息の緒

 翌朝。時刻は朝の九時を少し回ったところだった。
 ピ、ピ、と電子音を鳴らしながら、借りてきたレンタカーのカーナビに触れる。補助監督として働いていたときに運転していた車とは異なるメーカーのものが取り付けられており、少しだけ操作に戸惑った。
 何とかオーディオの設定画面に辿り着き、いくつかのラジオ番組を切り替えていく。流行りのポップスや快活なラジオパーソナリティの声などが響いた後で、ようやく有益な情報が耳に入り、春香は画面を操作する手を止めた。

「そろそろ行こか」

 コンコン、という軽い音とともにそんな声が聞こえてくる。視線を右にやると、運転席側の窓ガラスをノックする男と目が合った。屈みこむような姿勢でこちらを覗いている直哉に春香は小さく頷いて、車のロックを解除する。
 春香のその動きを確認した後で、直哉は車の前方を通って助手席のほうに回り込む。そのままドアを開けて、春香の隣へと腰を下ろした。

「……」

 思わず驚いて、律儀にシートベルトを締めるその動作を思わずまじまじと見つめてしまう。その視線に気が付いた直哉が胡乱な目を向けた。

「なんやねん、黙りこくって」
「いえ、何でもないです」

 てっきり後部座席でのんびりしながら目的地へ向かうつもりだと思い込んでいた。そんな動揺が視線に現れていたらしい。春香の誤魔化しの言葉に訝しげな表情を浮かべた後で、直哉はゆっくりとシートへ背中を預けた。

「なに聞いとったん?」
「天気予報です。やっぱり夜は降りそうですね」

 そう告げて、春香はゆっくりと車を発車させる。
 春香が暮らすこの町から件の■■峡谷までは、通常であれば飛行機や新幹線、電車などを乗り継いで行かなければならないほど距離があった。人里離れた田舎町は決して気軽に行けるものではなく、その土地で生まれ育った春香ですら高専入学後は一度も帰郷したことはない。
 そんな場所にわざわざ車で向かうなんて——。と、僅かばかり懸念したものの、他に選択肢もなく春香は朝一で近くのレンタカーショップに車を借りに赴いていた。
 飛行機や電車といった所謂公共交通機関は、区間によってはそもそも渋谷の一件の影響で未だに運行が止まっている。それに加え、直哉の顔にある大きな傷のことも気になった。半顔を覆い隠すほどのぞっとするような傷跡は、どうしても人の多い場所では悪目立ちしてしまう。

「……そうだ。これ、使います?」

 ふと思い出して、春香は運転席と助手席の間にあるコンソールボックスを開ける。そこには車を借りに行く途中で立ち寄ったドラッグストアの紙袋が入れてあった。
 前を向いたままその袋を片手で手渡すと、直哉は訝しげな表情でそれを受け取った。がさごそと車内に響く袋を漁る音を聞きながら、春香は淡々とした声色を取り繕う。

「結構目立つ傷なので、こういうのしてる方が人目につかないかと思いまして」
「気ぃ利くやんけ」

 一瞬だけ目を瞬かせた後で、直哉はそうにやりと笑ってみせた。袋の中に入っているのは医療用の眼帯だ。ポリエチレン製の小さな袋をぺりぺりと捲り、その眼帯を取り出すさまを横目に、春香は静かに思いを巡らせる。
 美しいかんばせに翳りを落とす惨たらしいまでの傷跡。未だ生々しさすら感じさせるそれがあの渋谷の一件で出来たものなのか、はたまた禪院家での惨殺事件により負った傷なのか、春香には判断がつかなかった。
 渋谷事変。それに、禪院家の惨殺事件。そのどちらも、この二か月ほどの間に生じた出来事だ。
 たった二か月。その短い月日の流れの中で、その痛ましい傷を癒すことははたして可能なのだろうか。春香は医療の専門職ではないが、それが難しいことぐらいは簡単に予想がつく。
 いったいどうやって傷を塞いだのか。短期間での治癒を可能とする魔法のような方法は、現代医療の世界においても、呪術界においてもたった一つしかない。負の力である呪力を掛け合わせて正の力を生む、反転術式による治療だけがその唯一の方法だ。

(前に硝子さんから連絡を貰ったときは、そんな話は聞いていないんだけどな)

 つい先日連絡を取ったばかりの高専時代の先輩の顔が脳裏に浮かぶ。反転術式をその身に刻み、加えて他者へのその術式を行使できるような逸材は、春香の知りうる限りたった一人しかいなかった。硝子とは知らない仲ではないのだから、本当にそうであるならば春香に情報の一つや二つ、与えてくれても良いはずなのに——。
 ……と、そこまで考えて我に返る。簡単な話だ。春香と直哉の間に結ばれた奇妙な関係のことなんて、硝子の与り知らぬところである。例え直哉の身に何か予期せぬ事態が起こったところで、硝子も他のかつての同僚たちも、春香には一報すらもたらさないだろう。春香と直哉の間にあるのは、曖昧で希薄な、吹けば飛んでしまうほどの脆弱な縁でしかない。そのことをふと思い出した。

「君が辞めてから使えへん補助監督しかおらんようなったからな」

 物思いに耽る春香をよそに、直哉は眼帯を付けてから口を開く。思いがけない内容に、春香は少しだけ面食らった。

「……直哉さん、私のことも『使えない』ってよくおっしゃってたじゃないですか」
「相対的に見ればマシなほうやったな、今思えば」

 そう嘯くと、直哉はふいと窓の外に視線を移してしまう。

「術師の経験あるかないかで大分ちゃうわ」

 ぽつりと呟くようにこぼれ落ちた言葉に、春香はまた、狼狽えた。
 何だか昨晩から、意外なことが続いている。春香の知る禪院直哉という男は、不遜で傲岸で、関わる者すべてを見下しているような人物だった。
 呪術師としての実力はかなり高いものだから、彼の無遠慮な言い分も突き詰めて考えれば正論であることも多く、言い訳をする隙をこちらに与えることはない。それが余計にたちが悪いなんてことを、かつてはよく考えたものだ。
 いつの間にか、高速道路に続くインターチェンジのすぐ近くまで辿り着いていた。少し大きめの交差点で赤信号に引っかかり、ゆっくりと車を停止させる。ふと、カーナビに目的地をセットすることを忘れていたことに気付き、春香は指の爪でモニターをカツンと鳴らした。

「どれくらいかかるん? こっからやと」

 そんな動作に気付いた直哉が春香の指先を一瞥する。一か月ほど前に施術したジェルネイルが伸びきって、根元から素爪が覗いてしまっている。それを直哉に見られるのが妙に恥ずかしく、春香はさっさと目的地の入力を済ませ、口を開いた。

「十時間くらいはかかりますよ、きっと。……ほら、ナビだと十二時間ですって。ノンストップで走ってそれなので、丸一日くらいは見といた方が良さそうですね」
「ふーん。ま、ええやん。ゆっくり行こ」

 わずかに早口で繋いだ言葉に、直哉は穏やかな口調で相槌を打つ。その声色に、春香はいよいよ戸惑い、まごつきながら直哉の顔色を窺った。その反応に直哉は怪訝な顔をする。

「……なんやねん」
「いや、直哉さんらしくないな、と思って」

 春香の放った言葉に直哉は眉間に皺を寄せる。そのまま大きくハア、とため息を吐いてからこう呟いた。

「どうせ君も俺も、時間なんて有り余っとるやろ」

 そんな言葉と同時に信号の色が青へと変わる。
 確かに直哉の言う通りだ。そんなことを思いながら、春香は車のアクセルを踏み込んだ。


 高速道路に乗り入れてしばらくが経った。久々に顔を合わせた相手と長時間二人きりとなるシチュエーションに最初こそ些か緊張を覚えていたものの、すぐにそんな心配も霧散した。
 つい一年ほど前までは、嫌というほど経験した時間である。特に、補助監督を辞める前の数年間は御三家の呪術師に依頼された任務のサポートに回ることも増え、必然的に直哉ともよく関わっていた。その当時に戻ったと思えば良いだけの話だ。

「東京は酷い状況らしいですね」

 広々とした三車線の道路を真っ直ぐに見据えて春香は静かに口を開く。ついに世間話を振る余裕すら出てきたところだった。

「あー。交通機関も死んどるわ、呪霊が大量発生しとるわで、非術師はしばらく入れたもんじゃないやろうな。ちらっと見た感じも酷かったし、首都機能を取り戻すのもだいぶ先になるんちゃう?」
「え? 直哉さん、向こうに行ってたんですか?」

 横目で直哉の方を見る。その視線に気付いた直哉が口もとに人差し指を当てるジェスチャーをして、「ちょっと野暮用でな」と呟いた。

「……どうでした? 東京は」
「どうもこうも。観光で行ったわけちゃうしな」

 まあそうだろうな、と納得する。呪霊被害によって首都が壊滅状態になるような局面で、特別一級術師ともあろうこの男が物見遊山でわざわざ京を離れて関東まで赴くとは考えにくい。
 仕事で呪いの蠢く東京に行くことになり、禪院家に起きた悲劇に立ち会わずに済んだと考えるのが自然だろうか、と的外れな推測をして、それから春香はおずおずと口を開いた。

「……あの、言いにくいことであれば答えて頂かなくても構わないんですが」
「なんやねん、改まって」

 禪院家で起きた凄惨な事件の一報を聞いてから、ずっとずっと気にかかっていたことがある。補助監督時代、幾度か任務を共にした女の子のことだ。

「ご家族のこと、なんですけどね……」

 そこまでを切り出したところで、直哉は粗暴な態度で足を組み、流し目を寄越した。その視線を受け、春香は思わず口を閉ざしてしまう。
 春香のような他人に、それももう呪術界から去ってしまったような無関係の人間に、身内の事情に踏み込まれるなんてことは直哉の最も嫌うところだろう。それがわかっていたから言葉を飲み込んだ。この男の機嫌を損ねると、いつも以上に辛辣な言葉がその口から飛び出すことをよく知っていた。
 直哉は少しだけ黙り込んだ後で、ぽつりと口を開く。春香の小さな逡巡などには一切取り合わないような、そんな様相すら感じられた。

「……真依ちゃんか」

 淡々と聞こえた名前に、春香は目を見開いた。聡い直哉は、春香が噤んだ言葉が続くところを簡単に察したようだった。思わず直哉のほうに視線を向ける。直哉は嘲るような笑みを浮かべ、「君の想像しとる通りやで」と呟いた。

「俺の言うた通りやったやろ。君が補助監督を辞めても辞めんでも、なんも影響はない。渋谷での一件も、禪院家うちで起きたことも。君がおってもおらんでも、いつかどこかで起きて、そこでは必ず誰かが死ぬ。そういうもんや」

 直哉は冷えた笑みを浮かべ、肩を竦める。つらつらと語られた言葉に、頭をガツンと殴られたような、そんな錯覚に陥った。
 あたかも正鵠を射るような、そんな正論に等しい言葉だ。直哉の言を聞くと、春香はいつもそんなことを感じてしまう。
 直哉は、春香が呪術界から去った理由を知っている。高専に通う子どもたちを死地に誘う役割を担うことが出来なくなった、本当の理由を。

「そう、ですね……」

 鼻の奥がつんと痛んだ。泣く権利などないはずなのに、涙がこぼれてしまいそうになる。春香はそれを堪えるように、幾度となくまばたきを繰り返した。
 直哉は何も言わず、また窓の外を静かに見つめていた。助手席に座る直哉がそうして顔を背けていると、その右顔に刻まれたおぞましい傷の跡が春香の目に映る。惨たらしい、かつての秀麗で整ったあの面差しの得難さをまるで無視した醜い傷だ。

「泣くな」

 厳しい言葉が直哉の薄い唇からこぼれ落ちる。

「泣く権利ないやろ、春香ちゃんには」

 その通りだと思った。結局のところ、春香が呪術界を去った本当の理由はひどく自分本位で利己的なものだった。そのことをよく知る直哉は、いつだって厳しい言葉で春香を叱責する。克己的で美しい精神は、その惨憺たる傷跡をもってしても損なわれることはないということを、春香は初めて知ることとなった。


 出発から数時間が経過し、車は海沿いの道を進んでいた。
 冬の日本海は暗く荒れ果てた様相を呈している。
 車を運転しながら、横目でちらりと海の様子を窺った。まるですべてを飲み込んでしまいそうな鉛色の波がやけに目についた。

「そろそろお昼ご飯にでもしましょうか」
「もうそんな時間か」
「はい。あと、この辺りに確か定食屋さんがありまして。海鮮丼が安くて美味しいんですよ」

 数刻前に放たれた苛辣な言葉にはお互い触れず、ただ凡庸でありふれた会話をする。田舎と言っても差支えはないであろう土地には、民家や商店がぽつりぽつりと佇んでいた。

「なんやえらい詳しいやん」

 こんなところに本当に飲食店などあるのだろうか、とでも言いたげに、直哉はきょろきょろと辺りを見渡している。そのさまを見て春香はこっそりとため息を吐いた。また自らの触れられたくない心の内をさらけ出してしまう、そんな予感がしたからだ。

「……学生時代に任務で来たことがあるので」
「せやろな。どっちか言うと東京校の範疇やろ、この辺は」

 直哉はそう答えて、それから首を傾げる。

「しかしよう覚えとるな、そんな昔のこと」
「初任務だったんです。それで印象に残ってて」
「……なるほどなァ」

 何かに納得したように、直哉はそっと頷いてみせる。そのさまを見ていると、春香の胸中にはふっと諦めのような感情が浮かんだ。利発で炯眼な直哉なら、春香がその任務を忘れられない理由にすでに思い至ったはずだ。

「春香ちゃんのお綺麗な思い出ってわけやな」

 そう吐き捨てて、直哉は口もとだけで笑ってみせた。心無い、人を食ったようなその表情は直哉が得意とするところだった。
 春香はふと思い出す。直哉がその尊大な表情を浮かべ、春香に正論を突き付けた日のことを。紛れもなく、あの日春香は直哉と決別したはずなのに——。
 今さらになって春香の目の前に現れた、直哉の目的はいったいなんなのだろう。


 港町にぽつんと佇む定食屋は、この冬の最中では客足も遠のいているらしく閑古鳥が鳴くような有様だった。
 昼時を少し過ぎているのも良かったのかも知れない。そんなことを考えながら、端のほつれた暖簾を潜り、建付けの悪い引き戸をガラガラと音を立てて開く。
 薄暗ささえ感じる店内には古びた木製の机が数卓、雑然と並べられていた。昨晩顔を合わせたときと同じく黒のダッフルコートを羽織り、目深にフードを被った直哉が無言のまま春香の後を付いてきている。これまでなら決して女の後ろを歩くことなどなかった男の付き従うような振る舞いに、何だか春香のほうが居た堪れない気持ちになった。
 店の奥にある厨房から、「いらっしゃい」という女性の声が響いていた。どうやら春香たちの来店には気付いたものの手が離せないらしく、その地方特有のイントネーションで好きな席をと勧められる。直哉と目配せをしてから窓際の席に腰を下ろし、店内を見渡すと、壁に張られた年季の入った品書きが目に入った。

「あ。あれです、あれ」

 天井近く、高い位置に貼られた『海鮮丼 五百円』という文字を指さした。直哉はその指の先をちらりと見やった後で、表情を覆い隠していたフードをゆっくりと下ろす。

「……安すぎへん? ボロい店やし、なんや信用ならんねんけど」

 物珍しそうに辺りを見渡しながら、直哉は声を低くする。ずいぶんな言い草だった。しかし、店員に聞こえないように配慮する気遣いは一応持ち合わせているらしい。こういう大衆食堂のような場所に直哉が慣れ親しんでいるほうが違和感があるか、とどこか納得しながら春香はゆっくりと言葉を続ける。

「案外こういうお店が美味しかったりするんですよ」
「ほんまかいな」
「私、海鮮丼にします。直哉さんは?」
「俺も同じのんでええわ」

 直哉は頬杖をつき、店の端に置いてあるテレビに視線をやった。放送中のワイドショー番組では、件の渋谷の一件で壊滅状態にまで陥った東京の復興の様子が映し出されている。学生時代には慣れ親しんでいた場所が変わり果ててしまったことにわずかな寂寥感を覚えた。
 そんな気持ちを振り払うようにかぶりを振って、春香は「すみません」と厨房に声をかける。

「はいはい。ごめんなさいね、お待たせして」

 厨房の奥から、水の入ったグラスを両手に持った中年の女性が人好きのする笑みを浮かべてこちらへ歩いてくる。
 グラスをこつんと音を立ててテーブルに置き、ポケットに入っていた紙の伝票を引っ張り出しながら「ご注文は?」と問いかけようとして——こちらを向いた瞳が直哉の顔を捉え、言葉が不自然に止まった。春香は女性の動揺を無視するように、淡々と言葉をかける。

「……海鮮丼を二つ、お願いします」
「……あ。ああ、はい。海鮮丼二つ。かしこまりました」

 女性は即座に目を逸らし、取り出した用紙に注文を書きつける。そそくさと店の奥へと引っ込んでいく姿を見送ったあとで直哉が口を尖らせた。

「失礼な奴やなあ、名誉の負傷やっちゅうねん」
「……一般の人は大きな傷とは無縁でしょうし、仕方がないですよ」

 春香の陳腐な言葉に、直哉は忌々しげに顔を歪ませる。

「東京があんな状態やって言うのに。想像力の欠如やな」
「そもそも呪霊が何かわからないんですから。それと直哉さんの怪我を結び付けろっていうのは酷な話かと」
「哀れなもんやで」

 直哉は肩を竦め、机に置かれたグラスを手に取り唇を湿らせる。暖房の熱によって結露した雫がぽたぽたと木製の机に垂れていた。春香は少しだけ思案して、それからおずおずと口を開く。

「というか、その傷、渋谷で負ったんですか?」
「いや? 全然ちゃうけど」
「絶対今そういう流れだったじゃないですか」
「それは君がそう思い込んだだけやろ」

 直哉は唄うように「ちょっと短絡的すぎるんちゃう、春香ちゃん」と嘯いてみせる。どうあっても自分の怪我の原因を明らかにすることは避けたいらしい。プライドの高いこの人らしいと思いつつ、春香は大きくため息を吐いた。

「直哉さんって、昔からそういうところありますよね」
「何が」
「隠し事が多いというか、何というか」

 思いの外拗ねた口調になってしまったことに気がついた。春香は俯き、机の木目をじっと見つめる。いったいどうして、春香に拗ねるような権利があるというのだろう。
 直哉はちらりと春香の様子を窺って、それからゆっくりと口を開いた。

「君が気にする話とちゃうからな、これは」

 わざとらしく息を吐き、直哉はふいと窓の外へと視線を移す。空はずいぶんと暗くなり、これからの天気が荒れることを示唆していた。何となく躊躇い、春香はおどおどしながら顔を上げる。その台詞に真意があるとすれば、それは気遣いなのだろうか。そんな野暮なことを考えた。考えながら、少しだけ。
——そういう慧敏なところは、どこかあの人に似ている。
 口を噤み、今にも雪の降りだしそうな空を見つめている直哉の吊り上がったまなじりをただただ見つめて、春香は静かにそう思った。

ALICE+