3-14
「キュラソーですが、まだ意識が戻っていません」
食後に降谷が淹れた煎茶を飲みながら、名前は目を伏せた。
「出血量が多く、頭部も強く打ってはいましたが…ひとまず手術は無事成功しています。右足はやむを得ず膝下を切断したので、彼女の意思次第で義肢が手配されるでしょう」
「……そっか」
クレーンからの脱出時、その場を離れることを優先するあまり受け身も取れなかったし、彼女の体勢も気に留めていられなかった。あれ以上のことが自分にできたとは思えないが、例えばこれが降谷だったのなら、彼女の足は無事だったのだろうか。
「名前さんが責任を感じる必要はありません」
強い言葉に、名前が顔を上げる。
「彼女の身柄を公安が手に入れられたのは僥倖です。誰もが彼女一人を優先できないあの状況で、あなただけがそれを成し遂げてくれた。彼女が目を覚ませば、組織の中核にも迫れるでしょう」
本当にありがとうございました。そう言って頭を下げる降谷に、名前は首を振った。
「ううん……彼女を助けたのは、半分は自分のためでもあるの」
「名前さんの?」
顔を上げた降谷が、不思議そうに聞く。名前は彼女とのやりとりを思い出しながら口を開いた。
「生きてても死んでても確実に回収しなきゃって、そう思って彼女に発信器をつけたんだけど…あの人、それを全部見てたのに何も聞かなかった」
「……」
「全部わかって、受け入れてくれてた」
クレーン車の運転席をこじ開けた時、彼女はすでに死を覚悟していた。記憶を取り戻したにもかかわらず、最後まで子供たちのために命を賭したのだ。その死体を公安に利用されることなど、気にもせず。
だからこそ名前は半分仕事で、もう半分は自分の意志で彼女を助けたいと思った。
「強い人ですね」
「うん。お互いにこんな立場じゃなかったら、友達にでもなれたのかなって思う」
それを聞いた降谷が、「時間ならこれからたっぷりありますよ」と笑う。
「……確かに、そうだね」
名前の脳裏に、強い意志をたたえたオッドアイが浮かぶ。
彼女が目を覚ましたら、友達になってくれないか提案してみよう。名前は心が少し軽くなるのを感じていた。
***
これから登庁するという降谷が準備を整えるのを眺めながら、名前はダイニングテーブルに出されたお菓子をちまちまと摘まんでいた。自分も後で登庁して報告書を作らなければと思いつつも、降谷手作りのクッキーがこれまた美味しい。ポアロに出すのだろうか。
(降谷くん寝てないだろうに)
一晩中名前についていたと思われる彼が、仮眠を取る暇は果たしてあっただろうか。しかしここで心配しても、「まだ一徹目なので大丈夫です」とかしれっと返されてしまいそうだ。
スーツを着込んだ降谷が「そうだ」と声を上げて向かい側に座る。
「名前さん」
「ん?」
「素顔のあなたと次に会うのがいつになるかわからないので、今の内に言っておきたいんですが」
やけに真剣な表情を浮かべた降谷がそこで言葉を切る。名前も口元に運んでいたクッキーをそこで止め、次に続く言葉を待った。
グレイッシュブルーの真摯な瞳が彼女を見つめる。
「好きです」
ぽとり、と名前の手からクッキーが落ちる。
「好きです、名前さん」
名前は今、自分がどんな表情をしているのかわからなかった。クッキーを落とした体勢のまま微動だにせずにいる名前に、表情を緩めた降谷が苦笑する。
「……すみません、困らせたいわけではないんですが」
それを見た名前が、ようやく言葉を発する。
「……キス、なかったことにしようとしてなかった?」
いつだったか、帰り際の降谷にキスをされたことがあった。しかし彼はそれをやらかしたと思っていたようだったし、山路のパーティーで名前を手伝ったことと相殺しようとしていたのではなかったか。
気まずげに眉根を寄せた降谷が、言いにくそうに口を開く。
「あれは…すみません。あの時、ちょっと色々あって、つい甘えてしまって……」
色々とは、ベルツリー急行でリスクを冒してまでシェリーを保護しようと決意した降谷が、普段より少し不安定だったことを言っているのだろう。
「あなたに甘えてキスまでした自分が情けなさすぎて、これは完全にやらかしたと思ったんです」
「……」
「そんな時パーティーの件を名前さんが借りと考えているのがわかって、それを利用してなかったことにしようとしました。……身勝手な話ですが」
自分の失態を恥じているのだろう。降谷が大きくため息を吐いた。
「気持ちも、伝えるつもりはなかったんです。今の距離感が心地よかったので」
「じゃあ、なんで?」
「赤井が、あなたを魅力的だと言いました」
「え」
思いもよらない登場人物に、名前はまた驚きで思考が止まる。
「腸が煮えくり返るのを感じました」
「そ、そう」
「自分が置かれた状況も忘れて、このまま殺してやろうかとも思いました」
「おぉ……」
それは、思い留まってくれてよかった。自分の与り知らぬところで国際的な問題に発展しかけていたのを知り、名前は背中がゾワゾワした。
「正直、あなたとの関係は今がベストだと思っていたんです。今でさえ甘えているのに、これ以上近付いたら僕はあなたに依存してしまうと思った」
「……うん」
「でも、知らないうちに横から掻っ攫われる可能性を考えたら、ゾッとしました。想像でも耐えられなかった」
「……」
降谷は目を伏せて苦々しげに言い放つ。
名前が何も言えないでいると、小さく息を吐いて表情を柔らかくした降谷がこちらを見る。
「あなたは今まで通りでいいんです。これは僕の決意表明みたいなものなので」
「え?」
「今まで通りに接してください」
「え、それは」
「僕も今まで通り、あなたを好きでいるだけですから」
―――人はそれを屁理屈と言うのでは?
有無を言わせない口調に名前は口を噤んだ。話はこれで終わりだと言うように、降谷が笑顔で席を立つ。
「本庁の後はポアロなので、名前さんは好きな時に出てください」
「あ、鍵は」
「置いておきます」
降谷がダイニングテーブルに一本のディンプルキーを置く。
「え?」
「これスペアなので、よかったら持って行ってください」
「スペア」
「ええ、じゃあ僕は行きますね」
「い、行ってらっしゃい…」
「行ってきます」
名前に話す暇を与えないまま颯爽と出ていく背中を見送ってから、彼女はテーブルに置かれた鍵に視線を落とす。
(スペアって……)
公安捜査官に限らず、秘匿性の高い身分の人間は鍵の予備を作らないのが原則―――というか暗黙の了解のようなものだ。名前が彼に渡したカードキーも、わざわざ作りに行ったものだった。
(じゃあこれも?)
今まで通りにと言いつつ、全く今まで通りじゃない。持ち上げた鍵を眺めながら、真摯な光を宿したグレイッシュブルーの瞳を思い出す。
「……とっくに、好きなんだけどなあ」
その場合は、どうすれば。
答える人のいない呟きが、主のいない部屋に響いた。
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