2-3
乾燥が終わった服に着替えた降谷を玄関まで見送り、リビングのソファに戻ってしばし思考に耽る。
(裏切り者っていうのは、十中八九シェリー……哀ちゃんのことだ)
組織から逃げ続けている裏切り者が複数いるなら話は別だが、話を聞く限りそんなに甘い組織でもないだろう。
名前は灰原哀の正体を知っていた。もちろん合法的に手に入れた情報ではないので、彼女が知っているということを知る者はいない。
しかし哀は今小学一年生の姿で、いくら降谷が優秀でもシェリーと灰原哀はまだ繋がっていないはずだ。それなのに、彼は近々行動に出るような口振りだった。これはどういうことだろう。
(解毒薬で元に戻った哀ちゃんを見た?そしてその上で、その正体が哀ちゃんだと気付いてない…?いや、でも解毒薬なんてそうそう乱用しないだろうし、そんな機会あったかどうか。うーん、最近あの子達にも会ってないしわからないな)
職務上洞察力や判断力こそ鍛えられているものの、探偵のような推理はできないことを名前は自覚している。とりあえず、協力要請すら受けていない案件に首を突っ込むつもりはないが、彼が死にそうなら助けよう―――そう決めて思考を放棄した。
***
降谷を拾った翌日。名前は偽苗字名前の姿で近所のスーパーに買い物に来ていた。
ここしばらく公安の仕事ばかりでこちらの家の食料ストックが悲惨なことになっていたので、食べられないものを処分し、改めて買いに出ているところだ。部下がやると申し出てくれたのだが、設定的に偽苗字名前の自宅付近で男を目撃されるのはまずいと判断した名前が断っていた。
日持ちする食べ物を選んでカゴに放っていると、背後から声を掛けられる
「名前さん?」
振り向くと、そこには細目ながらも男前な大学院生が買い物カゴ片手に佇んでいた。
「沖矢さん!お久しぶりです」
「ええ、お久しぶりです。この辺りにお住まいなんですか?」
「はい、この近くのマンションに。……沖矢さんは、わざわざここまで買い物に?」
大学に近いという理由で選んだ偽苗字名前の自宅は、米花町まで電車で一本のところにある。
米花町にももちろんスーパーはあるので、工藤邸に居候している沖矢がここにいる理由がわからなかった。
「このスーパーのプライベートブランドが種類も豊富で安いので、たまに来るんですよ」
「そうなんですか。意外と家庭的なんですねえ」
「名前さんこそ、結構買い込んでますね」
みっちり詰まった買い物カゴを沖矢の視線が捉える。
「私はむしろ無頓着な方で……。色々賞味期限切らしちゃったので、補充してるとこです」
「ふむ、なるほど」
納得したように頷いた沖矢が、「今日の昼食はもうお決まりですか?」と尋ねる。
「いえ、まだ。多分この辺のを食べると思いますけど……」
苦笑しながら見るのは、自分の買い物カゴだ。詰まっているが軽いそれは、カップ麺やシリアル、レトルト食品などがほとんどだった。
「では、よければ一緒に食べませんか? シチューを作りすぎてしまって」
「えっいいんですか?」
「もちろん。荷物を置かなければいけませんので、このまま一度ご自宅まで送りますよ」
わあ、ありがとうございます!とにこやかに喜びながら、名前の心の中は嵐が吹き荒れていた。
(え?この人と昼食を?二人で?大丈夫かな私)
―――だってこの人、赤井秀一でしょう?
名前は沖矢昴が赤井秀一であることを、半ば確信を持って疑っていた。
***
自宅に荷物を置き、コンパクトなフォルムが可愛らしいスバル・360に乗り込んだ名前は、運転席の沖矢と他愛ない会話を楽しんでいた。
名前が沖矢昴と赤井秀一が同一人物だろうと考えたのは、沖矢と出会って比較的すぐのことだ。
(だって赤井秀一が死んですぐ現れ、今では工藤邸に居候しているなんて……普通に怪しい)
普通なら怪しいと思いはしても、それだけで終わる話なのかもしれない。しかし名前はコナンが工藤新一であることを知っている。赤井が死んですぐ、コナンが自宅への居候を容認する人物など、赤井本人以外には考えられなかった。コナンの正体を知っているからこその推測である。
そしてその推測を後押ししたのが、名前が阿笠邸に取り付けていた盗聴器の不調だ。
名前はコナンと仲良くなってすぐ、彼の情報を集めるべく阿笠邸のリビングに盗聴器を設置していた。ある日突然現れた灰原哀の正体も、それで知ったのである(なんなら哀の名付けの瞬間も聞いていた)。
しかし赤井が死んだ頃になると、その盗聴器にノイズが混ざるようになった。常に盗聴しているわけではないので原因は不明だったが、違和感を覚えた名前はすぐに用事を作って阿笠邸を訪れ、その盗聴器を回収したのである。そして阿笠邸を訪れる人間から蘭や子供たちを除外すれば、特に怪しいのが沖矢昴―――名前が赤井秀一だろうと目していた人間で、彼が新たな盗聴器を設置したのではないかと思い至ったのだ。もっとも、設置の理由までは推し量れないが。
ただ一点気になるのが、警察が赤井の死亡を確定しているということだ。日本の警察組織の優秀さは名前も身をもってよく知っている。しかしそれも、あの“工藤新一”がその偽装に関わっているのであれば、あり得ないことでもないのかもしれない。
(組織を追うコナンくんなら、赤井を助ける動機も十分にある)
赤井限定で沸点が低くなる降谷とは違い、名前自身に彼への恨みはない。しかし日本の公安警察として、日本で好き勝手するFBIを好ましく思っていないのは事実である。そんなFBIのエース(であろう人物)と、まさか二人きりで昼食を取る羽目になるとは。イケメンに弱い偽苗字名前だからこその快諾だったが、その設定そのものを後悔したのはこれが初めてだった。
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