04

 それ相応の実力者には、気性の激しいところのある清和も平伏してしまうのか。もしくは、夏油さんの呪霊操術を警戒しているから彼の前では大人しいのだろうか。そんなことを考えながら、夜の渋谷の街を歩いていた。
 あれから、午前中は高橋さんとの打ち合わせに費やされ、午後は引継ぎの顧客回りを数件こなした。詰め込みすぎたスケジュールにへとへとになりながら、ようやく退社できたころには時計の針はもう二十時を回っていた。
 こんな忙しい日々があと一週間も続くなんてどうにも辟易してしまう。重い心と身体を引き摺って駅まで何とか足を進めていると、酒に酔ったサラリーマンとぶつかりそうになり、大慌てでそれを避けた。先月のハロウィンの時期なんかよりはずいぶんマシだけれど、渋谷の街はいつだって騒がしい。私の住む閑静な住宅街が恋しかった。

 客引きやナンパを避けながら、早足で駅までの道を歩いていく。街はいつものように浮ついており、そこかしこで若者たちが酔っ払って大声で笑いあっていた。道いっぱいに広がってふざけあう光景は、迷惑に思う気持ちもあるけれど、どこか羨ましくも感じられる。そうした交友関係は、呪いに憑かれている以上私がこれまで持ち得なかったものだった。
 あまり視線をやるとよくないだろう。そう思ってまっすぐ前だけを見つめて足を歩いていると、突然清和が低く濁った鳴き声を上げた。視線を下にやると、ウーウー唸りながら尻尾をまっすぐに立てた清和がいる。今日はずっと虫の居所が悪い様子だったから、人気の多いこの場所にイライラしているのだろうか。こんなところで暴走されては敵わない。とにかく落ち着かせようと、術式を発動させようとしたそのとき、清和がどこかをまっすぐ見据えながら早足で駆けて行ってしまった。

「嘘でしょ、やめてよ……」

 白い鱗が体一面を覆った、犬のような何かが渋谷の街を走っている。それは、いかにも奇妙な光景だった。
 ほとんどの人には見えていないとは言え放置するわけにもいかず、私は慌てて清和の後を追いかける。清和は周りのことなど何も見えていない様子で数メートル駆けたあと、小さな路地に入り込み、駅への大通りから一本逸れた裏道に駆け込んだ。
 人に激突してしまわないように気を付けながら、私も小走りで裏道へと出る。大通りよりもどこか薄暗いその場所で清和は立ち止まり、今にも飛び掛かりそうな様子で血走った目を爛々と光らせていた。

「清和、『待て』」

 ようやく追いついて、清和の動きを止めた。それからやっとこの犬型の呪いが威嚇していた方向を見る。四人の男女が何かを言い争っていた。
 肩口で切り揃えられた黒髪と、明るい髪をお団子に纏めた制服姿の女の子たち。その目の前をいかにも軽薄そうな大学生ぐらいの男二人が立ちふさがるようにして立っている。女の子たちのほうは、見たことがある。夏油さんの施設で出くわしたあの子たちだ。

「俺たち今から飲みに行くんだけど、一緒にどう?」
「行くわけないじゃん。つーかそもそも未成年だし」
「またまたあ、君たちもこっそり飲んでるクチでしょ」
「あ、もしかして店に入れないかもって心配してるの? 大丈夫だって! 俺たちの知り合いの店だから」

 いかにもな怪しい誘い文句だった。明るい髪のほうの女の子が、彼らに冷たい一瞥をくれ、黒髪の女の子の手をぎゅっと握る。「美々子、行こ」。小さく聞こえた声に、夏油さんがそんな名前を呼んでいたことを思い出した。確か、美々子ちゃんと菜々子ちゃんだ。

「無視かよ、オイ」
「美々子に触んなよ」
「いいじゃん。ほら、絶対楽しいからさ」

 彼女たちの素っ気ない反応に男たちは苛立ったような声を上げた。そのうちの一人が、不機嫌な表情を隠すことなく、黒髪のセーラー服を着た女の子の腕を掴む。まだ中学生くらいの女の子相手に、これは駄目だ。そう思ったときには、すでに身体が動いていた。

「やめてください。嫌がってるでしょう」

 早足で駆け寄って、女の子たちと彼らの間に身体を割り込ませると、腕を掴んでいた男が少しだけ怯み、美々子ちゃんの腕を放した。美々子ちゃんは痛そうに掴まれていた腕を擦り、菜々子ちゃんがその肩を心配そうに引き寄せる。心の底からよかったと思う。おそらくではあるが、無理やりにでも連れて行かれていたら酒を飲まされるだけでは終わらないだろう。

「なに? お姉さんが相手してくれるってわけ?」

 男が下卑た笑みでせせら笑う。そして馴れ馴れしく私の肩を抱いた。着ていたトレンチコートに皺が寄る。私は一つため息をついて、男に今にもとびかからんばかりに興奮している清和を見た。これ、けしかけたら問題になるだろうか。今朝のニュースのようになったら嫌だなあ、と思いながらどうするべきか考えていると、不意に彼らが押し黙った。

「悪いね。そのお姉さんは私と先約があるんだ」

 ここにいるはずのない人の声に、思わず振り返る。後ろ手に女の子たちを庇いながら、夏油さんがにっこり笑っていた。





「あまり遅くならないようにと言ったはずだけれど?」

 夏油さんに連れられてきたあるマンションの一室で、彼は腕を組み、女の子たちにそう淡々と述べた。今日の夏油さんはいつもの僧衣ではなく、黒色のハイネックのセーターにブラックデニムを合わせている。全身を同じ色でまとめたシンプルな装いが、彼の逞しい身体つきを強調していた。
 渋谷の街に夏油さんが現れてすぐ、あの場にいた男たちは一目散にその場を逃げ去ってしまった。普段は柔和な笑みを浮かべているとは言え、夏油さんは上背もあり、目つきも鋭い。彼らが敵わないと判断して逃げていくのも道理だった。

「ごめんなさい、夏油様」
「買い物をしてたら時間を忘れちゃったの。ごめんなさい」

 菜々子ちゃんと美々子ちゃんはしゅんとした様子で床に敷かれたカーペットの上で正座をしている。お客様だから、とその隣にあるソファに座らされていることが何だか妙に居心地悪く感じた。
 肩を落として反省しきった様子の彼女たちを見て、夏油さんはひとつ、ため息をつく。二人の肩がびくっと揺れた。

「……君たちを縛りつけたいわけじゃないんだ。自由にさせてあげたいけど、その分外には危険もある。いつも私が守ってあげられるわけじゃないんだよ」
「はい、ごめんなさい」
「これからは気を付けます」
「……遅くなるようならすぐに私か家族に連絡すること。わかったね?」

 彼女たちは大げさに頷くと「わかりました、ごめんなさい」ともう一度頭を下げる。夏油さんはゆっくりとしゃがんで片膝をつき、二人の顔を覗き込んだ。

「怪我はない? 怖くなかった?」
「私たちは大丈夫です」
「お姉さんが、助けてくれたので」

 美々子ちゃんのそんな声に合わせて、夏油さんがこちらに視線を向ける。

「円佳ちゃんも、ごめんね。庇ってくれてありがとう、助かったよ」
「いえ、私は何も」
「お礼になるかはわからないけど、夕食でもごちそうさせてくれると嬉しいな」

 私が何か言葉を返す間もなく夏油さんはそっと立ち上がり、キッチンのほうへと足を向けた。途中でこちらを振り返って美々子ちゃんと菜々子ちゃんに声をかける。

「二人は自己紹介しておいで。今日はカレーだよ」

 数秒後には夏油さんの姿はカウンターキッチンのコンロ前の壁の奥に消えてしまった。静かなLDKに何か作業をしているカチャカチャという音だけが響いている。ある程度の下ごしらえはすでに終わっていたらしく、そのあとすぐに何とも食欲をそそられるスパイシーな香りが部屋中に広がった。
 彼の後ろ姿を見送って、そのあとでちらりと彼女たちに視線を戻す。女の子たちはもじもじとした様子でお互いに顔を見合わせたあと、緊張した面持ちでこちらに向き直った。口火を切ったのは、明るい髪をお団子にまとめた快活そうな女の子だ。

「さっきはありがとう。枷場菜々子です」
「枷場美々子です」

 黒髪の、ショートヘアの女の子が菜々子ちゃんに続いて口を開く。いつの間にか丸っこい人型のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめていた。

「あ、青柳円佳です」

 気まずい沈黙が漂った。
 初対面の人と、それも十は年下の学生と、何をしゃべればよいのだろう。年上らしくリードすることもできないまま、私はそっと視線を彷徨わせる。夏油さんと初めて会ったときは、彼がずいぶん話題を振ってくれていたのだと、今更ながらに気が付いた。
 菜々子ちゃんと美々子ちゃんも、同じようにこの沈黙を居心地悪く感じていたらしい。ちらちらと周囲を観察した後で、美々子ちゃんがフローリングの床に寝そべっていた清和を指さした。

「……これ、呪霊?」
「そうだよ。……あ、別に悪さはしないから」
「うん。そういうのはわかるよ。夏油様の術式と似てるから」

 美々子ちゃんはそっとその白魚のような指先で、清和の顎をゆるりと撫でた。清和は、気持ちよさそうに寝息を立て続けている。初めて会ったばかりのはずなのに、清和は彼女らや夏油さんには警戒心をおくびにも出そうとしない。

「お姉さんは呪術師なの?」
「うーん……、呪術師……なのかな……。仕事は請け負ってないよ」
「でも術式は使えるんでしょ?」

 美々子ちゃんと交わしていた会話に、菜々子ちゃんが食い気味に口を挟んだ。早々に足を崩していた菜々子ちゃんは、私が座っているソファを背もたれにしてのんびりとスマートフォンをいじっている。窘めるように、美々子ちゃんが「菜々子、」と呼びかけた。

「円佳の術式ってどんなの?」

 スマートフォンの画面から目を離して、菜々子ちゃんが私をまっすぐに見つめた。その瞳は剣吞な雰囲気を帯びている。
 
「何かいらないものとか、ある?」

 菜々子ちゃんをしっかりと見据えたまま、そう問いかけた。彼女はほんの一瞬、何かを考えたあとで立ち上がり、部屋の隅に置いてあった小さなチェストからそれを取り出した。

「どーぞ」

 手渡されたのは壊れた手鏡だった。アンティーク調の模様の入った背面をひっくり返すと、楕円の鏡面に大きくひびが入っているのがわかる。

「本当にいらないの?」
「いいよ。捨て損ねてるだけだから」

 菜々子ちゃんのその言葉に、私はちらりと清和を見下ろした。いつのまにか眠りから覚めていたらしい犬型の呪いは、どこかご機嫌な様子で尻尾をぶんぶん振っている。翡翠のようなその瞳と目が合って、私は清和にそっと手鏡を差し出した。

「清和、『消せ』」

 清和が差し出した手鏡に噛みついて、次の瞬間。
 まばたきをしたら見逃してしまうくらいのわずか一瞬、ぼんやり手鏡が光ったかと思えば、手に持っていた手鏡が跡形もなく消え去ってしまった。

「この子を使役するのが私の術式。対価を支払っている間は、この子は何でも願いを叶えてくれる」

 ぽかん、と口を開けてこちらを見る彼女たちにそう説明する。美々子ちゃんが感心したように言葉を紡いだ。

「すごいね、命令したらなんでもやってくれるの?」
「限界はあるけど、大抵のことは」
「ふーん、やるじゃん」

 菜々子ちゃんはそう呟くと少しだけ笑ってこちらを見た。先ほどまで彼女の瞳に宿っていた、射貫くような光は消え失せていた。

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