渋谷にあるビルの十五階。駅から徒歩五分といった好立地。私たちのような営業職にとってこの上なく便利な場所に居を構えたこの会社に入社して、もう数年の月日が経過していた。
 いつもの駅の改札を出て、目を瞑っていても歩けると思うくらいに慣れきってしまった道のりを歩いていく。冬の入口の朝の空気は澄んでいて、どこか清々しい気持ちすら感じられる。隣を歩く清和も同じ気持ちのようで、尻尾を振りながら楽しそうに街を闊歩していた。
 会社のあるビルにたどり着き、エントランスにある入退出システムにカードキーをかざす。さっと開いた自動ドアに身体を滑り込ませ、そのまま突き当たりにあるエレベーターで十五階までまっすぐ登っていく。その先にある、ワンフロアをぶち抜いただだっ広い空間が私の勤めるオフィスである。
 間仕切りを取っ払ったOAフロアの上には明るいグレーのタイルカーペットが敷かれている。その上に大きな白いデスクと澄んだ青色のメッシュ地のオフィスチェアがランダムに置かれていた。うちの会社はフリーアドレスのため、良い席は早い者勝ちで埋まっていってしまう。運よく今日は窓際の静かな場所を見つけ、早々に鞄をそこに置いた。清和も早速窓から差し込む太陽の光を思う存分浴びることのできる位置を陣取って、のんびり丸まって寝る体勢を整えている。毎朝のことながら、彼――彼女? の自分が楽に過ごせる場所を見つける速度は異様に速い。呪いに対してそんなことを思うのも奇妙な話だが、どこか見習いたいような気もした。

 すうすうと寝息を立て始めた清和を寝かせたまま、ビジネスバックの中からノートパソコンを取り出した。電源を入れ、パソコンを立ち上げながら今日片付ける必要のある仕事をリストアップしていると、突然、後ろから声をかけられる。

「青柳、ちょっといいか」

 振り返れば、直属の上司である営業二課課長が少し離れた場所から手招きをしていた。そのまま彼は手招きをしていた手で右の方向を指し示す。フロアの端にある打ち合わせスペースに来るように言っているらしい。
 上司の指示に「すぐ行きます」と返事をして、手帳とボールペンだけを持って呼び出された場所に向かう。この事務所の中で唯一パーテーションで目隠しをされたそのスペースの中を覗き込むと、私を呼び出した課長とともに、営業部の先輩が会議机に向かい合うように座っていた。

「急な話なんだが、高橋が来週から別の部署に異動することになってね」

 先輩――高橋さんの横に座るように促され、私が席に就いたタイミングで上司はそう切り出した。 
 何でも営業一課に急な退職者が出たため、その穴埋めとして高橋さんが抜擢されたのだと言う。時季外れだが、事実上の昇格である。高橋さんは細かいことによく気の付く営業マンで、顧客からの信頼も厚い。当然の人選だな、と他人事のように考えた。

「高橋の顧客は青柳に引き継がせる。とりあえず青柳が今持っている仕事は俺や他の課のメンバーに手伝わせてもいいから、二人で引継ぎの挨拶周りに行ってくれ。今週中に終わらせるように」
「こ、今週中ですか?」
「今週中だ。頼んだぞ」

 とにかく彼の業務や担当顧客の引継ぎを高橋さんが営業一課に異動する来週までに完了せよ。そういう業務命令だった。高橋さんが異動してしまうのが来週のため、仕方のないリミットではあるけれど、彼の抱える顧客は東京都内だけでも百は下らない。
 これは昼夜兼行で都内を駆けずり回る羽目になりそうだ――。と、言いたいことを言った後はさっさと行ってしまった課長の後ろ姿を遠い目で眺めていると、隣に座っていた高橋さんが「悪いな、青柳。よろしく頼むよ」と片手を差し出した。

 まずいことになった。その手と握手をしながら、ぼんやりとそう思った。視界の端で、清和が警戒するように起き上がり、こちらをじっと見つめている。高橋さんはよく出来る先輩で後輩の面倒見が良く、営業事務や経理担当の女性陣からも人気の男性だ。
 とても良い人なのに、清和何が気に食わないのか、この人が近くにいるといつも機嫌が悪くなる。とは言え、清和は人見知りをするたちで、よく知らない人が近くにいるといつもこんな調子だ。しばらくは家に帰ってもイライラしているのだろうなあ。少しだけげんなりしながら、無理やり笑みを作って高橋さんに「よろしくお願いします」と返事をした。
 私以外に見えないし聞こえないから、そうそう問題にはならないだろうけど。そんなことを考えながら、ふと、思い出した。

――そういえば、夏油さんの前では清和もおだやかだったな。

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