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ドイツ人オーナーの営む人気のジャズバー。暗めの照明としっとりとした音楽がムーディーな雰囲気を漂わせるその店内に、ベルモットはいた。

カウンターでグラスを傾ける彼女の姿はひどく目立つが、この店に限っては他にも視線を集めるものがあった。ステージ上のバックバンドと、日系ドイツ人の女性シンガーだ。

「ハァイ、バーボン」

無言で隣に座った男に、彼女が視線を向ける。

「……人を足に使うのはやめてもらっていいですか」
「いいじゃない、一杯くらい付き合いなさいよ」
「車ですよ」

呆れたように溜め息を吐くバーボンに構わず、ベルモットはバーテンダーにバージン・モヒートを注文した。ノンアルコールカクテルだ。

「ずいぶん上機嫌ですね」
「ここ、気に入ってるの。特に彼女ね」

ベルモットが視線を向けたステージでは、シンプルなチューブドレスに身を包んだ女性シンガーが艶やかな歌声を響かせていた。たっぷりとした栗色のウェービーヘアは、かきあげられたフロントが色気を漂わせる。

「ドイツ語ですか」
「上手でしょう?日系ドイツ人よ。新しく入ったの」

最近の癒しよ、と言うベルモットの表情は珍しく柔らかい。

「あなたでも音楽に癒しを求めたりするんですね、意外です」
「相変わらず嫌味な男ね」

ベルモットの睨みを受け流しながら、バーボンは件の女性シンガーを見つめた。

「あら?ああいうのがタイプなの、あなた」
「……いえ、別に」

短く答えて流し込んだバージン・モヒートの爽やかさに、苛立っていたバーボンの気分も少しだけ上向いた。




***




ステージを降り、足早に控室に向かう彼女の表情は硬い。カツカツと鳴らすヒールの音に、バックヤードにいたスタッフたちがなんだなんだと振り返る。

ドアを開けて体を滑り込ませると、彼女は数秒かけて長い溜め息を吐いた。

(……焦ったー!)

最近ベルモットがよく来店していることには気付いていた。それが今日は隣に降谷まで現れたものだから、危うく歌詞が飛ぶところだった。

ちょっと落ち着こうと、深呼吸を繰り返す。

(毎回ただ飲んで帰るだけだし…今日も多分プライベートだよね)

バーボンとベルモットが行動を共にしているというのは知っていたが、普段からよく二人でいるのだろうか。名前は少しモヤッとした。

―――素顔のあなたと次に会うのがいつになるかわからないので

告白前に彼がそう言っていた通り、あれから苗字名前としては彼と顔を合わせていない。偽苗字としてポアロには行ったが、それだけだ。もらった合鍵も使っていないし、なんの実感も湧いていない。

(…ほんと、嫌でも今まで通りだな)

というか告白されて持ってる物落とすとかベタか?ベタすぎか?三十路女しっかりしろ?と、あらぬ方向に思考が飛びかけたところで、控室のドアがノックされる。

『いるかい?』

このバーのオーナーを務めるドイツ人男性だ。そして今回の潜入目的でもある。

名前がドアを開けると、挨拶代わりのチークキスを両頬に落としながら入り込んでくる。

『来てくれてたのね』
『君がステージに立つ日は必ず来るさ。そういう約束だろう』
『ふふ、嬉しい。…コーヒーは?』
『いただこう』

二人分のコーヒーを用意しようと名前が背を向けると、男が覆い被さるように抱き締めてきた。

『……ちょっと』
『なあ……ここに来てもう何日経つ?そろそろ返事を聞かせてくれないか』

スリッと髪に頬擦りをされる感触に、名前の全身がぞわりと粟立つ。

『私、今は歌うことしか考えられないわ』
『俺には君しかいない…』

男がチュ、チュ、と名前の髪に口付ける。唇が降りていくのを察して振り向こうとするが、ガッチリと抱き込まれていて身動きが取れない。

『ねえ、』
『ダメだ、止まれない』
『……っ!』

男は彼女の髪を耳にかけると、露になった首筋に吸いついた。ちゅうっと強めに吸い上げ、そこを愛おしげに一舐めする。

(こいつ、跡付けやがった…!)

苛立った名前は脳内で即座にプランを変更する。自由になった右手で胸の谷間からある物を取り出し、男の太股に突き立てた。

『い……っ!?』

思いがけない痛みに呻いた男が、名前を突き飛ばして後退る。

『なっ…、何をした!?』
「……はあ、きもちわる」

空になった注射器を床に放った名前に、男は瞠目した。

『薬!?何を』

言い終わる前に、男の視界がぐらりと揺らぐ。すぐに立っていられなくなり、その場に蹲る。

『大丈夫、死なないから』

目の前にしゃがんだ名前が、目線を合わせる。男が意識を失って倒れ伏すのを確認してから、彼女は男を仰向けに転がした。

「……やっぱり、持ち歩いてたか」

男の胸元から紐付きの革袋を取り出した名前は、中身を回収して元に戻す。目的はこのUSBメモリに入った情報だ。彼女は注射器を拾って控室を出た。

店内に戻ると、スタッフたちが口々に声をかけてくる。それに今日はもう上がりだと返して店の出入口に向かう。

「!」

辿り着いたそのドアに、長身の男がもたれかかっている。

柔らかそうな金髪に褐色の肌、黒を基調としたセンスのいい服に身を包んだその男はバーボンだ。

『……そこ、どいてもらっても?』

変装したままの名前が、彼にも伝わるよう英語で話しかける。バーボンは視線を上げて微笑むと、もたれかかっていた体を起こし、こちらへ数歩距離を詰めた。

『素敵な歌声でした』
『…ありがとう』
『いつからここに?』
『最近よ』

ふとバーボンの視線が少し下がり、彼の手が名前の髪に触れる。

『……?』

右サイドの髪を彼女の耳にかけて、そこを見た彼の顔から表情が抜け落ちた。

(あ……!)

見てる。あの男に付けられた跡を。

「バーボン?」

名前が気付くのとほぼ同時に、背後からベルモットの声がする。

「……ああ、すぐ行きます」

静かに答えたバーボンは、名前の横をするりと抜けて彼女のもとへ向かった。

「彼女に何を?」
「チップを渡しただけです」

背後の会話を聞きながら、名前は動揺を押し隠して店を出る。

少し歩いたところに停まっていた部下の車に乗り込むと、思わず感情が零れた。

「こっ………わあ……!!」
「苗字さん?」

運転席から振り返る部下に「なんでもない」とだけ返し、深呼吸で平静を取り戻す。

「…ごめん、結局薬使った。盗られた物が物だから大事にはしないだろうけど、根回しよろしく」
「了解しました」

(何もかもあのドイツ人のせいだ)

元凶の男を思い浮かべた名前は、頭の中でその眉間を撃ち抜いた。


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