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安室が何も言わずにスマホを返してきたということは、人質の安全確保は済んでいるはず。相変わらず仕事の早い男である。もちろん、それに応える部下たちも優秀だ。

名前はパーティー会場を出てエレベーターに乗り込む二人の男を視認すると、止まった階を確認してから別のエレベーターで上階へ向かった。目的の階の一つ下で降りてから階段を上れば、宿泊階の一室に二人が入っていくのが見える。名前は足音を殺して近づき、ドアに耳を当てた。

(さすが新築の高級ホテル。ほとんど聞こえないな)

パーティーバッグからイヤホンを取り出して装着し、盗聴用アプリを起動する。そこから聞こえてくる会話で状況を確認した。

取引の対象はロシア産の合成麻薬。嶋野組構成員である男が抱えていたアタッシュケースには現金が入っており、麻薬はあらかじめ部屋に置いてある。会話の流れからすると、まもなくアタッシュケースをボストンバッグに持ち替えた男が退室してくるはずである。

イヤホンから聞こえる物音で男たちの動きを把握しつつ、名前はすぐ近くの階段に身を隠した。

ガチャ、とドアの開く音がして、まず日本人の男がキョロキョロと顔を出す。二人が時間差で帰るという話になっているのは、音声ですでに把握済みである。

ドアを閉めた男がエレベーターに向かって歩き始めたところで、そっと近付き肩をトントンとつついた。

弾かれたように振り向いた男の頭部を両手で鷲掴み、顔面に左膝を叩き込む。マーメイドドレスなので足が上がりにくく、頭部を力いっぱい下に引く形になってしまったのはご愛敬である。

「―――!」

男は声にならない声を上げて顔を抑える。頭部を掴まれたままでよろめくこともできない男を、今度は後頭部に滑らせた右手で顔面から壁に押し当てた。勢いよく潰された鼻筋からグシャリと嫌な音を立てて男が崩れ落ちたところで、さすがに物音が聞こえたのか部屋のドアが開く。

『おい、どうし……!?』

ドアの隙間から覗く長身の男に向けて、振り向きざまの掌底を繰り出す。 急所である顎に正確無比な攻撃を食らった男は、ぐわんと目を回してその場にくず折れた。

二人が気絶していることを確認した名前は、二人をずるずると室内に引き摺り、高級ホテルらしい長めのカーテンタッセルやタオルを駆使して縛り上げた。ついでに余ったタオルを濡らして廊下の血痕を拭き上げ、廊下に転がっていた麻薬入りのボストンバッグとともに室内に放り込んでおく。

会場付近に待機していた部下に連絡しながら、乗り込んだエレベーターで髪型やドレスの乱れを整える。エレベーターを降りると、小さな子供がこちらに走ってくるところだった。コナンだ。

「あらボク、こんなところでどうしたの?」
「お姉さんこそ」
「このエレベーター、宿泊階直通だったみたいね。知り合いがいた気がして追いかけて来ちゃったけど、見失ったわ」

残念そうに息を吐く名前に、コナンが視線を鋭く尖らせる。

「ふーん。用事はそれだけ?」
「それだけだけど……他に何があるのかしら」
「お姉さんの恋人さん、さっき会場を出てこっちに向かおうとした僕を引き留めたんだ。まるでこっちに来られたら不都合があるみたいにね……」

これはもしかして、悪い方向で疑われているのだろうか?名前は内心居心地の悪さを感じながら、それをおくびにも出さず返す。

「それは単にエントランスと逆方向だからじゃないかしら。そろそろ、みんな帰る頃でしょう?」

保護者と離れて大丈夫なの?と続けるが、見事にスルーされる。

「実はお姉さんの他にもいなくなった人が二人いるんだけど、フロントに聞いてもまだ誰も帰ってないって言うし…。みんなでこっちに来てるって思うのが普通じゃない?ロシア人のお兄さんの彼女は「ここで少し待ってて」って言われてたみたいだしね」

この短時間でそこまで情報を得ていることに舌を巻く。
どうもこの追求は長くなりそうだ。部下よ早く来てくれ、と名前は祈った。




***




目を鋭く細めてこちらを見るコナンは、まだ追求をやめる気はないようだった。仕方なく、名前は部下の到着まで彼の推理に付き合うことにする。

「いなくなったのってそのロシア人の彼と…あとは誰なの?」
「アタッシュケースを持ってた、あの日本人のおじさんだよ」

ふうん、と口元に手を当て、考えるフリをする。

「でも私、そのどちらにも会わなかったわよ。ロシア人の彼も、戻るって言ったならそのうち戻ってくるんじゃない?」
「戻ってきていいの?」
「え?」
「戻ってきたら……お姉さんも、困ることがあるんじゃない?」

探るような目が名前を射抜く。

「困ることって?」
「お姉さん、あのロシア人のお兄さんに盗聴器付けてたでしょう?」
「!」
「お兄さんが屈んだ時、偶然チラッと見えたんだ。お姉さんがたまに右耳に触れていたのも、イヤホンの取り外しをしていたからでしょ?」

仕草自体は自然すぎて、気になって見ていた僕しか気付かなかったと思うけどね、と言われ内心舌打ちする。コナンの目線の高さまで計算に入れていなかったのは迂闊だった。

「考えられる可能性は二つ。一つは、盗聴器を付けることはお兄さんも了承済みで、盗聴器を通してお姉さんに合図を送っていた可能性。もう一つは……お姉さんが、悪い人たちを捕まえる立場の人だっていう可能性だよ」
「合図? なんのかしら」

名前が二つ目の可能性を意図的に無視して問うと、彼は「取引さ」と答える。

「だって、上の部屋で行われていたのって麻薬か何かの取引でしょ?」

どこか確信を持ったようなコナンの様子に、名前は心の中で拍手を贈った。

「そんな、ドラマみたいなことあるかしら?」
「上の部屋に麻薬か何か悪いものが置いてあって、おじさんはお金の入ったアタッシュケースとそれを交換しようとしたんじゃないかな」
「……」
「おじさんはずっとアタッシュケースを手放さなくて、招待状に同伴者の案内もあったのに一人で出席してる。高そうなループタイは全然似合ってなかったから、待ち合わせの目印だったのかもね。ロシア人のお兄さんはたまにロシア語で電話してたけど、ロシア語で「アブミヨン」って「交換」って意味だよね? あと「ザロージニク」は……「人質」、だったかな?」

僕もロシア語にはあまり詳しくないんだけどね。
なめらかに語るコナンは、顎に手をやりながら視線をさらに鋭くする。

「……パートナーがいない理由は、山路さんが代わりに答えてたわよ」
「そう。山路さんはやけに彼を庇っていた。だから最初は山路さんも彼らに協力しているんだと思ったんだ……。でもあの顔色の悪さと「人質」という言葉の意味を考えれば、もしかしたら彼は奴らに脅迫されているんじゃないかって思い直した」

声を低くしたコナンは、自分の年齢設定をすっかり忘れているようだ。名前はツッコみたくなりながらも、「それで?」と続きを促す。

「お姉さんは、」

コナンが再度口を開いた瞬間、バタバタと足音を立てながらスーツ姿の集団が廊下を駆け抜けていく。
ぶつかられそうになったコナンを咄嗟に抱き上げると、「え!?」と困惑した声が上がる。

「―――邪魔になりそうだし、続きは会場に戻って話しましょう」

きっと保護者も心配してるわよ、と歩き出した名前にコナンは「降ろして!」と主張するが、「踏まれるわよ」と言われてぐっと言葉に詰まる。

(残念、コナンくん。 時間切れだよ)


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