春光

 人の記憶というものは、まずは“声”から失われていくらしい。どこかで聞きかじったその話は、いつからか春香にとっては真実となり果てていた。
 物心付いたころにはすでに姿がなかった父の声はもちろん、高専に入学してから一度も顔を合わせていない母の声ももう曖昧だ。それに、まだまだ夏の暑さの残るあの日を境に袂を分かつことになってしまったあの人の声も。優しく穏やかな語り口も、どこか物憂げな笑顔も、彼の近くを通るたびにふわりと香ったサンダルウッドの香水の匂いも、どれもしっかりと覚えているはずなのに、彼の甘く落ち着いた声だけが春香の記憶からすっぽりと抜け落ちてしまっている。
 感情は厄介だ。恨みや嫉み、後悔や恥辱といった負の感情は人々を襲う呪いを生み出すし、喜びや楽しさ、好奇心などの正の感情は簡単に人を舞い上がらせて、心を乱していく。その最たるものはおそらく恋だろう。
 だから春香は嫌だった。自分の心を揺さぶるような“何か”に出会ってしまうことが怖かった。誰にも慮られることなく、ただ淡々と、平易な毎日を過ごすことができたならそれで充分だった。けれど。
 あのころ、学生時代のあの出会いに、春香の胸に沸き上がったあの心情に、一番近いものを表現するのなら。それはきっと、恋という言葉に違いないと、春香はそう思っている。



 二〇〇七年、春。春香は東京都立呪術専門高等学校に入学した。
 人知れず呪いを祓う呪術師たちが集まった呪術界は、兎にも角にも閉鎖的な業界だった。呪いを視認することが出来る人すらほとんどいないこの世界では、呪術師はそもそもの数が少ないマイノリティであるのだから、仕方ないとも言える。
 こんな閉ざされた世界に足を踏み入れて、はたしてやっていけるのかと心配になったのも束の間、穏やかな同級生や優しい先輩たちに安心を覚えたことをよく覚えている。
 たった一人の同級生は細かいことにもよく気の付く心優しい少年で、その善良さにはいつも救われていたし、一つ年上の先輩たちも春香と同じく非術師家系の出身で、入学したて出右も左もわからない当時の春香にとても良くしてくれた。そんな温良篤厚な人々に囲まれてスタートした春香の学生生活で、今もなお忘れることの出来ない記憶がある。



 あれは、高専に入学して一か月が経過したころ。春香は高専にある休憩スペースで一人、自動販売機で購入したサイダーを片手に任務資料を読み込んでいた。
 高専を囲む山々の新緑も青々と美しく輝く五月。開け放たれた窓からは爽やかな風が吹き込み、手に持った紙を揺らしていた。春香はホッチキスで留められている資料をぺらりとめくったあとで、買ったばかりのペットボトルの蓋を開けるべくその紙の束を座っていたベンチに置く。資料には明日赴くことになる呪霊祓除任務についての詳細が記されており、春香は高専に入学して初めて就くことになった任務にどぎまぎしながらそれに目を通しているところだった。
 明日の初任務では、高専の教師が引率するのではなく、三年生の先輩がフォローに入ってくれるのだという。例年にも増して呪霊被害が発生したその年は教師であろうが学生であろうが等しく任務に駆り出されており、タイミングの合わない担任教師に代わって学生ながら特級を冠するその人が春香に同行すると聞いていた。
 サイダーで喉を潤しながら、春香は傍らに置かれた資料の一番上に記されたその名を横目でなぞる。春香と同じ非術師家庭の出身でありながら、その名を呪術界に轟かせている人だった。姿こそ遠目には見たことはあったものの、この繁忙期の最中挨拶すらもまだできていないような人と初めての任務で一緒になるということに些か緊張を覚え、休憩時間にも必死に資料をめくっていたというわけである。

「あれ、志鷹さん、一人?」

 休憩スペースの入口から、黒髪の少年がひょいと顔を出し快活に笑って春香に声をかけた。その後ろから、背が高く生真面目な表情を浮かべた少年が覗き込むように顔を出している。

「灰原さん。……と、七海さん。お疲れ様です」

 現れたのは灰原雄と七海健人という春香より一学年上の先輩二人組だった。動きやすそうなジャージ姿の二人は連れ立って自動販売機の前に歩いて行き、それぞれ飲み物を購入する。汗を拭きふき現れたその様子から察するに、どうやら組み手の訓練か何かを行ってきたあとらしい。

「伊地知は一緒じゃないの?」
「伊地知くん、今日は初任務なんですよ。五条さんと一緒に」

 購入したばかりのスポーツドリンクの蓋を捻りながら、灰原が親しげにそう笑ってみせる。灰原の問いかけに答えれば、連れ立っていた七海が顔を顰めて「伊地知くんもお気の毒に」と呟いた。

「……五条さんと一緒って、何か良くないことでもあるんですか?」
「いやいや、そんなことないよ。強くて頼りになるし」
「初めての任務であの破天荒な人と一緒になるのはキツいだろ」

 灰原のフォローを七海がばっさりと切り捨てる。率直なその物言いに、彼らが学年同士の垣根を超えて気の置けない関係であることが窺い知れた。

「で、志鷹さんも任務ってわけだ?」

 灰原は春香の隣に置かれていた任務概要の書かれた書類を拾い上げ、目を通す。呪霊の発生場所や等級などを目で追ったあとで、ぺらりとページをめくり、感嘆するような声を上げた。

「夏油さんと一緒なの? いいなあ」

 僕が一緒に行きたいくらいだよ、と呟いて灰原は資料を春香に手渡した。春香はそれを受け取りながら、「どうにも術式が似ているらしくて」と口に出す。
 春香の術式は特段珍しいものではない。式札を媒介に式神を使役する、呪術界においてはきわめて凡庸な術をその身に刻んでいる。

「あまり人にぺらぺらと言わない方が良いですよ。術式の開示は時に切り札になる。温存しておくべきです」

 しかめっ面のまま、七海がそう呟く。春香は「はい、気をつけます」と返事をし、七海の隣に立つ灰原が「堅いなあ、七海は」とからかった。

「堅い云々ではなく。この中の誰かが敵に回るかもしれないでしょう」
「それって呪詛師になるってこと? まさか。想像つかないよ」

 二人の先輩たちがぽんぽんと言葉を飛び交わせているのを聞きながら、春香はおずおずと口を開いた。

「あの、聞いても良いですか」
「ん? どうしたの?」
「夏油さんって、どんな人なんですか?」
「ああ、学年が上がってからずっと忙しそうだから、志鷹さんはよく知らないよね」
「はい、まだご挨拶もしたことがなくて。それに……」
「それに?」

 思わず口を噤んだ春香に、きょとんとした顔をした灰原が言葉の続きを促した。
 夏油傑。初めての任務を一緒にすることになるその男について、春香が知っていることはそう多くはない。
 その実力は高く、呪術高専の三年にあたる学生の身ながらすでに特級術師の一人に数えられている人だった。この繁忙期の最中、面と向かって挨拶をする機会すらなかったものの、遠目に見た限りでは正直、何というか——。

「何というか、ちょっと、怖そうな人だなって」

 夏油傑という人間は、背が高く筋肉質で、がっしりとした体つきをしている。特徴的な切れ長の目は彼の精悍で整った顔つきを強調するかのように鋭く、意志の強い印象を与えていた。耳には大ぶりのピアスをぶら下げて、ボンタンのような制服を身に纏って同級生である五条と連れ立って歩いている姿を見たときには、ひょろりとした長身で人目を引く容姿をしている五条の立ち姿も相俟って、非常に近寄り難い、迫力のある人たちだと思ったものだ。
 そう思って躊躇いながらも口にした言葉を聞いて、目の前に立つ灰原と七海が顔を見合わせる。我ながら失礼なことを聞いてしまった、と罰の悪い気持ちになって春香は視線を彷徨かせた。そんな春香の様子には気づかない様子で、灰原が大きく口を開けて「あはは!」と笑い声を上げる。

「灰原さん?」
「いや、ごめんごめん。確かにぱっと見は怖いよね。夏油さん、かなりガタイも良いし」

 灰原はそこで、言葉を切った。それからゆっくりと口角を上げて、春香を安心させるように笑みを浮かべてみせた。

「でも、尊敬できる人で、誰よりも優しい人だよ」

 灰原はそう言ってにっこりと笑う。隣に立つ七海が同意するように頷いて、春香は少しだけ、翌日の任務への不安が解消されたような気持ちになった。



 呪霊操術と式神術は、一見よく似てはいるが、実は似て非なる術式である。
 どちらも古くからある名の知れた術式だ。その名の通り降伏した呪霊を操る呪霊操術と、この世ならざる鬼神を召喚し調伏することで使役する式神術。操るモノ自体は異なるものの、戦闘時の立ち振る舞いや術式の行使の仕方など、共通する点は非常に多いと聞く。
 だから春香たち新入生の初任務に学生が同行することになったとき、夏油傑という呪霊操術の使い手に白羽の矢が立ったのは至極当然の流れだったのだろう。

「はじめまして。三年の夏油です」
「は、はじめまして。志鷹です」

 高専駐車場に停められた黒塗りの車の前。補助監督が車のエンジンを入れ、出発の準備をしている姿を横目に見ながら、春香は夏油傑との初対面を果たしていた。
 物憂げな面差しした、静謐さを身に纏ったような人だった。たった二つ年上なだけだというのに、ずいぶんと落ち着き、大人びているように見えた。四月ごろ、五条と並んでいたときに受けた印象とは少しだけ異なるような、そんな気もした。

「あはは、緊張してる?」

 夏油はおどおどと挨拶をした春香に、笑ってそう問いかける。笑うとその途端に、どこか遠い人のように思えていた彼の雰囲気が親しげなものに変わり、何だか驚いた。

「……少しだけ」
「呪霊の祓除任務に就くのは初めてなんだっけ?」

 その問いかけにおずおずと頷くと、夏油は「そりゃ怖いよね」と肯定した。

「ま、何かあったら私が絶対に助けるから。今日は安心してくれていいよ」

 よろしく、といたずらっ子ように微笑んで、夏油は右手を差し出した。その手を握り返しながら、春香はほっと胸を撫で下ろす。灰原の言う通り、優しい人であるようだった。



 朝早く出発したはずなのに、任務地に到着したころには既に正午を少し回っていた。
 車に揺られて数時間。到着したのは日本海沿いに位置する■■県■■市である。
 ■■市の山間部、過疎化により廃校になってしまったとある学校の解体工事現場において、夜な夜な“何か”が走り回る音がする——、と言うのが窓が聞きつけた最初の情報だった。

「それで補助監督が派遣され、調査を行ったのが先週のことらしい」

 夏油は停止された車の中で、任務概要の記された書類をめくり、そう呟いた。春香が昨日読み込んでいた資料と同じ文言ではあったが、連日呪霊の祓除に駆り出されている夏油にはそれを読む暇もなく本日の任務に対応することになったのだと言う。

「よくある怪談話って感じですけど、こういうのが呪霊の仕業ってことが多いんですよね?」
「そうだね。都市伝説とか、所謂学校の怪談なんかのもとになっているのはほとんどが呪霊が原因だと思うよ。現に私もそういう呪霊を使役していたこともある」

 さらりと解説しながら、夏油は運転席に座っていた補助監督にめくっていた書類を手渡した。先ほど渡されたばかりのそれの内容を夏油はあっという間に理解したらしい。昨日すべて読み終えて予習を終えるまでに春香はかなりの時間を要したのに、場数の違いがこの差を生んでいるのだろうか、だなんて詮無きことを考えてしまう。

「じゃあとりあえず……」

 夏油は鷹揚にそう呟き、腕を組む。呪霊の祓除に纏わる対応策を懸念しているかのような真剣なその表情に、春香もまた、「はい」と相槌を打った。

「……腹拵えでもしようか」
「はい、わかりました。……って、え?」

 生真面目に頷いたあとで夏油の発した言葉の意味に気付き、春香は慌てて彼の顔を見上げる。口角を上げて悪戯っぽく微笑む夏油に「いいんですか?」と問いかければ、「志鷹さんもお腹すいただろ?」と事も無げに肩を竦めた。

「それに、行ってみたい店があってね。……宮田さん、寄ってもいいですか?」

 夏油は人懐っこい笑みを浮かべてハンドルを握る補助監督にそう問いかける。宮田、と呼ばれた初老の補助監督は「夏油くんが言うのなら」とにっこり頷いてみせた。
 夏油に案内されてやってきたのは、古びた佇まいの定食屋だった。引率していた補助監督は、高専への連絡事項があると告げ、電話をかけるため店の外へ出て行ってしまった。夏油は「これがおすすめらしいよ」と、店の壁に貼られていた品書きの中にある『海鮮丼』を指差し、さっさとそれを三人前注文する。

「前に灰原がこの辺りに任務で来たみたいでさ。海鮮丼が美味しいって言うから、食べてみたかったんだ」

 店内は少しばかり古びたつくりをしており、机のがたつきや隙間風が目立っていた。物珍しさにきょろきょろと辺りを見渡している春香に、夏油は「女の子はあまりこういうお店は来ないよね」と笑う。

「でも、こういうところが案外美味しいお店だったりするんだよ」
「なんだかそれは、わかるような気がします」

 春香がそう肯定すると、夏油が切長の目をそっと緩ませた。

「……高専はどう? もう慣れた?」
「そうですね、皆さん優しいですし」
「それはよかった。非術師家庭の出身って聞いてたからさ。慣れない環境だろうし、ちょっとだけ心配してたんだ」

 とりとめのない言葉を交わしているうちに目当ての品を店員が運んでくる。大きな丼飯の上にはいかにも新鮮な海の幸がはみ出んばかりに盛られていた。思わず「うわぁ」と感嘆の声を上げると、目の前に座る夏油がにっこりと笑みを溢す。

「すごい量だよね。これで五百円はなかなかないよ」

 志鷹さん、食べられそう? と春香を気遣いながら、夏油はテーブルの端に置いてある箸立てから割り箸を二本取り出して、そのうちの一本を春香に差し出した。

「あ、すみません。ありがとうございます」
「いいよ、気にしないで。食べようか」

 いただきます、と軽く手を合わせてから、酢飯の上に乗った一切れの鮪を口に含む。つやつやとした油の乗った刺身を咀嚼すると、途端に口の中に上質な旨味が広がり、春香は思わず口元を押さえた。

「おいしいですね、これ……」
「本当だ。灰原センスいいね」

 そんな会話を交わしながらもう一口刺身を口に運ぶ。もぐもぐと口を動かしていると、なぜかこちらをじっと見つめる夏油と目が合った。

「……あの」
「ん? なんだい?」
「いえ。……こちらを見られていたので」

 口の中のものを飲み込んだ後で、春香は気恥ずかしい思いをしながら夏油に声をかけた。
 何か作法でも間違ってしまっただろうか、と少しだけどきまぎしたような気持ちになる。行儀が悪いわけではないはずだが、胸を張ってそう言えるかと問われればいまいち自信がない。本来なら幼い頃に叩き込まれるはずのそれを、どこかに置いてきてしまった自覚があったからだ。
 夏油はそんな春香の動揺にはまるで気が付かない様子で、しかしわずかに目を丸くしてからくしゃりとした笑みを浮かべる。

「ああ、ごめんごめん。美味しそうに食べるな、って思ってさ」

 そう呟いて、それから夏油はいつの間にか置かれていた箸を再び手に取った。

「所作が綺麗だからかな」
「え?」
「見ていて気持ちが良いから——って、ごめん。不躾だよね」

 どこか慌てたようにそう言って、夏油は誤魔化すように丼を持ち上げ薄紅色に輝くサーモンを掻き込んでみせる。春香もまた、少しだけ狼狽えながらあら汁の入った椀にそっと口をつけた。
 立て付けの悪い店の引き戸がガラガラと音を立てて開かれる。補助監督の宮田がこちらに戻ってきて夏油に話しかける姿を横目に見ながら、春香は心を落ち着かせるように、静かに深呼吸をした。



 昼食を食べ終えて、一行は目的地である解体工事の現場に到着していた。山間部にある廃校の周りには仮囲いが組まれ、重機などが並べられているにもかかわらず、作業員などの姿はなく、どこか閑散とした雰囲気を呈している。

「……工事は中止になったんでした?」
「数日前に怪我人が出まして。ちょうどそのころ窓による調査が行われ、呪霊の存在が確認されたものですから、それから民間人は現場に入れないように通達が出されたようですよ」

 静かに辺りに目を走らせていた夏油が端的に問いかけると、宮田が資料をめくりながらそう答えた。
 周囲にはさわさわと木の葉が揺れる以外、物音ひとつ聞こえて来ることはない。太陽は高く登っており、ここに来るまではいっそ暑いくらいだったのに、背の高い木々が陽の光を遮ってしまうこの場所はどこか侘しく寒々しい雰囲気すら感じられた。

——まるで、故郷のあの峡谷のようだ。

 ぼんやりとそんなことを思う。この息苦しいまでに重々しい空気があの日の峡谷の姿にあまりに酷似していた。東京から車を走らせること数時間。日本海沿いに位置するこの■■市は、春香の故郷からもほど近い場所にある。近隣の土地であるという地域性がそれを思わせるのか、はたまた等級の高い呪霊がそこにいるからか、春香には判断がつかなかった。

「なるほど、そういうことですね。……さて。それじゃあ今日は志鷹さんにまずは対応してもらおうかな」
「えっ」
「物は試しというやつさ。宮田さん、帳、お願いしますね」

 悪戯っぽく笑ってそう告げると、夏油はさっさと現場に入るべくさっさと仮囲いの切れ目から現場に足を踏み入れた。「承知致しました」と慇懃に答える宮田の声を背中に聞きながら、春香もまた、慌てて夏油の跡を追った。

「志鷹さん、呪霊の等級は覚えてる?」
「はい。一級呪霊が数体目視で確認できているとか」

 仮囲いの中に入ると、そこにはこの廃校のグラウンドがあった。かつて学校が学校として機能していたときには活気があったのだろうと思わせる遊具の数々が端の方にぽつりぽつりと等間隔で並んでおり、その奥に古びた木造の校舎が見える。

「そうだね。一級呪霊数体・・・・・・だ」

 呪霊の発生は、校舎内に限られるのだという。まずは現場へ向かうべく、開けたその場所を突っ切るように歩いていると、夏油は意味ありげな口調でそんなことを呟いた。

「……何か違和感でもあるんですか?」
「違和感ではないんだけどね。でも、どんな呪霊が巣食っているのか、当たりをつける材料にはなりそうだ」
「当たりをつける、ですか……」

 春香は夏油の言葉に相槌を打つと、その意味を考えるべく頭を働かせた。

「“廃校に出現する、数体の一級呪霊”。よくある事例に思えるんですが、違うってことですか?」

 呪霊の源は人間が発する負の感情だ。人が集まれば集まるほど負の感情は吹き溜まりやすくなり、呪霊として体を成す——。春香は高専に入学してすぐにそんなことを教わった。
 特に多くの人が数年間の生活の大半を過ごす学校という場所には人々の念が籠り、呪霊の発生頻度も上がる。そんなところに複数の呪霊が出現することは特段不自然とは思えない。

「……確かに人の集まる学校には呪霊が発生しやすい。複数の呪霊が同時に出現するのもあり得ない話ではないだろうね。それが、低級の呪霊なら」

 春香のそんな考えを見透かすように、夏油は肩を竦めて見せる。

「でも、一級だなんて等級の高い呪霊が集まるとしたら——。そこには何か理由があると思わないか?」

 夏油の問いかけに春香は思わず息を飲んだ。確かに彼の言う通り、どこにでもある——それも人口の少ない田舎町にある——学校に複数の一級呪霊が集まるなんて、何か原因となるものがあるとしか思えない。すぐにそのことに思い至らなかった自らの未熟さを反省しながら、春香はそっと思いついた言葉を述べた。

「昔ここで何か事件でも起きたとか」
「何かここに通っていた生徒に伝わる怪談話があるとかね」

 春香のその答えに、夏油は満足そうに笑って言葉を付け足した。
 いつの間にか目指していた校舎が目の前まで迫っていた。玄関口もたった数メートル先に見えすぐにでも現場に入ることができるはずなのに、どういうわけか夏油はそこで足を止めて人の良い笑みを浮かべる。

「さて、それじゃあここにはがあると思う?」

 夏油の問いかけに答えるべく、春香は昨日読み込んだ任務概要の書かれた資料を思い返した。
 あの資料には、この一級呪霊の発生に纏わる一連の情報全てが記載されている。その内容は呪霊の発生日時や場所、被害者の個人情報など多岐にわたるものだ。特に今回は、呪霊の出現から呪術師の派遣に至るまで一週間という期間を要している。呪霊が発生してすぐの派遣ならば情報の収集や精査が間に合わず祓除に赴いた呪術師が調査任務に当たることもあるものの、事前調査を行う時間のある案件に関しては補助監督や窓によって原因となり得る伝承や事件などの情報提供があるのが定石だった。
 と、そこまでを考えて、春香はふとあることに気がついた。

「……夏油さん」
「ん? どうかした?」

 思わず隣に立つ先輩を見上げると、夏油は口元に微かな笑みを浮かべて返事を寄越した。その表情はまるで何かを期待するかのようにわくわくとして見える。春香は一度大きく息を吐いてから自分の見解をまとめた。

「もし昔ここで呪霊の発生源になり得るような事件が起きていたり地域住民の間で噂になっている怪談話があるのなら、事前に情報として渡されますよね?」
「そうだね。その通りだ」
「特に今回は窓による第一報から呪術師が派遣されるまで一週間もかかっています。もし本当に事件や事故のような曰くや、地域に根差した噂話があれば、補助監督による調査によって、任務資料に盛り込まれるのではないでしょうか。それがないということは——」
「ないということは?」
「複数の、一級呪霊が集まる原因も存在しない……?」

 何だか堂々巡りの結論に達してしまった気がする。そのことに気づき、春香は首を傾げた。最初に夏油に問いかけられたのは“ごく普通の学校に、等級の高い呪霊が複数集まる原因について”だったはずだ。その原因が存在しないというのなら、そもそもの問いかけ自体が無意味だったということになる。
 それに、補助監督がまとめた任務資料に記されていた、“複数の呪霊の目撃情報”についても気になった。間違った情報が記載されていることはあり得るのかもしれないが、夏油と今日一日接してみて、彼がそれを指摘するためにこんな回りくどい方法をとる嫌味な人物だとは到底思えない。
 春香は混乱を隠せないまま、ほとほと困り果てて夏油の顔色を窺った。夏油は満足そうな笑みを浮かべ、こう呟く。

「初任務でその答えに辿り着けるだけでも上出来さ」
「……ありがとうございます?」

 どうやら春香の回答は夏油にとっては及第点であったらしい。どちらかと言えば夏油の誘導に従ったがゆえに出た答えな気もするけれど——。そんなことを考えながら軽く頭を下げると、夏油は深く頷いて言葉を紡いだ。

「あとは実地で答え合わせをしよう」

 ようやく校内に足を踏み入れると、古く傷んだ校舎には何だか息の詰まるような独特の空気が漂っていた。なぜ呪霊がいる場所というのはこんなにも重苦しい雰囲気を醸し出しているのだろう。呪霊が根付いているからか、それともこんな場所だからこそ呪霊が生み出されてしまうのか。そんなことを考えながら、春香は息を潜めて前を歩く夏油の背中を追った。

「——いる・・ね」

 校内に入ってすぐ、数個の下駄箱が並ぶ玄関を抜けると、黒くくすんだ板張りの廊下が広がっていた。向かって右手には突き当たりに手洗い場があるのみで、何の気配も感じられない。しかし、左手に立ち並ぶかつては教室だったと思われる部屋に顔を向けた瞬間、夏油が淡々とそう告げた。

「残穢については習ってる?」
「あ、はい。わかります」
「そうか。それじゃあ呪霊どこにいるか、探ってもらおうかな」

 夏油の言葉を受けて、春香はじっくりと目を凝らす。呪いを視認することは簡単だが、明確な意図を持ってその痕跡を探るのにはコツが必要だ。隣に立つこの先輩はすでに呪霊がどの部屋に巣食っているか気づいているようで腕を組みつつ鷹揚に構えている。

「……一番奥の部屋。あの一年二組の札がかかったところです」
「なるほどね。行ってみようか」

 夏油はふっと表情を和らげると、組んでいた腕を解き、春香の背に手を添えた。誘うような仕草で春香の背中を押す大きな手のひらの熱に少しだけどぎまぎする。

「あ、あの、夏油さん?」
「静かに」

 人差し指を口元に当ててから、夏油はゆっくりと廊下の突き当たりを指し示した。ちょうど春香が言及したばかりの一年二組の教室があるところだ。あっという間に廊下の突き当たりに辿り着き、夏油はゆっくりと教室を指差して声を潜める。

「ああ、ほら。——早速お出ましだ」

 教室の引き戸を開けたすぐ先に、ヒトとも動物ともつかぬ異形の化け物が鎮座していた。

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