3-13
珍しく深いところまで落ちていった名前の意識は、自分に触れる手の存在をどこか遠くのことのように感じていた。
それは慈しむように髪を撫で、左頬に触れ、名前の左手を握る。
(あったかくて……気持ちいい)
しばらくすると、手を握るのとは別の手が右頬に触れた。親指だろうか、目元が撫でる手つきがひどく優しい。
(………あ、離れちゃう)
その手が離れていくのを寂しく感じた名前は、思わずそれをパシッと掴んだ。
「……名前さん?」
心地のいい低い声が名前を呼ぶ。まだまどろんでいたいと訴える意識が、急速に浮上した。
ふるりと震えた瞼が、ゆっくりと開いて人影を捉える。柔らかそうな金髪と褐色の肌が特徴的な、整った顔立ちの人物だ。
開いたばかりの瞼がゆっくりと数回瞬いて、働かない頭に彼の姿を伝達する。
「………降谷、くん」
やっとの思いで動かした口唇が、口の端のピリッとした痛みと喉の乾きを認識させた。彼の手を掴んでいた名前の手から力が抜ける。
「はい」
どこかホッとしたような表情で、降谷が名前に笑いかける。「水持ってきます」と立ち去る降谷を、覚醒しきらない彼女がぼんやりと見つめた。
「体、起こせますか」
水を持って戻ってきた降谷が問いかける。まずは体の状態を把握しようと、名前は手足に少し力を入れてみる。
(……あ、ちょっとやばそう)
手足の強ばりを感じた名前はそう直感するが、水も飲みたいし、と降谷に小さく頷いた。
降谷の大きな手が支えになり、名前の上体を起こす。
「いたたたた」
「あ、覚醒しました?」
全身の打ち身と筋肉痛で目が覚めるなんて不本意極まりない。それでも、渇いた喉に染み込む水がいつも以上に美味しく感じて、名前は感動した。
「生き返った…」
「それはよかった」
「ここは?」
「僕の家です」
危うく水を噴き出しかけた。
「といっても、降谷名義のマンションですが」
ギリギリ口内に留めた水をなんとか飲み込み、周囲を見渡す。
名前は安室透名義のマンションにも、降谷零名義のマンションにも行ったことがない。厳密には、車が大破した彼をここまで送ってきたことはあるが、中に入るのはこれが初めてだ。
最近の潜入生活を思えばここにはほとんど帰っていないのだろうが、埃っぽさもなくシンプルで清潔感のある部屋だった。さすが降谷、家具の趣味もいい。
「えっと……お邪魔します?」
今更ながら言えば、降谷がふっと笑って「どうぞ」と言う。
「共有事項ですが」
前置きをした降谷が話し始める。
「現在、あなたが意識を失ってから8時間ほど経過しています。あなたの部下からは昨夜の内に着信があり、僕が代わりに出て状況を伝えました。焦げていたウィッグは外して、メイクはシートで適当に落としてありますが、カラコンはまだなので後で目薬を貸しますね。怪我は擦過傷ばかりなので顔と手足の消毒はしてあります。服で見えないところも確認した方がいいと思うので、この後シャワーを浴びてください。着替えはお貸しします」
ハイ、ハイ、と相槌を入れながら話を聞く。
「それと、頭を強く打っているかもしれないので、頭痛やめまい、吐き気が生じるようならすぐに教えてくださいね」
「ハイ」
間髪入れず素直に頷くと、降谷が微笑みながら名前の頭に手を伸ばし、そっと撫でた。
「……いい子だ」
朝食準備するので、シャワーどうぞ。
そう言って立ち去る降谷の背中を見ながら、名前は硬直した体に熱が上るのを感じた。
(なんだ今の!?)
***
全身に文字通り滲みる痛みに震えながらシャワーを終えた名前は、ボロボロの服は捨てることにして降谷のジャージにありがたく身を包んだ。20cm近い身長差もあり、手足は何回か折ってようやく見れる状態になった。
ダイニングテーブルに着くと、目の前に並ぶ和朝食に食欲が刺激される。湯気に乗って届く香りに涎が垂れそうである。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
味噌汁を飲み、綺麗に焼かれた出汁巻き卵に箸を伸ばす。
「うう……相変わらず美味しい…。お嫁に欲しい……」
万感の思いを込めてそう呟くと、降谷が「そういうところですよ」と言った。見るとちょっと目が据わっている。
「え?」
「いえ。ああ、名前さんから借りたペンライト……あれ、失くしてしまいました。すみません」
水族館に向かう降谷に渡したペンライトのことだ。さすがにあの緊急事態では致し方ないだろう。
「いいよ、まだあるし。使う機会あった?」
「助かりましたよ。爆弾の解体中に停電したので」
「爆弾」
あったの?名前が言葉を失う。
(ああ、オスプレイを照らしてたあれか……。あの量をあの短時間で解体したのか、この男)
「あれペンライトとボールペンが一体になっていたんですね。軽くてスリムだし、デザインもシンプルでいいと思ったんですが、どこで買ったんですか?」
ペンライトの状態で降谷に渡したあれは、上部を捻るとライト部分が引っ込んでボールペンの先が出てくる仕様だ。地味に役に立つ。
「協力者のお手製なの。名付けてボールペンライト」
「そのままですね」
「まあね、欲しい?」
「いいんですか」
「言っておくね」
ありがとうございます、と降谷は嬉しそうだ。
「名前さんがいつも使ってる小型の盗聴器とか発信器もその人が?」
「そうそう、元ハッカーの子。手先が器用なの」
彼女が使う盗聴器など後ろ暗いものは全て協力者の手作りだ。徹底したミニマルを目指す彼の作品は、シールタイプなど目立ちにくく使い勝手のいいものが多い。元ハッカーということもありスマホアプリとの連動もお手の物だ。
「前々から思ってましたけど、名前さんの協力者バラエティに富みすぎてませんか」
「ちゃんと多分野網羅できるように考えてるからね」
「さすが」
獲得してきた協力者を褒められるのは、自分の仕事を褒められているようだ。名前は小鉢の白和えを摘まみながら嬉しそうに笑った。
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