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朝方まで書類仕事を片付けていた名前は、すっかり日が昇った時間に目を覚ました。緩慢な動きで体を起こし、しばらくぼんやり考える。

(……ああ、コナンくんに初めて会った時のか)

工藤新一がコナンになる一部始終を目撃した日のことを夢に見ていたようだ。すでに懐かしささえ覚える光景だった。

(あの時はまさかFBIまで出てくるとは思わなかったな)

優れた推理力を有する探偵を相手取る以上、苦戦することは予想していたが―――まさか赤井とコナンをセットで相手にする羽目になるとは。このタイミングで協力者への登録を打診するのは、さすがに悪手すぎるだろう。彼にはすでに、彼女以上に心強い味方がいるのだから。

(彼にリターンをもたらせる人間であると、認識してもらわなければならない)

とはいえ立場的に表立っては動けないのだから、彼に与えられるものは限られるが。まあその辺もその時になってから考えよう。

そこまで考えて、名前は洗面所に立って鏡を見た。

(色々考える前に、まずは……)

エステ行こう。




***




エステで全身ツルツルのピカピカに磨き上げてもらってご満悦な名前は、偽苗字名前のマンションから少し離れたところでタクシーを降りる。苗字名前の姿で偽苗字の自宅に入る時は特に慎重に行かなければならない。

マンションに向かいながら、名前の視線がある一点を捉えた。

(げ、アンドレ・キャメル)

赤井に様子を見てくるよう言われたのだろうか。もしかしたら尾行を指示されているのかもしれない。マンション前に路駐している車の運転席を見て、彼女はゲッソリと息を吐いた。

偽苗字名義で借りているマンションはオートロックではない。部屋は三階だが、名前は一つ下の空室に向かうことにした。

鍵を取り出すフリをしながら手に取ったのは二本のヘアピンだ。それを伸ばして鍵穴に差し込むと、直立したまま指先だけの感覚で難なくピッキングする。元々諜報畑の人間なのでこれくらいは当然のスキルだと思っているが、その速さに降谷もドン引きしていたというのは余談である。

ドアを開けて入り込み、そのままベランダに出る。軽い動作で手すりに飛び乗った名前は、そのまま飛び上がって上階のベランダの柵を掴んだ。そこから壁面の雨樋に足をかけながら上階に侵入すると、窓の鍵の横辺りにジャケットを畳んで添え、脱いだハイヒールの踵部分を振り下ろした。

(あぶな、さすがに音は消せなかったか)

大きな音こそしなかったものの、ガラスの割れる音は抑え切れなかった。彼がまだ車内なら聞こえなかったとは思うが、思わずヒヤッとする。割れた窓ガラスから手を差し込んで鍵を開け、自室への侵入を果たした。

「……もしもし?ごめん、偽苗字宅に窓ガラス一枚手配して」

部下にガラス修理を頼むとさすがに訝しがられてしまった。ですよね。




***




無事偽苗字名前の姿になってマンションを出ると、だいぶ距離が空いた辺りでキャメルの車が動き始めるのがわかる。なるほど、尾行か。

(安全に登庁したいし、少しなら付き合ってあげよう)

名前が駅に向かうと、彼も駐車場に車を置いたのか少し慌てた様子でついてきた。向かうは杯戸ショッピングモールだ。

モールに到着すると、普通にショッピングを楽しむ名前。ちょうど偽苗字用の服を衣替えしたいと思っていたのだ。強面のキャメルは居心地悪そうに物陰に隠れている。

下着売り場では、しっかり寄せて上げてくれる店員ときゃいきゃいはしゃぎながらフィッティングする。さすがに直視できないのか、キャメルは背中を向けて隠れていた。

続いて女性向けのファンシーな雑貨屋に向かうと、「またか」とげんなりした表情のキャメルが少し離れたベンチに座る。あえて彼が入れない店を選んでいるわけではないのだが、思うように対象に近付けずストレスを感じているようだ。

仕方ないな、と仏心を出した名前が次に向かったのはモール内のゲームセンターだ。ここなら彼もうろつきやすいだろう。

彼女は以前同様、偽苗字が好みそうなぬいぐるみを獲るべくUFOキャッチャーの筐体に張り付いた。キャメルはすぐ隣の筐体でプレイしてみたり、少し離れたところから名前の表情を盗み見たり、職務をこなそうと必死である。スマホのカメラを向けられた時は自然な動作で背を向けたので、背後から小さな舌打ちが聞こえた。

今回の名前は一つのぬいぐるみがなかなか獲れないという設定である。両替機で両替を済ませると、振り向いた瞬間、後ろを通り抜けようとしていたキャメルと接触した。

「あっ、ごめんなさい!」

チャリンチャリンと音を立てて、両替したばかりの小銭が散らばる。

「い、いえ、自分こそ」

大きな体躯を屈め、拾うのを手伝うキャメル。彼は十分なスペースを保って通り抜けようとしていたので、ぶつかったのは完全に名前の意志だ。

「あっ」

最後の一枚を拾おうとした二人の手が触れ合うと、どちらからともなくパッと離した。

「ご、ごめんなさい」
「いえ……」

頬を赤らめながら視線を逸らす名前を、キャメルが動揺した面持ちで見つめているのがわかる。名前は再び手を伸ばして最後の一枚をサッと広い、彼が拾ってくれた分を受け取ろうと手のひらを差し出す。

「あの、ありがとうございました」

赤い頬のままふんわり微笑むのも忘れない。

差し出された手のひらに小銭を乗せながら、キャメルが思わずといった様子で「か、可憐だ……」と呟いた。

「え?」
「あっ、いえ!なんでもないです!では、自分はこれで」

尾行対象であることを忘れたのか、キャメルがそそくさと立ち去るのを名前は呆然と眺めていた。

(えええ……こんな使い古された手で?そんなにチョロくていいのか、FBI……)




***




「す、すみません、赤井さん!」
「いや、ご苦労だったな」

くく、と珍しく笑いを漏らす赤井に、キャメルは萎縮しきった様子で大きな体を縮めている。

「しかし、彼女に一体何があるんですが?見た限り、普通の可愛らしい女性でしたが……」
「それは正直わからない。しかし手放しで疑念を放棄できるほどの材料もなくてな」
「はあ、そうですか……」

赤井はきっと自分には及びもつかないような高度な考えがあるのだろう。そう畏敬の念を込めて見つめながら、キャメルの脳裏には花のように可憐な女性が思い浮かんでいた。


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