10(完)





二宮が鳩原の一件で玉狛を訪れたとき、名字のことを尋ねられた。
「名字は雨取のことを知っているか」
「千佳のことは知っています。麟児さんのことは、知らないはずです」
「そうか」
「…名字さんも関わりがあったんですか」
「いや。鳩原とはない。だが、その以前にトリガーを盗まれた事件に巻き込まれている。鳩原の件との関連していると、上層部は考えているらしい」
「名字さんが……」
「名字にはこのことは言うな。あいつにしてみれば、思い出したくもないだろう」
「はい、分かりました」
二宮は自分の要件が済んですぐ、玉狛をあとにした。名字に何があったのか、具体的に聞くことは憚られた。彼女は近界に行った誰かを探す様子もなく、何かを恨んでいる様子もない。家族は大規模侵攻で亡くしていると本人から聞いた。腕と脚を失ったことを語った時もそうだが、それほど悲しみに溢れたようには見えなかった。もちろん、家族が大切でなかったわけではないだろう。それを乗り越えなければ、生きてこられなかったのだ。彼女が自分たちにも、二宮にも、密航者について尋ねてこなかったのは、彼女なりの理由があるのかもしれない。そう思うとやはり、詳しい事情は聞けないだろう。ただでさえ、彼女は技術面から自分たちのために尽力してくれている。
名字はそれからも、玉狛第二に積極的に話すわけでもなく、避けるわけでもなく、ほどよい距離感を保ち続けていた。その態度が、いっそう得体のしれない不安を醸し出しているようだった。





***





ランク戦の最中、ガロプラという国がボーダー本部の遠征艇を狙った作戦をとったと先ほど聞いた。開発部には不安を与えないためか、すぐに周知されることはなかったが、二度目の大規模侵攻を経てか、本部内の警戒度合いや避難方法なども、より改善されているようだった。
開発室にやってきたのは三輪くんと米屋くんで、ガロプラが使ってきたトリガーの解析を任せると言う。私は直接二人に会ってはいないのだが、そのトリオンの特徴故か、私にまで仕事が回ってきた。それを見たときから、超電導のように、全ての物体と反発して微細な空隙を作り、摩擦がなくなっていると思っていたが、その考察に大きな差異はないように感じられた。全く考えもしなかったが、靴の方に仕掛けをすることで、スケートのようなことができるかもしれないと思った。今回のトリガーは止まることができないのでそのまま応用はできないが、ようは摩擦を丁度良いところまで減らしていけば、実現可能である。そして、止まるためのエッジを付ければ。しかし、あまりに業務外だ。研究開発案として提出したって、絶対に却下されるだろう。汎用性がない。でも、私は。

仕事は仕事できちんと行い、業務時間外に研究を続けてしばらく。ランク戦が終わるころ、私の試作品一号は完成した。私のトリオンは本当に少なく、自分のトリオン体と、少しのトリガーしかセットできない。しかし、この靴なら消費トリオンは少なくて済む。気休めになるべくなだらかな地面を持つであろう、ショッピングモールがある市街地を仮想空間に設定した。
地面を見る。あの頃に立っていたリンクとはまるで違う。ただの商業施設の床。ふう、と息を吐いてから、足を踏み出す。両足で歩くことには慣れているが、滑るのはずいぶん久しぶりだ。
滑る感覚は、あの頃のまま。設定した摩擦力は上手くいったらしい。そのまま曲がる。左足に体重をかけても転ばない。痛まない。
滑り始めてしばらく。大規模侵攻によって出場が叶わなかった最後の大会。遠い記憶にある、それに向けて練習していた曲をかける。もう振り付けなんて忘れていると思っていたのに、身体がきちんと覚えている。ここで決める、回る、跳ぶ。ぐんぐんスピードをあげる。誰もいないショッピングモールは、障害物はあるものの、リンクよりよっぽど広い。
すべる、すべる、すべる。
大会用に編集された音楽が止まった瞬間、最後のポーズは、手を伸ばして、顔を上げて。
そこにはショッピングモールの吹き抜けが映る。天井が遠い。
トリオン体は疲れないはずだが、不思議と汗をかいたような感覚だ。自分の腕が映る。左手だ。もう、私は持っていない。

仮想空間から出ると、すぐそばに設置された簡易ベッドに腰掛ける。私が予約した部屋だから、誰も入ってこないはずだ。
義手と義足がはめられた、左半身が痛む。遺された右腕と右脚で、それらを抱きしめた。私の身体じゃない。鼻がつんと痛んで、涙が溢れてきた。
良かった。
本当にそう思う。
突然、入り口の扉が開かれた。はっとして目線をやると、迅さんが立っていた。
それに驚きつつも、何も言えることがなくて、目線を下に落とす。迅さんは驚いていないようだった。
「…ごめんね」
何がですか。勝手に入ってきたことですか。私が泣くのを見たからですか。勝手に話しかけてきて、「ボーダーも悪くないかもな」って私に思わせたことですか。大規模侵攻で私を五体満足で助けられなかったことですか。私の家族を助けられなかったことですか。それとも、全部ですか。
私の思いは何一つ言葉になることなく、嗚咽に変換された。言いたいことはたくさんあるのに、聞きたいことだってたくさんあるのに、全然だめだった。代わりに自分に遺された身体を、もっと、より強く、抱きしめる。言葉にならないものごと、全て。右の膝の上に涙が落ちて、冷たい。その感触を感じて、私はまた涙を流す。生きている。
「ごめん」
迅さんが、そんな私ごと抱きしめた。温かさを感じて、ああ、生身なんだ、と思う。そういえば、この人とは食事の時に会うからか、いつも生身のような気がしていた。本当のところは分からないけれど、多分合っていると思う。すれ違うだけ、見かけるだけのときはトリオン体だと思っていた。何でそう思ったかは分からない。ただの勘だ。何の根拠もない。科学者にあるまじきものだが、その勘が、重要な結果をもたらすこともある。
過去の真偽は確かめようがない。ただ、今だけは少なくとも、間違いなくトリオン体ではなかった。その腕に控えめに力が込められるのを感じて、この人も生きている、と思った。私はなんだか、もっと泣けてきてしまって、ただただ涙を流した。
良かった。本当に良かった。
「……よか、った」
ああ、生きていて、本当に良かった。


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