第九話

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夏休みに一回、遊ぶ日を作れないかと聞いた。あの花火の日の話だ。帰りの電車は満員でぎゅうぎゅうに詰められながら帰宅した。彼が壁になってくれたから、私は幾分か楽であった。そんな彼と小声で夏休みの予定をすり合わせていた。オフの日を一日、私にくれることになったから、水族館に行こうと言った。本当はテーマパークにでも行きたかったけれどテーマパークに行った恋人は別れるというジンクスでなんとなく尻込みした。それに彼がそういう場所が嫌いかもしれなかったので、安易に提案できなかったのだ。仙台に新しくできた水族館はそこまでアクセスも悪くないし、同じ日にばったり知り合いに会う可能性もそこまで高くなさそうであった。問題は彼が水族館を退屈だと感じるかどうかであったが、彼は何も言わなかった。「他に行きたいところとかない?」と一応聞いてみたが特にないと一蹴されたので、良いということだろう。代案のない否定は受け付けないという私の性格をよく分かっていたから、他に行きたい場所が特になく水族館に行くという案に反対しなかったのかもしれない。それに彼は私の提案を却下することは基本的にないことを知っていた。もちろん私が無茶な要望をしないからというのも一つあるが、私とのことはすべて私に委ねられている気がした。それになんだかな、と思いはするものの、彼は本当にいやだったら拒否するだろう。その性格を分かっているから拒否されないということは即ち肯定だと私は解釈していた。
 私は結構水族館が好きだった。この新しい水族館ができるまでは県外の水族館に赴くほどだった。夏でも涼しい館内であるから、水族館は夏に特に人気であるように思う。その水族館にはまだ行ったことがなかったから、素直に楽しみだった。イルカショーもあるようだったし、それなりに規模感の大きな水族館らしい。彼はそんな私の説明をものすごく興味を持っているわけでもなく、無関心でもなく、ただ聞いていた。

 彼は当日遅刻しなかった。それどころか私よりも先についていた。一人立つ彼の姿を見ていると、やはりスタイルが良いな、とか、格好の良い人だな、と思った。彼の私服はいつまでたってもあまり見慣れない。彼も私を見てそう思っているのかもしれない。小学校の頃はスカートが嫌で毎日ズボンをはいていたのに、中学にあがると制服だから否応なしにスカートを毎日履かされる。そしてそれにそこまでの忌避感がなかったとき、私は初めて自分がスカートが嫌いでないことを知った。それからは私服でも時々スカートを買っていた。今日はお気に入りのワンピースを下ろしてきた。待った?と聞いたけれど、さっき来たとこ、とお手本のような返事をされた。ついでにお手本のように服を褒めてくれたりしないかな、と思ったけれど彼は何も言わずに私を先導して歩き始めた。
 彼は魚自体にはそこまで興味はなさそうだと勝手に思っていたけれど、実際水槽を眺めるときは興味を示していた。私は単純に綺麗なものが好きだから海が好きだけれど、彼はもっと、生命体として魚たちに関心がひかれるようであった。この水族館には大きなプロジェクターのようなものがあって、自分たちが描いた魚たちがその映像の中を泳ぐという近未来的な場所があった。彼に絵を描くイメージはなかったけれど、そつなくこなすことを知っていたから画伯は期待できなかった。二人揃って無難に_とはいっても自然界にはとても存在しそうにない配色ではあったが_魚を描くと、二匹は楽しそうに水槽を泳いだ。離れたり、近づいたりして、その近づいた瞬間を写真に収めるのに苦労した。午後にはイルカショーを見たりしてだらだらと過ごした。水族館は意外と見終わってしまえばすることがない。本当に魚が好きな人なら何周もするのかもしれないが私はそこまでではないし、加えてシーズンということもあり混雑した水族館をもう一周しようと思えるほどの体力は持ち合わせていなかった。
 最後に友達にお土産を買おうと、ショップに寄った。お菓子で良いか、と個包装になったお菓子の箱を二つ手に取る。これは水族館ではよくあると思うのだが、いろんな動物が可愛くデフォルメされたぬいぐるみがずらりと並んでいた。毎回、あっても困るだけだと思いつつ、つい見てしまっていた。特にイルカは抱き枕に丁度良いだろうな、と触り心地を確認してしまう。あんまり見すぎていたのか、買うのか、と聞かれたから、買わないと答えた。買っても何かに使えるわけじゃないから、と訳も話した。店内をゆっくり見ていると、たくさんのキーホルダーが目に入った。私が中学生だったらこの中で良さそうなのを見繕って、お揃いにしようと言っていたかもしれない。今はそうするよりも実際に会うことが大切だと思っていたから、その提案はしなかった。一通り店内を見終わり、会計をしようとレジへ向かった。そのとき彼が買い忘れたものがあるから先に会計してくれ、と言って店内に戻っていった。私はそれに了承すると出口付近で待っていると告げた。彼は友達にお土産を買っていくタイプには見えないし、そもそも水族館に行ったことすら誰にも言わなさそうだ。今日誰か知り合いに会ったわけでもないから、知らないうちに噂で広まることもなさそうなのに。家族に何か買って来いと言われたのを思い出したかな、なんて適当な予想を立てておいた。彼は大きな袋を持っていた。

「追加で何買ったの?」

「、まあ」

歯切れの悪い返事であったので、それ以上追及することはやめておいた。そんなに大きな袋ということは大きなぬいぐるみを買ったのではないかと思ったのだ。そういえば私が熱心にぬいぐるみを見ていた時に彼もじっくり眺めていたから、やはり買っておこうとなったのかもしれない。彼の部屋にこの大きなぬいぐるみが置いてあったら面白くて、可愛いなと思った。
 帰りの駅からはいつものように歩いて帰宅した。私の家の前に近づき、別れを告げようとしたとき、彼がその大きな袋を差し出した。

「これ、もらって」

「え?」

差し出された袋をそっと受け取って、ずっと不思議に思っていた中身を見ると、私が熱心に見ていたイルカのぬいぐるみであった。彼はぬいぐるみ自体を注視していたのではなく、ぬいぐるみの前で考え込む私を見ていたのか、と気付いた。彼に駆け寄って思い切り抱擁したいような衝動にかられた。もちろん、そうはしなかった。

「ありがとう!本当に嬉しい。毎日この子と寝るね」

「…おう」

ずっと自分ではなんだかんだ手が出なかったぬいぐるみが我が家に来たことはとても嬉しいことだった。だがそのためらう理由の一つに値段のこともあったから、一瞬受け取れないと思ってしまった。しかし、私がいらないと言ったところで彼が本当に欲しいわけでもあるまいし、私が素直に受け取らなかったら困るだろうと彼の好意に甘えることにした。
 大きなぬいぐるみを持って帰ってきた私に母は、またずいぶんなものを買ってきたなと言いたげだった。私が昔から時々大きなぬいぐるみを見ていたことを知っていたというのと、私があまりに満足そうだからか、特に咎められることはなかったが。親にお土産を渡して部屋の戻ると、改めて彼にお礼を言った。ぬいぐるみをベットの上において写真を撮り、添付しておく。送ってすぐ、彼から返信が来た。「どういたしまして」と一言だけ。

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