承太郎を押し倒したのだろうか


◇3部といいつつ3部のその後。


夕刻というにはやや遅く、だがいつもよりかは早い帰宅時間。
出張のおかげで一週間ぶりとなる我が家への帰宅に、おれは安心と高揚を抱いていた。

ホテルに慣れていないわけではないが、やはり自宅とは違う。なにより、一週間なまえに会っていないのだ。おれもあいつも用がなけりゃあ連絡をとったりしない性格だったし、あいつだってSPW財団の一員だ。忙しいだろうと思い、一日目の夜に電話をしたきり、数時間前に帰る事をしたためた簡易なメールを一通送ったのみ。

返信がない事が些か気になってはいたが、家の前に来れば明かりが見え、やっとなまえに直接触れることができるのだと思えば、ふっと肩の力が抜けるような感覚。

ポケットから鍵を取り出し、差し込み、回す。
扉を開けて中へ入れば、その家独特の匂いが鼻を掠める。

「?」

なまえが気に入っていた芳香剤の匂いと、僅かな料理の匂い。そして、その中に確かに紛れる…アルコールのにおい。
なまえがいるだろうリビングは、玄関からほど近い場所にある。
しかし、それでも此処までアルコール臭が漂っているという事は、かなり強いにおいという事になる。

そして、いつもであればすぐに気が付いてひょっこりと顔を出すなまえが、こちらに来る気配もない。

おれは疑問符を浮かべながらも、靴を脱ぎ、リビングへ向かう。

「…酒臭ぇ…」

帰宅を告げる言葉よりも、まず室内に籠った強いにおいに思わず声が漏れた。
おれは酒には強い方だし、においだけで脳が錯覚を起こしたりはしない。が、なまえは違う。あいつは下戸ではないがそこまで強いわけでもない。缶ビールを一本飲み干せば妙にテンションが高くなるし、以前ウイスキーを誤って原液で飲んだ時は謎の発言を連発していた。

そんななまえが、まさかこんなにおいが籠るほどの飲酒をしたとすれば…。

「あれぇー?りょぉたろーだ〜…」

「…なまえ、ただいま」

床に座り、ソファに凭れかかっているなまえ。
その顔は全体的に赤く、目も焦点が合っていない。そして、完全に呂律が回っていない。誰だ、リョウタロウってやつは。おれの知らねえやつか。

「おかえりーっ!さみしかったんだよ、しょーたろぉ〜っ!」

「おい…っ」

ふらふらのまさに千鳥足で立ち上がり、倒れ込むようにおれへと抱きついてくるなまえ。しかも今度はショウタロウになった。惜しいといえば惜しい。だが別人だ。

倒れ込む姿勢のままおれに寄りかかり、腕をいっぱいに伸ばして抱きつくなまえは、嬉しそうに笑いながらその顔をおれの身体へと埋めている。
軽く頭を撫でてやれば、腕の力は更に強くなった。猫ならばゴロゴロと喉を鳴らしているんじゃあねえかと思う。

こんな風に全力で甘えてくるなまえは珍しく、おれとしてもこのまま甘やかしてゆっくり眠りに落としてやってもいいかとも思ったが…。
しかし、ちらりと目をやった先。なまえが座っていた場所のすぐ前にあるローテーブルの上。
ざっと見ただけでビールとカクテルの缶、ワンカップの日本酒、焼酎の小さなパック…。どれも安酒ではあるが、確かにアルコールを含む飲料。
しかも、醸造酒と蒸留酒が入り混じっている。
こんなちゃんぽんしたらおれだって酔うだろう。

何故こんな無茶な飲み方をしたのか。

この泥酔状態のなまえから聞き出せるかは若干不安だが、ひとまずおれはなまえをソファへと誘導し、共に腰を降ろす。

「なまえ、今日はなんでこんなに酒を飲んでいる?」

「ええ?んーとねぇ…みょうたろーが帰ってくるって連絡あってー、どうしようってなってー、ちょっと飲んらら気分上がるかなって!」

「…は?」

また一歩遠くなったおれの名前がどうでもいいと思えるほど、なまえが口にした言葉は衝撃的なものだった。

口から洩れた声は、自分でも分かるほど明確に常よりも随分と低いものだったが、なまえはそれに気づいていないらしい。
おれを目にした時から変わらぬ笑顔のまま。

おれは、その笑顔が逆に怖くなった。

なまえはソファに乗り上げこちらに寄ったかと思うと、おれの身体を跨ぎ、膝立の状態でおれの顔の横に手を伸ばし…背もたれに両手を着いた。

「じょぉたろー、」

「なん、だ…」

「どっちがうあきだったの?」

ほんの少しではあるが、自然におれはなまえを見上げるかたちになる。
なまえの口元は確かに笑っている。その口調からは、不自然なほど。

うあき…浮気?
何を言っているんだ。後ろめたいことがあるのはお前の方じゃあないのか。

「わたしね、考えたの。すっごく考えたんらよ。それでね、もしわたしの方がうあきの相手で、あの人が本命なら…、」

「待て。頼む、待ってくれ」

「むー」

なまえの口を手で抑え、無理矢理に言葉を止めさせた。
そうでなければ何かとんでもない事を口にされるような気がしたからだ。

…いや、とんでもない事ならもう充分言われたが…。

「お前の言っている浮気ってのは、おれが、ということか」

「んー」

こくり、なまえが一つ頷いた。

「おれが、誰と浮気してるって?」

一度なまえの口から手を離す。

「だからぁ、わたしかあの人―っ」

「あの人ってのは誰だ、お前の知らないやつか」

「知らなぁい。髪が黒くってー長くってー、白衣着てる人」

「白衣…?」

髪が黒くて長い白衣…おれの研究チームに思い当たる女がいる。
しかしあいつはおれと同じく出張で一週間…。

「その女とおれが一緒にいるところを見たのか」

「見たよー。腕組んじゃってさぁ、羨ましかったんだからねっ」

「…なまえ、お前もしかして…出張先に来たのか…?」

「うん。いろいりょ届けに行ったの。びっくりさせようと思ったのにわたしがびっくり!」

「…」

理解した。納得はしてねえが、理解は…できた。

なまえの言うところの『あの人』がやはりチームのメンバーである事も、なまえが見たというおれとそいつが腕を組んでいたという状況も。

そしてなにより、まったくの勘違いをなまえがしているという事も。

しかし…今のなまえに全てを説明したところでそれを理解し、納得してくれるだろうか。

「じょーうたろーう、ねーえ、質問おしまい?」

視線を逸らし黙ったおれの頬をぺちぺちと軽く叩き、なまえは焦れったそうに唇を尖らせている。

小さく溜息が漏れる。
きっと明日の朝、もう一度同じ話をするハメになるだろう。だが、酔っているとはいえ…なまえに何も告げないことで一方的な別れ話をされるのもこたえる。

「なまえ、よく聞け」

「なぁに?」

「お前は誤解をしている」

「ごかい?どこの?」

「そっちじゃあねえ、勘違いってことだ」

おれは、度々噛み合わない切り返しをしてくるなまえに苦労しつつも、言葉を選び、子供に教えるよりも丁寧に事の顛末てんまつを話していく。

出張三日目。SPW財団から調査に関する進捗資料や物資が届けられた日。
物資が届けられた現場におれは居合わせていなかったため、おれは財団から誰が派遣されて来たのかは知らなかったし、なまえもまたおれを驚かせるつもりで何の連絡も寄越さなかった。
おれはチームメンバーと共に海へ出ていたわけだが、そこにはその髪が黒くて長い女も同行していた。
そいつは小型船で海に出るのは初めてで、運悪く波も穏やかではなかったせいもあり…船酔いをした。

そして、酔いながらも調査に協力し続けたそいつは、陸に戻ってからもすぐには回復できず、ぶっ倒れそうになっていた。

そんなやつを一人で帰すわけにもいかず、チームのリーダーであるおれは一応責任をもって彼女を送っていった。

と、いうわけだ。

「何度途中で吐かれそうになったことか…」

「大変だねぇ…女の子にはきびしい世界なんだ…」

「おい、そういう話じゃあねぇだろ。ちゃんと理解できたのか?」

「うん!じょうたろくんは優しいって分かった!」

違う、そうじゃあない。

少し前の貼りつけた笑顔よりは随分いい顔だが、しかしそういう事じゃあない。

まさかもう一度説明せにゃあならんのか、おれは。

「浮気云々が誤解だってのは分かったのか」

「…うわきじゃあないの?」

「違う」

「いたーいっ!」

やっぱりこいつ、全然分かってねえ…。

話の途中で疲れたのだろう。膝立の状態からおれの膝の上へと対面で座ったなまえの顔は、先ほどよりも近い場所にある。
相変わらず、おれの顔の横に手を着いたままだが。
それでも首を傾げるなまえの額にデコピンをかますにゃいい距離だ。

もう一度説明したっていい。何度でも言ってやる。
けどな、勘違いされたおれだって結構傷ついたんだぜ。
デコピンくらい許してもらわねえと困る。

「そっか−…うわきじゃあないのか…そっかー、そっかそっか…えへへっ、じゃあ…わたしが…ほんめー…」

「…なまえ?」

譫言うわごとのように呟き、また倒れるようにおれの身体へと体重を預けてきた。
その後は、もう言葉にすらなっていない何かを二言三言口にして、そのまま穏やかな眠りへと落ちていった。

「…はぁー…、やれやれだぜ…」

肺の中の酸素を全部出す勢いで溜息を吐き、凭れかかる身体が別方向に倒れないよう支えてやる。

酒のせいで常よりも高い体温はこちらまで眠くさせる。

テーブルに並べられているラップ済みの料理は、明日起きてから温め直して食う事にしよう。
風呂は…まぁ、出張先を出る前に入ったしな…それも明日…。
あとは…荷物の整理もあるが…それこそ明日でいいだろう…。

既にかすみがかった思考でなんとか近くにあるブランケットを引っ張り寄せ、なまえを抱いたままソファに横たわる。
なまえの上からすっぽりとブランケットを被せてやれば、温かさと、そしてアルコールのにおいによって、意識は眠りの中へと沈んでいった。



end


オマケという名の蛇足。


翌日。

「う…ん、うぅ…あっあたま、痛い…」

「…ん、起きたか」

「あ、承太郎…おは、って、ええええっ!?〜っぃったたたた…!」

「自分の声で頭痛酷くするこたぁねえだろ」

「…いや、なんでわたしじょ、承太郎の上で寝てるの…っていうか、あれ?いつ帰って来たんだっけ…」

「一応聞くが、昨日の事…覚えてるか?」

「………覚えてない、です。わたし何か言ったりやったりしちゃった…?」

「くくっ、昨日は凄かったぜ、お前」

「なにがっ!?ねぇ、なにがっ!?ッぃ〜っ…!」

「(これくらいは許してもらうぜ)」




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