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その日の朝早く、名前はスーツ姿で警察病院を訪れていた。キュラソーのお見舞いだ。

病室の入口では、他の捜査官と鉢合わせないよう部下が見張ってくれている。

「……久しぶり」

花瓶の水を替え、ベッドで眠り続けるキュラソーに話しかける。人工呼吸器を取り付けられてはいるが、もうその顔に傷はなく、今にも目を開けそうなほど綺麗なものだ。

もはや切断した足以外に身体的な問題はないが、彼女は目を覚まさない。降谷は彼女の脳そのものが記録媒体だと判断したようだし、これまで酷使してきた脳を今やっと休ませているところなのかもしれない。

「目が覚めたら、なんて呼んだらいいかなあ」

キュラソー?キュラさん?それとも、新しく名前を付ける?

問いかけに答える声はないが、病室に流れる空気はどこまでも穏やかだ。彼女に笑いかける名前の姿を、枕元の薄汚れたイルカが見守っていた。




***




部下と別れた名前が向かったのは空港だ。

現在、数日後に東京サミットの開催を控えた東京湾の統合型リゾート施設「エッジ・オブ・オーシャン」では、名前の部下と風見の二班による下見が始まろうとしている。

一方の名前は各国の要人が利用するこの空港の下見を担当していた。外事課出身の彼女は空港の警備システムにも精通しており、要人警護の経験も豊富なためだ。

『現場到着しました。これより国際会議場に入ります』
「了解。都度報告を忘れないでね」
『了解しました』

電話を切った名前は、タブレットに空港見取図を表示する。当日警察官を配置する箇所と人数に細かく修正を加えながら、空港内全体を見て回った。

名前が空港ラウンジに足を踏み入れたところで、スマホが再び部下からの着信を知らせる。

「はい」
『二班で国際会議場の見回りを終えました。これより風見班は施設周辺、我々は一階飲食店の確認を始めます』
「了解。電気・ガス系統は開通前でも念入りに確認して」
『了解しまし――――――』

突如、砂嵐のような轟音が通話口から聞こえる。

「えっ?」

そのまま途切れてしまった通話は、何度かけ直しても再び繋がることはない。

(………一体何が)

視線を上げた名前は愕然とした。

ガラス張りの空港ラウンジからは、エッジ・オブ・オーシャンの方角で濛々と立ち上る黒煙がよく見える。

「…………あ……」

その瞬間脳裏に過った最悪の事態に、彼女の足は空港を飛び出していた。




***




「状況は!」

未だ部分的な倒壊を続ける建物からは、炎や煙が勢いよく噴き出している。それを呆然とした様子で見つめている捜査官を捕まえて名前は問いかけた。

「…はっ?え?あ、あの、あなたは」

同じ公安捜査官であっても、名前の顔を知る人間はごく僅かだ。配属されたばかりなのだろう若い捜査官は、突然現れたスーツ姿の女に当惑していた。

思わず舌打ちを零した名前は周囲を見渡し、そこに見知った顔を見つけると大声で呼びかける。

「風見くん!」

別の捜査官に肩を貸しながら歩いていた風見は、名前の姿を認めて足を止めた。この場の責任者でもある風見を気安く呼び止めた彼女に、目の前の捜査官がぎょっとした表情を浮かべる。名前はそれに構わず風見に駆け寄った。

「苗字さん…!」
「どこまで把握できてる?」
「それが…まだ何も」

前触れなく起こった大規模な爆発に、この場の誰も状況を掴めていないようだ。消防車両は名前より早く到着して放水を開始しているが、焼け石に水のようで炎の勢いが弱まる気配はない。

「彼は」
「……爆発以降、姿を確認していません」
「そう」

名前は血の気が引くのを感じながらも、努めて冷静に振る舞っていた。部下はきっと、まだ中だ。

「あの、苗字さん…」
「風見くん」
「!」

気遣わしげにこちらを見る風見の言葉を遮る。

「……無事でよかった」

一切の感情を押し隠して微笑んでみせた名前に、風見は目を見開いて言葉を失った。




***




サミット会場のエッジ・オブ・オーシャンで起こった原因不明の大規模な爆発により、サミット警備の下見に当たっていた公安捜査官数名が死傷した。

そしてその死亡者の中には、名前の部下の名前もあった。

報告を受けて立ち尽くしていた名前のスマホが不意に震える。画面を確認すると、登録はされていないが見覚えのある数字の羅列が表示されている。―――ウラ理事のものだ。

「……はい、苗字。はい、……え?」

了解しました、と小さく答えて通話を切った名前は、ミシリと軋むほど強くそれを握り締める。

―――案件から外された。

部下を亡くしたばかりの名前では冷静に立ち回れないと判断されたのだろう、サミット会場爆破の捜査は降谷一人が担当することとなった。そしてその間、偽苗字の姿で待機せよというのが理事からの指令だ。

わかりやすく名前を捜査から遠ざけようとする上の意図に、彼女はギリギリと奥歯を噛み締めて怒りを押し殺す。

頭に血が上った自分が捜査の足並みを乱すとでも?それとも復讐心で一人突っ走り、犯人の身を害するとでも思われているのだろうか。

(………反吐が出る)

それなら望み通り、偽苗字として好きに過ごしてやろう。待機だなんて曖昧な指令を下した上が悪いのだ。捜査から本当に遠ざけたいのなら、家から一歩も出るなとでも言えばよかった。

名前は手に持ったままのスマホで、協力者の番号をタップする。

「…今すぐ用意してほしいものがあるんだけど―――30分で作れる?」

スマホを持つ手とは逆の手で、バッグの中からある物を探り当てた。

「わかった。今から向かうね」

名前の脳裏に、捜査を担当することになった降谷の姿が浮かぶ。彼は軽蔑するだろうか。手にした合鍵を見つめながら、彼女はぼんやりと考えた。


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