幽けきものたち


「……降ってきましたね」
「まあそら降るやろな」
「早めに行けるところまで行っちゃいましょう」

 海鮮丼に舌鼓を打ち車に戻ってみると、空からはちらちらと雪が降りだしていた。コートを脱ぎ、それを後部座席に放り込んでから、二人はまた車へと乗り込む。黒いタートルネックのセーターと濃いグレーのテーパードパンツを身に纏った直哉は、見るからに高そうな、洗練された服をしっかりと着こなしている。
 普段のあけすけな態度や明るく染め上げられた金髪の印象から忘れてしまいそうにはなるが、この男は呪術界でも指折りの名家の出だ。そのことを思い出して、春香は少し、滅入るような気持ちになった。
 高そうな服に、不釣り合いな傷。いや、傷だけではない。この場所も、この状況も、何もかも、禪院直哉という人間には似合わないものだ。

「お口に合いました? あのお店」
「……海沿いやし、鮮度はええわな、やっぱり」

 食べる前には安いだの何だの文句を言っていた直哉だったが、意外にもその味を気に入ったようだ。ふいと窓の外を向いてしまった直哉の横顔を見つめた後で、春香はまた車を走らせるべくハンドルを握った。


 車は北へ北へと上がっていく。昼過ぎに降り出した雪は激しさを増し、空を鈍色に染め上げていた。

「なんや嫌な天気やな」

 直哉のすらりとした指がコントロールパネルに触れる。何度かその指がボタンを叩いた後で、天気予報を流している放送局に辿り着いた。

「ぼちぼち宿でも見つけなあかんのちゃう」

 オーディオからは、この後の荒れ模様を懇々と説明する天気予報士の声が流れていた。直哉の声に頷いて、春香は口を開く。

「そうですね。確かこの辺りに民宿があったはずなんですが……」

 春香は目を凝らしながら辺りを見渡した。ちらちらと降っていたはずの粉雪が群れを成して舞っている。ハンドルを取られないようにゆっくりゆっくりと車を前進させていると、直哉が呆れ顔で「いつの情報やねん、それ」と呟いた。

「初任務のころなので、ざっと十年くらい前です」
「……なあ、春香ちゃん。まさかアレに泊まる言わへんやろな」

 苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべ、行く先にある廃屋を指さした。

「あー……。あれですね」
「潰れとるな、どう見ても」

 直哉がしらっとそんな言葉を投げかける。春香は「うーん」と唸り、首を傾げた。

「まさか無くなってるとは」
「下調べもせんと来たらこうなるわな。補助監督辞めてから勘が鈍ったんちゃうか」

 直哉はこちらに視線を寄越し、厳しい言葉を投げかけた。目的も言わずに旅に付き合わせている相手に対して、何とまあ勝手な言い草だろう。そう思ったけれど、春香は自分が直哉の道連れとなった理由を思い出し、口を噤んだ。自分勝手なのは、お互い様だ。

「昔来たことある言うたのはなんやったん」
「……あのころは私も学生で、術師志望でしたし。当時の補助監督の方が引率してくれていたので」

 ぽつりぽつりと言い訳をしながら、ゆっくりと車を走らせる。レンタカーを借りる際にスタッドレスタイヤのオプションは付けてきたものの、この分では遅かれ早かれハンドルを取られてスリップしかねない。
 どうしたものかと思い隣に座る直哉の様子を窺うと、彼は何やらスマートフォンを忙しなく触っていた。眉根を寄せ、どこか険しい表情を浮かべているように見える。

「……」
「あの、どうされました?」
「いや? なんもないわ」

 春香の問いかけに直哉は肩を竦めてみせる。それからテーパードパンツのポケットにスマートフォンを仕舞い込み、顎をしゃくって道の前方を指し示した。

「ここら辺やとあそこに泊まるしかないんちゃう」

 直哉が示した先を春香もじっと見つめる。ショッキングピンクの猥雑なネオンサインがぎらぎらと輝き、この雪の最中であるにも関わらず、その存在を貪欲に主張している。
 こんな寂れた場所になぜ、とほんの一瞬思ったけれど、こういう田舎のドライブコースにはこういう建物は付きものだ。

「いや、でも、それは……」
「ええやん、もう泊まってこ。雪ん中で車中泊なんて自殺行為はしたないで、俺」

 もうどうにでもなれとでも言うかのように、直哉は窓枠に頬杖をつき、こちらを静かに見据えている。
 直哉の言ももっともだ。この積雪では気温も下がり続ける一方だし、何より車のマフラーが塞がれでもしたら排気ガスが逆流して一酸化炭素中毒になりかねない。

「何を今更。初めてでもないんやし。……あ、もしかして操立てでもしとるつもりなん? もう意味がないのは君もようわかっとるやろ」
「……そんなつもりじゃ、」
「春香ちゃん、一途やもんな」

 直哉は蔑むような笑みを浮かべ、目を細めた。勝気な印象を与える吊り目がちなその瞳が、何かを探るように春香を見つめている。その視線に耐えることも直哉の言葉に言い返すことも出来ず、春香は小さくため息を吐いた。


 妙なことになってしまった。そんな思いが春香の脳内を渦巻いていく。
 何なら昨日直哉と再会してからずっと妙なことだらけのはずなのに、それには気づかないふりをし続けていた。ひどく滑稽な自らの振る舞いを嘲るような気持ちになりながら、春香は直哉の後に続いてその建物に足を踏み入れた。
 自動ドアを通り抜けると、様々な部屋の写真がはめ込まれた大型のパネルが薄暗いエントランスの中で唯一煌々とした光を放っていた。所謂ラブホテルと呼ばれるその場所に不釣り合いな男が、そのパネルの前で気だるげに足を止めてこちらを振り返る。

「適当な部屋でええやろ」
「……はい。どこでも良いです」

 大雪の中である。車でしか来れないような場所にあるホテルには宿泊している客もほとんどいないらしく、数々の写真が客が入るのを待つように輝いていた。直哉は慣れた手つきで部屋を選択し鍵を受け取ると、背後にあるエレベーターへと春香を誘いざなった。
 目的の部屋の中に入ると、そこにはキングサイズのベッドや安っぽい合皮のソファが鎮座していた。
 どこかチープな印象がすることを除けば普通の部屋に見えなくもないものの、天井に貼られた鏡だとか、淫靡な映像を流し続ける液晶テレビだとか、そういうみだりがわしい設備の数々がこの場所が作られた意図をありありと主張している。先導して部屋に入っていた直哉がテレビの脇に置かれていたリモコンを操作し、ごくごく普通のニュース番組に切り替える様子を見ながら、春香はテーブルの上にあったルームサービスのメニュー表に手を伸ばした。

「何か食べますか?」
「後でええわ。そんな時間とちゃうやろ」

 直哉はそう呟き、テレビ画面を親指で指さした。画面の左上には十六時二十三分という時刻が記されている。それもそうか、と納得して春香はゆっくりとソファに腰を下ろした。

「直哉さん、こういうの食べたことなさそう」
「なんやそれ。貶しとるん?」
「いやまさか。お家が厳しそうなので」

 直哉は皺ひとつないベッドに座り、こちらを向いた。

「別に箱入りってわけでもないしな。高専には行かんかったけど普通に大学まで進学はしとるし、それなりにいろいろ経験しとるで」
「……お友達とかもいらっしゃるんですか?」
「失礼な奴やな、ほんまに」

 言葉の上ではそんなふうに言ったものの、直哉は春香の不躾な物言いに頓着することなどない様子でスマートフォンをいじっていた。
 禪院直哉という男はきわめて不遜で、高慢な男である。しかしその割には、春香が何か失礼なことを言ったとしてもそれを咎めて逆上することなどはなかった。直哉の中には物事に対する明確な価値基準があり、それを侵食しない限りはなじられることも謗られることもなく、そういうところは彼の美点であるとも言えた。
 とはいえ彼は決して優しいだけの男ではない。その鋭い眼差しから受ける印象そのままの怜悧狡猾な精神は、時に直哉自身にも他人にも桎梏を課す。そんなこと、春香はよく知っていたはずなのに——。補助監督を辞めて一年。ほんのわずかな月日の流れが春香にそのことを失念させていたことに気づいたのは、夜が訪れてからのことだった。


 ホテルに到着してから数時間が経過し、各々順番にシャワーを浴びた。それからルームサービスを頼み、腹を満たす。いかにも安っぽい、冷凍食品を温めただけにも思えるそれを直哉が黙々と口に運ぶさまは何だか違和感があったけれど、春香はもうそれを言葉にすることはしなかった。

「明日は何時に出ましょうか」
「あとどれくらいかかるん」
「だいたい半分くらい進んだので、あと五、六時間ってところですかね」
「そんならちょっとゆっくりしても良さそうやな」

 隣り合って座っていた二人掛けの小さなソファから直哉がそっと立ち上がり、部屋の隅にあった冷蔵庫から缶ビールを二本抜き取った。

「ちょっと付き合えや」

 直哉は片手に持っていた一本を春香に寄越すと、立ったままプルタブを開けてそのまま缶を傾けた。酒を一口煽り、それから手の甲でぐいと口もとを拭う。きわめて俗っぽい、粗野な仕草であるにもかかわらず、直哉にはどこか気品のようなものが漂っている。名家に生まれた男には、こんな場面でも上品な立ち振る舞いが身についているのだろうか。そんなことを考えながら、それから春香はゆっくりと缶ビールを開け、よく冷えたそれを舐めるように飲んだ。その動作を見咎めた直哉が静かに春香の隣に腰を下ろし、問いかける。

「酒、苦手なんか」
「いえ、好きですよ。ただ炭酸があんまり」
「……先に言えや」

 大きくため息を吐いてから、直哉は背もたれに大げさにもたれかかり、「要らんかったら寄越しぃ」と呟いた。直哉の片方の手が、春香の目の前に差し出される。春香はその手をじっと見つめたあとで、手に持っていた缶ビールをもう一度口に含む。それから「大丈夫です」と呟いた。

「今日は飲みたい気分なので」
「ほんまかいな」
「直哉さんもそうだったんじゃないんですか?」

 右隣に座る直哉の横顔を見る。昼間の車内で嫌と言うほど目にしたそれとは異なり、ここから見る彼のかんばせはかつてと同じく美しく完璧に整って見えた。直哉は黙り、こちらに視線を寄越したあとで「さあな」とぽつり呟いた。

「そもそも割と飲む方やしな、俺」
「……強そうですよね、お酒」
「家系やろなァ」
「ご家族の方もお強いんですか?」
「家族っちゅーか、父親や父親」

 よう付き合わされとったわ、と言葉を繋ぎ、直哉はまたビールをひとくち口に含む。何だか哀愁を帯びた、そんな表情にも見えた。……が、それは単なる思い込みなのかもしれない。
 確かな実力を持つ呪術師で、呪術界きっての名家の後嗣とも名高い男だった。不遜な態度を取ってみせるくせに、春香が本当に嫌がることはしない、そんなわかりにくい気遣いを兼ね備えているこの男は、いったいどうして春香のもとに現れたのだろう。父を亡くし、家を失い、哀れみや同情を求めてか。そう思い、それからすぐに、ありえないことだと思い直した。自身の身の上に起こった不幸を嘆き悲しんで女に縋ることなど、彼がもっとも嫌うところだということは、春香もよく知っていた。

「……直哉さん」
「あ?」
「聞いても良いですか」

 直哉は何も言わず、その射るような眼差しで春香に言葉を促した。炯々たる瞳が、鋭く春香を見つめている。

「……どうしてわざわざ私のところまでやってきたんですか」
「……それを知ってどうするん」

 手に持っていたアルミ缶をテーブルの上に置いて、直哉は膝の上で指を組む。

「どうにもしません。でも、一介の補助監督に、それももう辞めた人間なんかに、自分の時間を割くような人じゃないでしょう?」

 それなのに、どうして今更。続けようとした言葉は飲み込んで、春香はまた、直哉の美しい横顔を見据えた。直哉は目を細め、何かを考えるようにじっとこちらを見つめている。目尻の吊り上がった意志の強い瞳が逡巡に揺れているようにも思えた。

「……まあそうやな。こんな状況にでもならんかったら君とは二度と会わんかったやろうけど」

 数秒とも数分とも取れるような奇妙な沈黙を保ったあと、直哉はそう言葉を紡ぐ。

「慰めたろかなァ、思て」

 そう言うと直哉は口の端を吊り上げるようにして笑ってみせた。直哉の言わんとするところがわかったような気がして、春香は思わず口を噤む。

「さっき言うてた初任務って、どうせあいつと一緒やったんやろ」

 直哉は意地悪な笑みを浮かべたあとで、春香の耳元に自らの口を寄せる。静かに、しかし揶揄するような響きでこう問いかけた。

「去年の百鬼夜行に、こないだの渋谷事変。慕っとった男が大犯罪犯すのって、どういう気持ちなん?」

 思わず、春香は目の前の男を睨みつけた。言われたくない言葉を、この男はいとも容易く口にする。この男のこういうところが嫌なのだ。春香の心の内を暴き、傷つけるとっておきの言葉を知っている。そういう聡明さが昔から苦手だった。


 思い出したくない思い出は、その願いとは裏腹に何年時が経とうとも決して消え去ることはない。美しいあのころの思い出を、大事に大事にしたかった。絶対に口にしてはならないことなどわかりきっていた。だから、自分ひとりの心の奥底で、ずっとずっと抱えていたかった。それだけだった。
 春香の鋭い視線を受けた直哉は、いったい何が面白いのか喉の奥をくつくつと鳴らして笑っている。そしてそのままゆっくりと手を伸ばし、春香の頬を包み込むように触れた。直哉の手が熱を伝える。冬の最中であるにもかかわらずずいぶんと熱い手をしている。それは奇しくもあの学生時代のある男の手のひらを彷彿とさせた。春香はそっと目を瞑り、あのころのことを思い返す。

——あのころ、たった半年にも満たないわずかな時の流れの中で出会った人のことが、十年以上経った今でも春香の心に深く突き刺さって忘れられない。

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