ディオと貧民街少女


◇本編開始より前。明るい話ではないので、苦手な方はご注意ください。


俺が住むちっぽけな家のすぐ近くに、2歳年上の女が住んでいる。
掃き溜めのような貧民街に似つかわしくない、どこかおっとりとした女だ。

女の名前は、なまえ。

なまえは、この腐りきった街で、クズのような父親と暮らす俺にとって、ただ唯一の救いだった。

それは決してなまえを見下していたり、自分と比較して優越しているわけじゃあない。

ただ純粋に、俺はなまえのことを信頼していたのだ。

歳も近かったせいだろう。
なまえは、俺がまだ知恵も力もないガキだった頃から、なにかと世話を焼いてきた。

怪我をしているからと手当をし、腹は減っていないかと気遣い、服が破けていれば繕った。
自分だってボロボロのなりをしているくせに、だ。

俺は、なまえを姉のように思っていた。

やがて母が死に、俺はこの腐りきった街に呑まれるように、貧民街で生きる術を身に着けていった。

イカサマ、スリ、暴力。
標的など誰でも構わない。
騙されるヤツが悪いのだ。盗られるヤツが間抜けなのだ。弱いヤツはこの街では生きていけない。

そうやって、俺は生きるようになった。

…それでも。

それでも、俺はなまえにだけは手を出すことをしない。
手を出そうと思ったことすらない。

そればかりか、俺はなまえを騙すヤツを許さなかった。盗むヤツも、暴力をふるうヤツも。

「ディオ、また怪我してる…。喧嘩でもしたの?」

「ふん、大したことはない。気にするな。…それより、これはお前の物じゃあなかったか?」

「これ…!まさか、これを取り返しに…?」

「たまたま絡んできたヤツが持っていただけだ」

「…そう。でも、ありがとう」

なまえが大切そうに両手に包むそれは、なまえの死んだ父親が残した唯一の形見なのだという。
売ればそれなりの値がつくだろう、エメラルドの首飾り。

なまえの白い肌によく映えそうだ、と思った。

もし、こんな貧民街でなかったなら、きっと見られたのだろうその姿。

しかし、俺にはこの街からなまえを連れ出すことなどできない。
俺は自分の無力さが歯がゆくて仕方がなかった。

「ディオ、手当するからそこに座って?」

「別に大した怪我じゃあない」

「ダメだよ。せっかく綺麗な顔なのに、痕でも残ったらどうするの。…ほら、」

「…」

本当に大した怪我ではなかった。けれど、柔らかく微笑むなまえに、俺は逆らえない。
椅子に腰かけると、なまえは満足そうに頷き、慣れた手つきで手当をしていく。

母が死んだ今、こんな風に柔らかく触れる人間は、もうなまえしかいない。
俺がなまえを拒むどころか、守りたいとすら思うのは、この手の温もりを手放せないからなのだろう。
そう思うと、俺もまだガキだな、と…何故かそれに救われるような気持ちになる。

「はい、終わり。もし明日も腫れが引かないようだったら、またおいで」

「…ああ。じゃぁ、俺は帰る」

「…ねぇ、ディオ」

薬を塗り終え、少し心配そうにそう言うと、薬箱を棚の上へと戻すなまえ。
その背中を見やりながら玄関へと向かう俺に、何処か戸惑うような、控えめな声がかけられた。

「なんだ?」

「あんまり、無茶しないでね」

振り返ると、相変わらず心配そうな表情のなまえが、真っ直ぐにこちらを見ている。

今回の怪我のことを、自分のせいだと思っているのだろうか。

俺が勝手にやったことで、お前がそんなカオをする必要はないんだ。そんな言葉が出かかるが、それでは余計にあの首飾りが原因だと明確化してしまう。

「ディオは嫌がるかもしれないけれど、わたしはあなたのことを、弟みたいに思ってるの。だから、怪我をしたら放っておけないし、何か困ったことがあるなら、できる限り力になりたいと思ってる」

ふわり。
柔らかく抱きしめられたことに驚き、しかし俺はとある言葉が何故かひっかかっていた。

『弟みたいに思っている』

そのたった一言。

俺だって姉のように思っている。いや、思っていた、はずだったのに。
何故、こんなにももやもやとした気持ちになるのか。

自分自身の不可解な感情に困惑しながら、俺は「気を付ける」などと、なんの確証もない生返事を返し、帰路へつく。



暫く後、父が死に、俺はこの街を出ることとなった。

「なまえ、必ずお前をこの腐った街から出してやるからな」

「わたしのことなんか気にしないで。幸せになってね、ディオ」

ジョースター邸に向けて発つ直前、なまえだけが俺を笑顔で見送っていた。

俺が見た、最期の笑顔だった。



end




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