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天候に恵まれたその日、名前はリニューアルオープンの日を迎えた東都水族館を訪れていた。少年探偵団のメンバーに誘われ、同行することにしていたのだ。博士の車は定員オーバーなので、彼女は自宅から電車とバスを乗り継ぎ、彼らより少し早く現地に到着していた。
チケット売り場で自分のチケットを購入した名前は、売り場近くで待ってると哀にメールした。すぐに返信があり、彼らはあと10分程で到着する予定だという。
(続報は……来ていないか)
バッグから取り出した苗字名前名義のスマホを確認するが、昨夜遅くに起こった橋での爆発事故について、部下や上からの情報は来ていないようだった。その少し前に何者かが警視庁に侵入し、降谷がそれを追跡したと聞いているので、事故もそれに関連するものだと思ったのだが。
侵入者がどうなったのか、侵入の目的はなんだったのか。対応に当たったのが降谷で、それらの情報が名前にもたらされないということは―――つまりこれも組織がらみだということだ。
(こんなんばっかだな。本当にどうなってるの、あの組織。やばくない?尖りすぎじゃない?)
そろそろ降谷のキャパも限界なのでは?とつい心配したくもなる。たびたび組織関連の問題が起きるのに、それに対応するのが降谷一人とは無茶ぶりがすぎるのではないか。いくら彼が組織に潜入するNOCであったとしてもだ。
(?)
その時、ふと名前の鼻孔をガソリンのような香りがくすぐる。昼下がりの水族館には相応しくないそれに、彼女は辺りを見回した。そして見つけたのは、薄汚れた服装と全身の擦り傷が異様な雰囲気を放つ、白にも見える銀髪の女だった。
「あの……どうかされたんですか?」
「……」
反応がない。体調が優れないのだろうか。
「私の声、聞こえていますか?」
しゃがみ込んだ名前が見上げる形で問いかけると、女が緩慢な動作で顔を向ける。
(オッドアイ……いや、この質感……右目はカラコンだな)
絡んだ視線が、彼女の目の色を観察する。片目だけあえて黒く見せるというのは考えにくいので、もう片方は落としたということだろうか。全身の傷や汚れからして、何かトラブルに巻き込まれた可能性もある。
(ガソリンの香りもするし、スマホも壊れてる。交通事故か……あるいは昨夜の爆発と関係あるかも)
「言葉、話せますか?」
「……あ…」
ようやく彼女が口を開く。目は合うし、耳は聞こえているし、声は出る。体は細いが病的な感じはしないし、むしろ健康的に引き締まっている。そこまで確認した名前が、彼女の前に指を立てて本数を問おうとしたところで、後ろから聞き慣れた声が聞こえた。
「まずはチケットを買って、それから名前お姉さんと合流だー!」
「おー!」
振り返ると、子供たちが阿笠博士をチケット売り場に引っ張っていくところだった。ベンチ前にしゃがんでいる名前には気付かなかったのだろう。それを見ていると、ふと振り返ったコナンと視線がかち合った。
「名前さん!」
コナンと哀が駆け寄ってくる。
「ここにいたんだね。……その人は?」
「コナンくん、哀ちゃん、こんにちは。この人さっきからここに一人で座ってて、気になって声かけたところだったの」
「ふーん……」
名前の言葉に、コナンが女性を観察するように見る。
「何度か声をかけて、とりあえず体調に問題なさそうなのはわかったんだけど……また話らしい話はできてなくて」
「なるほど……ねえねえ、大丈夫?お姉さん」
「…え……」
顔汚れてるよ?とコナンが指摘すると、ゆっくりとした動作で自身の頬に触れる。意識がはっきりしてきたのか、意思の疎通はできそうだ。
「うわぁー、お姉さんの目、左右で色が違うんだね!」
「日本語がよくわからないんじゃない?」
「わかる…わかるわ……」
女性が自分に言い聞かせるように答えた。女性の傍らにあった壊れたスマホを「これ、ちょっと見せて」とコナンが手に取る。「いつからここにいるのか」「どこから来たのか」という質問には答えられないようだ。
(というより、答えを持っていないように見える)
「お姉さん、名前は?」
その質問にすら答えられなかった彼女は、最近できたであろう頭部の傷も踏まえて外傷性の逆行性健忘であると判断された。スマホについた破片が車のフロントガラスだというコナンは、ガラスが飛び散るということは比較的古い車種の車に乗っていたのだろうと推測する。破片の正体にまでは気付いていなかった名前は、素直に感嘆した。
哀も鼻をクンと動かし、彼女からガソリンの香りを嗅ぎ取ったようだ。
他に持ち物はないのかというコナンの問いに対し、彼女がポケットから取り出したのは黒い表紙の単語帳のようなもの。表紙と背表紙の間には、半透明のカラーフィルムのようなものが挟まれていた。
「…何のカードだろう?」
「赤、青、白、オレンジ、緑……カラフルだね」
名前も覗き込むが、よくわからない。
「おーい!コナーン!灰原ー!」
「二人分のチケットも買ってきたよー!早く乗りに行こーよー!」
「あっ、名前さんもいますよ!」
「名前お姉さーん!」
厄介なのが戻ってきた、とコナンは半目で彼らを見る。名前と挨拶を交わした子供たちは、ベンチに座る女性に気付いたようで興味津々だ。彼女の目の色に気付き、オッドアイだのオットセイだのと騒ぐ。
「うふふ……」
そのやりとりに、それまで反応の薄かった女性が口元に手をやって笑い出した。
「あっ、ごめんなさい……」
「お姉ちゃんに笑われちゃったねー!」
「ふふ、よかったね。楽しんでもらえたみたい」
子供たちは女性の反応が得られて嬉しそうだ。名前もつられたように笑いかけた。
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