4-1
ドイツ人オーナーの営む人気のジャズバー。暗めの照明としっとりとした音楽がムーディーな雰囲気を漂わせるその店内に、ベルモットはいた。
カウンターでグラスを傾ける彼女の姿はひどく目立つが、この店に限っては他にも視線を集めるものがあった。ステージ上のバックバンドと、日系ドイツ人の女性シンガーだ。
「ハァイ、バーボン」
無言で隣に座った男に、彼女が視線を向ける。
「……人を足に使うのはやめてもらっていいですか」
「いいじゃない、一杯くらい付き合いなさいよ」
「車ですよ」
呆れたように溜め息を吐くバーボンに構わず、ベルモットはバーテンダーにバージン・モヒートを注文した。ノンアルコールカクテルだ。
「ずいぶん上機嫌ですね」
「ここ、気に入ってるの。特に彼女ね」
ベルモットが視線を向けたステージでは、シンプルなチューブドレスに身を包んだ女性シンガーが艶やかな歌声を響かせていた。たっぷりとした栗色のウェービーヘアは、かきあげられたフロントが色気を漂わせる。
「ドイツ語ですか」
「上手でしょう?日系ドイツ人よ。新しく入ったの」
最近の癒しよ、と言うベルモットの表情は珍しく柔らかい。
「あなたでも音楽に癒しを求めたりするんですね、意外です」
「相変わらず嫌味な男ね」
ベルモットの睨みを受け流しながら、バーボンは件の女性シンガーを見つめた。
「あら?ああいうのがタイプなの、あなた」
「……いえ、別に」
短く答えて流し込んだバージン・モヒートの爽やかさに、苛立っていたバーボンの気分も少しだけ上向いた。
***
ステージを降り、足早に控室に向かう彼女の表情は硬い。カツカツと鳴らすヒールの音に、バックヤードにいたスタッフたちがなんだなんだと振り返る。
ドアを開けて体を滑り込ませると、彼女は数秒かけて長い溜め息を吐いた。
(……焦ったー!)
最近ベルモットがよく来店していることには気付いていた。それが今日は隣に降谷まで現れたものだから、危うく歌詞が飛ぶところだった。
ちょっと落ち着こうと、深呼吸を繰り返す。
(毎回ただ飲んで帰るだけだし…今日も多分プライベートだよね)
バーボンとベルモットが行動を共にしているというのは知っていたが、普段からよく二人でいるのだろうか。名前は少しモヤッとした。
―――素顔のあなたと次に会うのがいつになるかわからないので
告白前に彼がそう言っていた通り、あれから苗字名前としては彼と顔を合わせていない。偽苗字としてポアロには行ったが、それだけだ。もらった合鍵も使っていないし、なんの実感も湧いていない。
(…ほんと、嫌でも今まで通りだな)
というか告白されて持ってる物落とすとかベタか?ベタすぎか?三十路女しっかりしろ?と、あらぬ方向に思考が飛びかけたところで、控室のドアがノックされる。
『いるかい?』
このバーのオーナーを務めるドイツ人男性だ。そして今回の潜入目的でもある。
名前がドアを開けると、挨拶代わりのチークキスを両頬に落としながら入り込んでくる。
『来てくれてたのね』
『君がステージに立つ日は必ず来るさ。そういう約束だろう』
『ふふ、嬉しい。…コーヒーは?』
『いただこう』
二人分のコーヒーを用意しようと名前が背を向けると、男が覆い被さるように抱き締めてきた。
『……ちょっと』
『なあ……ここに来てもう何日経つ?そろそろ返事を聞かせてくれないか』
スリッと髪に頬擦りをされる感触に、名前の全身がぞわりと粟立つ。
『私、今は歌うことしか考えられないわ』
『俺には君しかいない…』
男がチュ、チュ、と名前の髪に口付ける。唇が降りていくのを察して振り向こうとするが、ガッチリと抱き込まれていて身動きが取れない。
『ねえ、』
『ダメだ、止まれない』
『……っ!』
男は彼女の髪を耳にかけると、露になった首筋に吸いついた。ちゅうっと強めに吸い上げ、そこを愛おしげに一舐めする。
(こいつ、跡付けやがった…!)
苛立った名前は脳内で即座にプランを変更する。自由になった右手で胸の谷間からある物を取り出し、男の太股に突き立てた。
『い……っ!?』
思いがけない痛みに呻いた男が、名前を突き飛ばして後退る。
『なっ…、何をした!?』
「……はあ、きもちわる」
空になった注射器を床に放った名前に、男は瞠目した。
『薬!?何を』
言い終わる前に、男の視界がぐらりと揺らぐ。すぐに立っていられなくなり、その場に蹲る。
『大丈夫、死なないから』
目の前にしゃがんだ名前が、目線を合わせる。男が意識を失って倒れ伏すのを確認してから、彼女は男を仰向けに転がした。
「……やっぱり、持ち歩いてたか」
男の胸元から紐付きの革袋を取り出した名前は、中身を回収して元に戻す。目的はこのUSBメモリに入った情報だ。彼女は注射器を拾って控室を出た。
店内に戻ると、スタッフたちが口々に声をかけてくる。それに今日はもう上がりだと返して店の出入口に向かう。
「!」
辿り着いたそのドアに、長身の男がもたれかかっている。
柔らかそうな金髪に褐色の肌、黒を基調としたセンスのいい服に身を包んだその男はバーボンだ。
『……そこ、どいてもらっても?』
変装したままの名前が、彼にも伝わるよう英語で話しかける。バーボンは視線を上げて微笑むと、もたれかかっていた体を起こし、こちらへ数歩距離を詰めた。
『素敵な歌声でした』
『…ありがとう』
『いつからここに?』
『最近よ』
ふとバーボンの視線が少し下がり、彼の手が名前の髪に触れる。
『……?』
右サイドの髪を彼女の耳にかけて、そこを見た彼の顔から表情が抜け落ちた。
(あ……!)
見てる。あの男に付けられた跡を。
「バーボン?」
名前が気付くのとほぼ同時に、背後からベルモットの声がする。
「……ああ、すぐ行きます」
静かに答えたバーボンは、名前の横をするりと抜けて彼女のもとへ向かった。
「彼女に何を?」
「チップを渡しただけです」
背後の会話を聞きながら、名前は動揺を押し隠して店を出る。
少し歩いたところに停まっていた部下の車に乗り込むと、思わず感情が零れた。
「こっ………わあ……!!」
「苗字さん?」
運転席から振り返る部下に「なんでもない」とだけ返し、深呼吸で平静を取り戻す。
「…ごめん、結局薬使った。盗られた物が物だから大事にはしないだろうけど、根回しよろしく」
「了解しました」
(何もかもあのドイツ人のせいだ)
元凶の男を思い浮かべた名前は、頭の中でその眉間を撃ち抜いた。
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