花京院と日曜夕方のピアノ
◇平和な高校生。
日曜の夕方といえば、明日からの長い一週間を思い憂鬱になる学生や社会人が多いだろう。
僕も勉強は嫌いじゃあないが、特別学校が好きというわけではない。
けれど最近は少し、日曜の夕方が楽しみになっていたりする。
それは、何処かから聞こえてくる、まだぎこちないピアノの音のおかげだ。
聞こえてくる曲は、バッハの『メヌエット』。
僕は音楽に関しては聞く専門だからあまり詳しいことはわからないが、この曲…特に今聞こえてくる長調というやつはよく耳にするポピュラーな曲だし、あまり早いテンポではない初心者向きの曲だと認識している。
まだピアノを始めたばかりなのだろう。
近所の子供だろうか。そんなことを考えながら、ゆっくりと丁寧に紡がれていくメロディを聞き、穏やかな気持ちになる。
そしておおよそ二時間ほどの練習の最後、この奏者は締めくくりとばかりに、軽い調子でまた違う曲を弾くのだ。
『ねこふんじゃった』である。
「ふふっ」
『メヌエット』を弾いている時のぎこちなさなんて感じさせないような、軽やかに弾むような弾き方。
きっと楽しそうに弾いているのだろうと想像させるその曲調に、思わず笑みが零れてしまう。
この最後の一曲を含め。僕は最近聞こえてくる日曜のピアノを、密かに楽しみにしている。
それがまさか、学校で耳にすることになるなんて。
「あれ…この弾き方…」
同じ曲であっても、弾き手によってそのイメージは随分と変わることがある。
僕は、今いる階の端にある音楽室から聞こえる『メヌエット』が、あの日曜に聞こえるものと同じだと…瞬間的にそう思った。
今みたいに、担任に頼まれでもしない限り、放課後にこの特別教室の方へ来ることはない。
だからいつもこうやって練習しているのか、今日だけが特別なのかは分からない。
僕は用事を終えた物理室の扉を閉め、ほんの少し悩んだけれど、できることならどんな人が弾いているのか見てみたい。
そう思った僕の足は、階下へ下りる階段を通り過ぎ、音の聞こえる音楽室へと向かっていた。
音楽室の扉の前まで来て、こっそりと扉の上部にはめ込まれたガラス窓から中を窺って見るも、ピアノに隠れてしまって奏者は見えない。
どうしようかと思った時、流れ始めた『ねこふんじゃった』。
それを聞いて僕は、やはりあの奏者と同一であることを確信した。
思い切って開けた扉の先には、僕の想像どおり、楽しそうに、跳ねるようにピアノを弾く女子生徒。
何処か見覚えがあると感じるのは、同学年だからだろうか。それとも、近所に住んでいるからだろうか。
「…ふー…。…ん?うわっ!?えっ、い、いつからそこに…?!」
「あ、驚かせてすみません。ほんのちょっと前にお邪魔させてもらってました」
いつものように気持ち良く弾き終え、まるで満足したというように一つ長く息を吐き出した彼女は、僕を視界に入れた瞬間、椅子から転げ落ちんばかりに驚いた。
まぁ、それはそうだろう。
少し申し訳ないことをしてしまった。
「気がつかなかった…!っていうか、なんか恥ずかしいな…。わたし、まだ始めたばっかなんですよ、ピアノ」
「ああ、やっぱり」
「え、“やっぱり”?」
「いえ、毎週聞かせてもらっているので。…日曜日の夕方に」
近所なんです。と付け加えれば、恥ずかしそうに頬を赤らめていた彼女は、更に顔全体を赤くし、さっと楽譜で顔を隠してしまった。
「ご、ごめんなさい、毎週お聞き苦しい音を聞かせてしまっているようで…」
「そんなことありません。僕は好きですよ、貴女のピアノ」
「…ありがとう。わたし、もっと頑張ります…!えっと、花京院くん、ですよね…?」
「はい。…ええと、」
「あ、わたしはみょうじです。みょうじ なまえ。隣のクラスです」
頬にはまだ少し赤みが残っているけれど、椅子から立ち上がり、僕の方をしっかりと見てくれた彼女…みょうじさんは、大事そうに楽譜を胸に抱き、柔らかい笑顔を向けてくれた。
みょうじさんの纏う雰囲気はとても柔らかくて、ピアノを聞くだけでなく、こうして話をするのも心地良いと、そう思った。
end
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