05

 おいしいカレーをお腹いっぱいごちそうになって、私は幸せな気持ちで「ごちそうさまでした」、と呟いた。

 夏油さんの作ったカレーは絶品だった。
 隠し味でもあるのかと問いかけると、ごくごく普通の市販のカレールーを使った作り方を告げられる。市販のルーだけでこうなるものだろうか。ひとり暮らしが長いから、私が他者の料理に飢えているだけなのか、もしくは夏油さんにとっては当たり前すぎて取り立てて言うべきことではなかったのか。もし後者であるならば、きっとこの味が夏油さんにとってのおふくろ味というやつなのだろう。
 程よい満腹感を感じつつ、本人にも味の感想を伝えれば、「カレーなんて誰が作っても一緒だよ」と彼は頬を掻いた。美々子ちゃんと菜々子ちゃんが「そんなことない!」「夏油様のカレーが一番!」と騒ぎ立てる。こんなに賑やかな食卓は久しぶりで、私も声をあげて笑ってしまった。

「もう遅いし、駅まで送っていくよ」

 食事を終え、どうにか打ち解けた菜々子ちゃんや美々子ちゃんと話していると、夏油さんがそう言って立ち上がった。テレビ台の上にある置き時計に目をやると、時計の針は二十三時を指し示そうとしている。あと一時間もすれば終電を逃してしまう、そんな時間だ。

「えー! 帰っちゃうの?」
「菜々子、我儘言っちゃ駄目だよ。円佳さんは明日も仕事なんだから」
「つまんないよ〜」

 ソファの上でクッションを抱きしめながら大きな声を上げた菜々子ちゃんに、美々子ちゃんが諌めるような言葉をかけた。初対面なのに、こんなに名残惜しんでくれることが素直に嬉しかった。

「ねえねえ、円佳。連絡先教えてよ」
「いいよ。これで読み取れる?」

 メッセージアプリを立ち上げて、連絡先を交換するためのQRコードを画面に映す。慣れた手つきで菜々子ちゃんがそれを読み取って、「美々子にも教えとくね」とにっこり笑った。
 別の部屋に上着を取りに行っていた夏油さんが濃いグレーのコートを抱えてLDKに戻ってくる。「それじゃ、行こうか」。彼の言葉にうなずいて、「またね」と二人に手を振った。何だか妹が出来たみたい。そんなことを思った。


 マンションのエントランスを出ると、外には身を切るように冷たい木枯らしが吹いていた。室内との温度差に身体がぶるりと震え、私は思わず羽織っていたコートのボタンを閉める。さすがに薄手のトレンチコートだけでは心許ない季節に突入していた。隣を歩く夏油さんは、ウール地のチェスターコートを着込んでいる。少しオーバーサイズ気味のそれがとても暖かそうで、何だか羨ましいな、と思いながら、私はそっと手を擦り合わせた。

「ずいぶん寒くなりましたね……」
「もう十一月だしね。大丈夫? マフラーとか、貸してあげたらよかったかな」
「え? ああ、大丈夫ですよ」

 眉を八の字に寄せ、ひどく心配そうな表情で彼が呟いた言葉に、少しだけ面食らった。美々子ちゃんや菜々子ちゃんとの会話を聞いていても思ったけれど、この人はどことなく他人を甘やかすのに慣れている。誰に対してもフラットで優しいけれど、その実彼の真意が読み切れない。知り合ってわずか数週間の女をお礼とは言え家にあげ、あまつさえ私物を貸そうとするなんて。好きになったら苦労するタイプだな、と思った。我ながら失礼な感想だった。
 明日からはもう少し着込んで出社しようと考えながら、夏油さんと二人、夜の街を歩いて行く。繋華街からは少しだけ外れた、けれど都会らしい人工的な光に包まれた街はこの時間でもたくさんの人が蠢いている。

「会社がこのあたりなの?」
「はい。……夏油さんは、こちらに住んでるんですね。てっきりあの施設の中で暮らしているのかと思っていました」
「いや、あそこでも生活しているよ。ちょっと訳があって、いくつかの拠点を転々としているんだ」

 ここはそのうちの一つ、と夏油さんは笑ってみせた。切れ長の瞳が、きゅっと細くなる。精悍な顔立ちの夏油さんだけれど、そうしていると、途端に普段より幼く屈託のない雰囲気を感じさせた。私は彼の顔からそっと目を逸らし、まっすぐと前を見据える。かわいい、だなんておおよそ成人男性に感じるには似つかわしくない感情を抱いてしまっていたのを、気取られたくなかったからだ。
 夏油さんはそんな私の行動を訝しむこともなく、先ほどまでと変わらずにこにことこちらに話しかける。

「ごめんね、美々子も菜々子も、迷惑かけなかった?」
「あ、いえ。とてもいい子たちで、楽しかったです」

 慌てて片手を振りながらそう答えると、彼は「それはよかった」とぽつり呟いた。そのあとで、今度は夏油さんがゆっくりと前方に視線を向ける。
 しばらくの間、二人ともしゃべらない時間が続いていた。ガヤガヤと騒がしい街並みをのんびりと進んでいく。夏油さんの家も、美々子ちゃんや菜々子ちゃんのおかげで、賑やかで楽しかった。そんなことを考えながらふと思う。そういえば、血の繋がった家族ではなさそうな彼らは、どうして一緒に生活しているのだろう。
 夜の都会の街はいつだって賑やかだ。特に終電前のこの時間は私たちと同じように駅に向かう人で溢れていて、他人に干渉することはない。そんな街を歩きながら、私は浮かんだ疑問をそっと振り払った。
 問いかけることはできなかった。あまりにも不躾で、失礼な質問だと思ったからだ。だから言葉を仕舞ったままにしておこうとしていたのに、隣を歩く夏油さんがフッと笑ってこう切り出した。

「気になる?」

 率直な物言いだった。何を? と問いかける前に、彼はちらりとこちらを見ながら「あの子たちと、私の関係」と言葉を続ける。射抜くような瞳が、出会ってすぐの菜々子ちゃんと重なって見えた。

「……ご兄弟、ってわけじゃないですよね?」
「違うよ。けどここ十年、一緒に暮らしてる」

 白い息を吐きだしながら、夏油さんがそう呟いた。タバコの煙のようなその白色がゆらゆらと立ち上り、冬の夜空に霧散する。瞳は遠く夜空を見据えていて、何かを考え込んでいるように見えた。

「……菜々子が、失礼な態度を取っていただろう」

 ぽつり。そんな言葉が落ちた。

「菜々子も美々子も知らない人があまり得意ではなくてね。あの子たちは特に非術師が苦手なんだ。だから君が本当に術式を使えるのか、ああして試すようなことを言ったんだと思う。気を悪くしたら、ごめんね」

 夏油さんの唇が、きれいな弧を描いていた。ついさっき見た、目もとをきゅっと細める、あの笑みとはまったく違う笑い方だった。
 私は夏油さんからそっと目を逸らし、また、前を見据える。いつの間にか、渋谷駅が目前に迫る交差点までたどり着いていた。

「全然気にしてないので、大丈夫ですよ」
「そう? それなら良いんだけど」

 渋谷の雑踏の中を立ち止まり、信号が変わるのを待つ。待ちながら、考えた。

――あの子たちは特に非術師が苦手なんだ。
 その言葉に嘘はないだろう。けれど、それはきっと、美々子ちゃんと菜々子ちゃんに限った話ではない。
 人が増えるにつれ、白く関節が浮き出るほどに握りしめられていった彼の拳をちらりと見る。

――私は呪術師の味方だよ。何かあったら頼っておいで。

 あの日の夏油さんの言葉が、脳裏にこびりついていた。

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