2-9
―――苗字さんが撃たれました。
降谷がその一報を受けたのは、朝日も昇っていない明け方のことだ。捜査官をかばって狙撃されたのだという。普段から体に傷が残ることを良しとしない彼女だが、その負傷理由を聞いて降谷は思わず納得した。彼女は情に厚く、仲間思いだ。
銃弾は肺を貫通していて、現在は緊急搬送された病院で手術中らしい。手術そのものは難しくないものの、問題はその出血量だった。
ライフルで狙撃された彼女は、追撃による二次被害を防ぐため、スナイパーの確保まで放置されざるを得なかった。出血量は深刻で、手術は難航を極めているという。
報告を受けて、降谷は指先が冷たくなるのを感じていた。
『搬送先は杯戸中央病院です!』
近い、と降谷は思った。
すぐにでも彼女の元へ駆けつけたい。手術が終わった彼女を誰よりも先に出迎え、その目覚めを待ちたい。彼女が目を開けた時、視界に最初に映るのは自分でありたい―――
スマホを握り締める手が、ギリッと音を立てる。
「……わかった。また状況を教えてくれるか」
電話越しの風見がわかりやすく動揺しているおかげで、降谷はギリギリ平静を保てていた。
通話を切って、項垂れる。
やむを得ず最寄りの一般病院に搬送された苗字は、その怪我の性質上、公安の圧力によって存在を秘匿されているはずだ。そして表向き一般人である安室透がそれを知る術はない。降谷としてなら駆けつけられるかもしれないが、立場上、公の場所に堂々と姿を晒すこともできない。
(彼女まで、連れて行かないでくれ)
手術の成功を祈るしかない無力感に、降谷は気が狂いそうなほどの焦燥を覚えていた。
***
結局朝日が昇っても続報はなく、降谷は安室としてポアロに出勤していた。心中は穏やかでないが、彼の表情にそれが滲むことはない。こんな時でもミス一つしない自分を、安室はどこか客観的に眺めていた。
「梓さん。今のうちに外を掃いてきますね」
「あ、お願いします!」
モーニングの時間帯が終わり、店内には常連客が一人。ランチタイムにはまた客足が戻ってくるだろうと、安室は箒とちり取りを手に取った。外に出れば少し冷たい風が頬を撫でる。
見上げた空は青く、空気は穏やかで、憎らしいほどに日常だ。今この瞬間も生死の境で戦っている一人の女のことなど、この世界は意にも介さないのだろう。彼は少し前に、殺しても死なないと思っていたタフな男の死を知ったばかりだ。人間なんて簡単に死んでしまう―――安室は暗くなりそうな思考をかぶりを振って打ち払い、箒を握り直した。
店前の落ち葉や砂利を素早くちり取りに収め、顔を上げようとしたところで視界の端に見覚えのある靴が映る。安室は顔を上げるのをやめ、一度掃いた場所を再び掃き始めた。
「……手術、無事成功しました」
すれ違いざまに小さく落とされた言葉に、思わず力の抜けた手から箒を取り落としそうになる。しっかり掴み直してから震える息を吐き、数秒だけ瞼を閉じる。上げた顔には、再び安室透の仮面が貼り付いていた。
***
最初は、変な奴が来たと思った。
「どうも外事から来ました、苗字名前です。仲良くしてください」
(転校生か?)
仲良くしてほしいなんて欠片も思っていなさそうな気だるげな表情で、女は言った。
「特技は語学と変装です。よろしくお願いします」
わー、パチパチ。
ただでさえ多忙な部署で、たまたま登庁していた数人の同僚が彼女を拍手で迎え入れた。ノリよすぎか。
やる気のなさそうな女だと思った降谷だが、ゼロに配属された以上、公安でトップクラスの実力者であるということは明白だ。しかも公安の秘密機関や諜報機関と評される外事課からの異動とあれば、彼女も諜報のスペシャリストなのだということは想像に難くない。
「よろしくお願いします、苗字さん」
「ああ、えーと、降谷センパイ?」
彼女のデスクは降谷の隣だった。歳が近いということで教育係のような扱いなのだろう。すでに安室透のカバーを作って潜入任務に当たっている自分に押し付けすぎじゃないか、と降谷は内心げんなりしていた。
「警察官としてはあなたが一年先輩ですし、年下なので降谷でいいです」
「そう?じゃ、降谷くんで。よろしくね」
「……ええ」
変な奴で、やる気がなさそうで、馴れ馴れしい女。それが苗字名前に対する降谷の第一印象だった。
***
降谷が想像していた通り、彼女は有能だった。
短期潜入を優先して回されるようになった彼女は、任務の合間に優秀な協力者を何人も獲得してきた。人の懐に入り込むのが上手いのだろう、獲得した協力者たちの管理も卒なくこなしているようだった。彼女が協力者獲得のために変装して街を練り歩くのは、その頃にはすっかり容認されるようになっていた。
そしてその頃には、降谷と名前の関係も少しずつ変化してきていた。同じ任務に当たることこそほとんどないものの、協力を要請すればいつも期待以上の働きをしてくれたし、何よりさっぱりとした性格は一緒にいて楽だ。
それは彼女も同じだったのだろう、降谷は彼女から無意識の信頼を感じ取ることが多くなった。そしてそれに気付くたびに、降谷の中で何かが育っていくのを感じていた。
***
ある日、降谷は憔悴していた。
バーボンとして裏切り者の始末に駆り出されたその日、降谷はその男を自決に追い込んだ。ベルモットや他の幹部からの監視もあり、それが最も無難で合理的な方法であると判断した結果だったが、男の最後が脳裏に焼き付いて離れなかった。ここ数日まともに寝ていなかったから、おそらく疲れもあるのだろう。脳裏に浮かぶ男の顔に、数か月前自決した幼馴染の顔が重なる。
(……だめだな、今日は。早く切り替えなくては)
何も考えずに走らせていた愛車を路肩に停め、事故を起こす前に一度仮眠を取ろうと座席を倒す。瞼を閉じる前に窓の外に視線をやって、ようやく現在地に気が付いた。
(ここは……)
見上げた先の建物は、一度だけ彼女を送り届けたことのあるマンションだった。偶然辿り着いてしまったのだろうか。
そのままの体勢でスマホを取り出した降谷は、慣れた手付きで彼女の番号を打ち込んだ。時刻は朝の5時。寝ているか、仕事で家にいないか、不規則な職業ゆえに予測はつかない。一度だけ、と誰にともなく言い訳をして、降谷は発信ボタンをタップした。
耳元で無機質なコール音が聞こえる。結局三回鳴ったところで切り、右腕で視界を覆った。
「……何してんだ僕は」
疲れてるんだ。このまま寝てしまおう。
体から力を抜いたところで、握ったままだったスマホが震えた。少し考えて、通話ボタンをタップした降谷が無言で耳にスマホを当てる。
『どうかした?』
すっかり聞き慣れた声音が耳をくすぐる。らしくない時間にかけたからだろうか、あえて名前を出さずに出てくれた彼女に暗い気持ちが少しだけ薄れていく。
「……苗字さん」
何を話したいわけでもなかった。絞り出すように呼んだ名前に、彼女が数秒黙り込んだ。
『今どこ?』
「え?」
『……あーいや、いいや。わかった。行くから待ってて』
一方的に通話が切られてしまい、呆気に取られる。しばらくして運転席側の窓がノックされた。
「!」
驚いた降谷が体を起こすと同時に、勝手に開かれたドアから名前が顔を出す。
「苗字さん?」
「部屋の窓から丸見えだったよ。早くそっち寄って。車来ちゃう」
追い立てられるように降谷が助手席に移動すると、運転席に座った名前が座席を起こしてバックミラーを調整した。降谷が再び口を開こうとするが、遮るように「とりあえず移動するね」と言われ、結局「はい」とだけ答えて口を閉じた。
自宅マンションの駐車場にRX-7を停めた彼女が、降谷に降車を促す。隣には彼女の愛車だろうダークメタルシルバーのGT-Rが停まっていた。
疲れからかいつもより働かない頭で彼女の後ろを歩いていた降谷だが、彼女が自宅に招き入れたところでさすがに覚醒した。
「あの、苗字さん」
「あ、ちょっと復活した?シャワー浴びてくる?」
硝煙臭いし。と続けた彼女に小さく肩が跳ねる。自分が今日何をしてきたかが鮮明に思い起こされる。
「……いえ、帰って浴びるので大丈夫です。突然すみませんでした」
踵を返した降谷だが、すでに靴を脱いでいた彼女に腕を掴まれて動きを止めた。視線だけで振り返ると、彼女は呆れたような表情を浮かべていた。
「あのね、限界を超える前に誰かを頼るの。セルフマネジメントの基本でしょう」
後輩に心配されてるようじゃ先輩失格だよ、といたずらっぽく口の端を上げる。
―――先輩だなんて思っていないくせに。
内心で反論しながらも、降谷の足は再び彼女に向き直っていた。
***
数時間後。降谷が目を覚ましてベッドを降りると、名前はリビングのソファで眠っていた。
(家主に気を遣わせてしまったな)
頭を掻きながら、音を立てずに玄関に向かう。彼女には後でお礼のメールを入れておこう。靴を履こうとしたところで、リビングから衣擦れの音が聞こえる。
「降谷くん」
眠そうにあくびを噛み殺しながら彼女が顔を出した。
「すみません、起こしましたか」
「いやいいけど、もう大丈夫なの?」
「はい、おかげさまで」
そう、と返しながら、彼女は今度こそ大きなあくびを零している。ぼんやりした表情の彼女に見送られながら、降谷はマンションを後にした。
愛車に乗り込みながら、足取りが幾分軽くなっているのを降谷は感じていた。誰かと一緒に過ごすだけでこんなにも楽になるとは。ここに辿り着いてしまった偶然に、降谷は密かに感謝した。
結局、限界を迎えるたびにここに辿り着いてしまい、「トリプルフェイスやばいね…」と同情した彼女にスペアのカードキーを渡されてしまうのだが、この時の降谷は知る由もない。
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