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少し躊躇ってから助手席に乗り込んだ降谷は、黒いパーカーにジーンズ、黒いキャップという風体だ。今はバーボンなのだろう。左腕に怪我を負っているらしく、右手で二の腕を押さえている。

車を発進させた名前は、しばらく走ってバックミラーとサイドミラーを確認してから口を開いた。

「何も付いてないし、尾けられてもないよ」

盗聴器も発信器も追跡者もないことを暗に伝える。車に誘った時とは異なる“苗字名前”の声に、降谷の肩の力が抜けた。

「………この車、臭いです」
「第一声それ?」

自覚はあったものの、実際言われると少しダメージがある。仕事だったのだから仕方ないが、名前はこんな状態で降谷を拾ったことを少し後悔した。

「酒と煙草の臭いがする」
「吸ってないし飲んでないんだけどな」

こびりついてしまった臭いには、ファブリーズも芳香剤も歯が立たないようだ。

「にしても、こんな怪しい女に誘われてよく警戒しなかったね」
「あくまで可能性を考えただけです。新色のワンガンブルーのGT-R………乗っている女性を他に知らないので」
「なるほど」

深夜だからさほど気にしてはいなかったが、暗くても車好きにはわかるようだ。名前は納得して頷いた。

「で、どこまで?安室宅?ホテル?」

バーボンとして帰宅するなら、安室透の家だろう。変な女に逆ナンされて車に乗り込んだのだから、二人でラブホやビジホに消えるというのもカモフラージュとしては自然か。名前は相手が先日キスされたばかりの男であることを忘れていた。

「ああ……」

降谷が少し考え込む。尾行がないことを改めて確認した名前は、結局一番合理的なルートを示すことにした。

「安室宅反対方向だし、もうすぐうちだからこのまま行っちゃうか」
「え?」

正気か?という顔で降谷がこちらを見る。自分が前回やらかした自覚はあるようだ。

「怪我の手当て、急いだ方がいいしね」

そう言えば、諦めたように息を吐いた降谷が「お願いします」と返した。




***




「はい腕出して」

降谷をソファに腰掛けさせ、パーカーを脱がせる。Tシャツの袖を肩まで捲り上げて傷の様子を確認した。

「ナイフ?」

鋭利な刃物で切られた傷ほど、血が止まりにくい。ずっと圧迫していたにもかかわらず、まだじわりと血が滲むようだ。

「少し油断して」
「珍しいね。考え事?」

答えにくいのか、返事はない。名前も予想していたのか聞き直しはしなかった。手際よく手当てを済ませ、最後にラップを巻く。

「はい、先シャワー浴びてきて」
「……いや、それは」
「降谷くんのシャワーなんて10分もかからないし。私その間にその服洗濯してメイク落としてるから」

問答無用、と彼を脱衣所に押し込んでから、そういえばと衣装部屋に向かう。

「着替えられそうなものあったから、置いとくね」

既にシャワーを浴び始めていた彼に声をかけ、それを脱衣所に置く。汚れた服を洗濯機に入れて洗濯乾燥モードにかけてから、さすがに鉢合わせは気まずいと考えた名前は、結局クレンジングシートでメイクを落とすことにしてリビングに戻った。

三枚目にしてようやく全てのメイクを落とし終わったところで、脱衣所から降谷が出てくる。

「シャワー、ありがとうございました」

振り向いた名前は、「ぐえ」と喉の奥で変な声を漏らす。白いバスローブを羽織った降谷は、褐色の肌とのコントラストが妙に色っぽい。

彼にそれを渡した数分前の自分を殴りたくなった名前だった。




***




さっさとシャワーを済ませてリビングに戻った名前は、ソファで隣に座る降谷を眺めた。

ユニセックスのバスローブとは言え規格外の長身には対応しきれないようで、手も足も裾が足りていないのがわかる。そこから見える艶やかな褐色の肌に、名前はファンの皆さんごめんなさいと心の中で謝った。

「……なんですか?」
「いや似合うなと」
「こんなのよく持ってましたね」
「衣装部屋にあるの思い出して」

何も考えず答えたところで、降谷の動きが止まる。

「名前さん、これ着たんですか?」
「そりゃ着たよ。仕事でだけど」
「これを着る仕事って……いや、いいです、想像したくない」

降谷の脳内には捜査対象にハニートラップを仕掛ける名前が浮かんでいるのだろう。あながち間違いではないが、いいと言ってかぶりを振った降谷にあえてその話題を振る必要もないだろう。そう判断し、名前は話題を変えた。

「で、何があったの?言える範囲でどうぞ」

ソファに座ったまま降谷に体を向ける。質問の意図が今日のことではなく、最近の様子に対して向けられているということは降谷も察しているのだろう。彼は少し逡巡してから腿の上で両手を組んだ。

「……組織が追っている裏切り者を、処分したと見せかけて公安で保護しようと思っています」
「!」

観念したように降谷が話した内容に、名前は驚きを隠せなかった。

犯罪組織に潜入する場合、必要以上のリスクを取るべきでないと名前は考えている。最終的に至るべき目標以外のことを望めば、万一それが失敗した時に、潜入捜査そのものが立ち行かなくなる恐れがあるためだ。

(潜入中の失敗は死に直結することもある)

そしてそんなことは降谷も重々承知しているはず。それでもそれを実行に移そうとしているのは、成功に伴って得られるリターンがよほど大きいか、あるいはその対象を死なせたくない個人的な理由があるか。

名前は、降谷がどこか不安定だった理由が腑に落ちた気がした。

「手は足りてるの?」
「え?」
「パーティーの時の借りをまだ返してないし……。何か手伝えることがあれば、頼ってくれてもいいよ」

それまで深刻そうな表情を浮かべていた降谷だが、名前のその申し出に顔を上げて苦笑した。

「ありがとうございます。でもそれならもう、返してもらってるので」

返したっけ?

心当たりのない名前が首を捻るが、ふと思い至る。なるほど、彼はあのキスでチャラだと言っているのだ。それでキスをしたこと自体、なかったことにしたいのだろう。

複雑な思いの名前だったが、彼がそう言うということは、この件に首を突っ込ませるつもりはないということだ。となると名前にできることはもうないし、これ以上は何も聞けない。もちろん、その裏切り者のコードネームさえも。


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