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 次の日の放課後、彼に言われた通りに屋上へ向かっていた。朝からずっと雨が降らないかな、と願っていたが、悲しいかな驚くほどの晴天だ。足取りが重いままゆっくり階段を登り切ると屋上のドアに手をかけた。ガチャ、と音を立てて開ける。昨日と変わらぬ景色だ。
「おせーよ」
昨日と同じように、上から声が降ってくる。
「これでもHR終わって直ぐ来たんだけど?」
本当は足が重くて、ゆっくり来たから時間がかかったんだとよく分かっていた。私は彼のいるところまで、また梯子を登った。相変わらず綺麗な景色だ。彼は一人でそこにいた。今日は寝そべっていなかった。幼なじみ、いないじゃん、と言おうとして、やめた。いないならいないで、私は構わないからだ。やけに緊張したのは、彼女と会うかもしれないという思いからだったから。私は彼の隣に腰を下ろした。彼は私に近付くと腰を抱いて自分の方へ引き寄せた。驚いて思わず声が出そうになったのをすんでのところで堪えた。やられっぱなしは性に合わないので、彼の手に自分の手を重ねた。それでも彼は動揺した素振りがないので、彼の方へ向き直ると、もう一方の腕で彼に抱きついた。彼の肩幅というか、腰幅が広くて思ったより腕がきつい。体勢がきつくて落ち着かないでいると、彼はちょっと笑って、「手いったんどけろ」と言った。きつかったので言われるがままに腕を外すと、彼は「こっち来い」と胡座をかいた自分の足の間に移動させた。私は何が起こったのか分からなくて、ただただ驚いていた。だが素直にその命令に従ってしまった。彼の間に座っていると、未だかつてないほどに近くて、嫌でも鼓動が早くなってしまう。この音が聞こえないかだけが不安だった。私は恥ずかしさで黙っていた。してやられた感がすごくて、仕方なしに彼の胸板に自分の頭を預けた。降参の意だった。彼は私の体を両腕で抱いた。側から見れば、彼が私を包み込むような姿勢になっているだろう。気恥ずかしかったが、ここには誰もいないことが幸いして、「やめろ」とは言わなかった。だが突然、足音と、それに続いてガチャッという、屋上のドアが開かれた音がした。私はびくっとして今の姿勢から逃れようとした。しかし、彼に押さえつけられてそれは叶わなかった。くるっと顔を向き直り睨みつけたが、何食わぬ顔をしていた。声をあげれば見つかってしまうから、声を出すわけにもいかなかった。だが、その屋上に上がって来た"誰か"はこちらに上がって来ているようだった。私は何だから恐ろしくて逃げたかったが彼はそれを許さなかった。私は縋るように、彼の方を向いて胸板を軽く叩いたが、彼は私を落ち着かせるように腕に力を込め、片手で私の頬を触るだけだった。私はその手に自分の手を重ねた。私の冷えた手とは違い、彼の手は温かかった。
「もう!青峰く……」
その声は、私もよく知った声だった。彼女はいなかったから、もう来ないと思ったのに。ちら、と視線をやるとやはり見慣れた桃色だった。
「んだよ、さつき」
「えっ、いや…今日は練習来てもらわないと、って呼びに来たんだけど……」
「……」
私は居た堪れなくて視線を向けなかった。ずっと横を向いていた。
「…名字さん?」
私はそのまま彼の手を握って、私の顔から外させた。
「…うん。そうだけど」
「青峰くんと付き合ってた…?」
彼女のその問いは、前から私たちの関係を知っている人間の言いぶりだった。
「、知ってたの」
「えっと、うん…。あ、誤解しないでね、私が勝手に知っちゃってただけで、青峰くんから聞いたとか、青峰くんが気になってとかじゃないから!」
彼女は慌てた仕草で弁解した。
「…そう」
私はそう返すので精一杯だった。知っていたならどうして彼に近付くんだと言ってやりたかったが、言わなかった。それを堪えただけでも褒めて欲しいくらいだった。
「じゃあ良かったね、青峰くん。愛想尽かされてなくて」
「あ?テメエ余計なこと言ってんじゃねーよ」
彼はそれから「見て分かるだろ、忙しい」と言って彼女を追い払おうとした。「でも今日は練習試合だから…」と彼女は食い下がる。私は彼がバスケをやろうとやらまいと、練習に行こうと行かまいと、どちらでもよかった。でも、彼女に着いて行かれるのはイヤだった。だからつい、試すような真似をしてしまう。
「…行ってくれば」
「あ?行かねーよ。オマエがいるだろうが」
その言葉が嘘でも嬉しくて、私はそれ以上彼に何も言わなかった。「名字さん。青峰くんにもっと部活行くように言ってあげて!」と彼女が言うから、無性に腹が立って「行かないって言ってるなら、別に」とすげなく断った。彼女はちょっと面食らったようで、再び彼に「青峰くん!」と言ったが「うるせェ」と一蹴されてしまった。彼女は怒ったように、心残りがあるような、少し悔いが残るような顔つきで去っていった。
「…知ってたの、あの子が来るって」
「まー何となくな」
今日が練習試合であることは少し前から口うるさく言われていたので覚えていたらしい。そんな日にサボっていたら、自分の元へ呼びにやってくるだろうとも。私は彼女に着いて行かなかったことに関しては嬉しかったが、部活を休む理由に自分を使われたことは不服だった。
「私を巻き込まないでよ」
部活をやっていなくて、暇だから私に構うのだと思った。何故部活の練習に行ってないのかは知らないけれど。
「休むなら自分の理由で休んで。私のせいにされたくない」
「…してねーだろ」
「した」
キッと彼を睨んだ。彼の腕の拘束が緩んだ隙に逃げようと思えば、それは直ぐに捕まった。後ろを振り向く体勢が辛くて、「逃げないから」と言って拘束を緩めてもらい、彼と正面から向き合う姿勢をとった。
「…今日は部活出てよ」
「ハア?」
「私を言い訳にした罰で。ちゃんと行って」
「お前、さっきまで別に良いとか言ってなかったか?」
「勝手に休むのは良いよ、自分が良いならね。でも私がいるから休む、は駄目でしょ。私が悪いみたいじゃん。さっきのは…あの子に着いて行って欲しくなかったから、引き下がったの」
「…そーかよ」
彼は私が嫉妬を露わにしたのを見て満足したのか悪くない顔をしていた。だが練習へ行くのは怠そうだった。私は彼にことごとく言いようにされているのが気に入らなくて、彼の唇の横にそっと口付けると「早く部活行きなよ」と言った。流石の彼もこれには驚いたようで、してやったり、と思った。だが直ぐ彼は私の唇に噛み付くようなキスをした。仕返しのつもりだろうか。
「あー行きたくねー」
「行かないなら、もう知らないから」
そこまで言って彼は漸く重たい腰を上げた。私もやっと解放された。下まで一緒に降りて、彼は校門まで私を見送ろうとした。私は彼がそのまま練習をふけるんじゃないかと疑って、逆に彼を体育館の前まで見送った。中には入らず、彼が中に入るのを見届けた。中からは「青峰?!」と驚いた、おそらくバスケ部の人たちの声が聞こえた。私はその声を背後に帰宅した。今日はバイトに行かなくてはならなかった。

 今日のバイト先では、昨日いた先輩はいなかった。良かったと思う。きっと気まずかっただろうから。昨日、私たちは、レジから遠い席にいたし、他のお客さんも結構いたから会話までは聞かれていなかっただろうが、それでも気まずかった。だが先輩は周りの同僚に私に彼氏がいることを伝えたらしく、シフトが被った人にことこどく「彼氏いるんだって?」「彼氏どんな人?」と質問責めにされた。私はそれを笑顔でかわしながら働いた。いつもの倍以上疲れていた。夕飯のピークは忙しくて聞かれる暇がなかったのだが、それを過ぎると皆口数が増えて来た。そろそろ上がる時間だな、と思っていると黒子くんがやってきた。彼に会うのは珍しいことではなかった。同僚たちはまだ私に、というか私の彼氏への関心を失っておらず、聞かれ続けていたから、素直に客が来るのはありがたかった。知り合いということを盾にして私がレジに出ようとする。
「あ、逃げようとしてる」
「知り合いなんですって。ね、黒子」
「はい。でも手が空いてなければ大丈夫ですよ」
彼は私が忙しいとでも思ったのか、大丈夫だと言ったが、私が大丈夫ではなかった。だから、彼に悲しそうな視線を送って、「私が良いと言って」と目で伝えた、つもりだ。
「……もちろん、できれば名字さんだと嬉しいですが」
心の中でグッジョブ黒子!と親指を立てておく。「え〜彼氏もいるのに、人気者だねえ」と囃してくるので、全て無視して「ご注文は?」と尋ねた。後ろの人たちはまだ会話を続けている。
「名前ってああいうのがタイプなの?」
「でもこの前見た彼氏さんは随分ガタイ良さそうだったよ」
「……バニラシェイクで」
「…はい。ごめんね、気にしないで」
私は口角を引き攣らせて何とかそう言った。注文を承って商品が出てくるまで、待っていた。後ろに戻る気にはなれなかった。まだ、彼らが好き勝手噂しているだろうから。
「…青峰くんですか?」
私は一瞬狼狽えてしまった。それから、しまった、と思った。これでは認めたようなものだ。私は諦めて、「…そうだよ」と言った。
「知ってたの?」
「青峰くん、分かりやすいですから」
そうか?と思った。私からすると彼は分かり易いように見えて、心の内は読めなかったりしたから。けれど、彼と仲が良く、共にした時間の長い彼からすれば簡単だったのかもしれない。
「ずっと仲が良いんですね」
「…いや。最近だよ、和解したの」
私はそう言うに留めておいた。すぐにシェイクが出てきて、彼にそれを受け渡す。私はもう直ぐ上がりだと言うことだけを考えて、バックに戻った。最後には「もう勘弁してください」と私は言った。哀れに思った店長あたりが止めてくれたのでこれ幸いと逃げ出した。店から出ようとした。
「名字さん」
「ッ!?」
直ぐ後ろにシェイク飲み終えてトレーを持った黒子がいた。気が付かなかった。彼はそういうところがある。青峰しかいないと思って話しかけたら彼がいた、なんてこともあったなと思い出していた。
「…何?」
「少し話せませんか」
「……良いけど」
何だろう、と思う。何度も言うけれど、別に彼とは親しくない。何回か話したことがある程度だ。ただ、彼を通じて話をよく聞いていたというだけで。つまり、彼のことしか私は心当たりがなかった。でも青峰のことなんて私は何も知らない。本当に、知らないのだ。
 彼は予想通り、「青峰くんはどうしていますか」と尋ねてきた。
「知らない。バスケ部には入ってるらしいけど、練習には普段はあんまり行ってない。多分。…今日は練習試合だから行ってたけど」
「…そうですか」
黒子は何か考えているようだった。
「私、バスケ部の事情とか知らないよ。青峰にしても、そう。本当に何も知らないから」
「すみません、スパイみたいなことがしたかったわけじゃないんです」
「…うん。それは、分かるよ」
彼が純粋に青峰を心配していることは分かる。けれど私じゃその助けになれないことも、よくわかっていた。
「…桃井さんに聞くと良いよ。きっと私より詳しいから」
あわよくば黒子がちゃんと彼女のことを捕まえておいてくれないかな、という下心込みで、そう言っておいた。反応は芳しくなかったが。私は逆に彼の学校について、色々聞いてみた。駅までの道のりはあっという間で、大した話はできなかったが、彼との会話は悪くなかった。彼に別れを告げて電車に乗る。青峰はもう帰っただろうか。何だか無性に彼に会いたくなった。


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