4-8
渡した合鍵で自室を訪れた名前の、その悄然とした姿に降谷は言葉を失っていた。彼女の部下の訃報は降谷の耳にも届いている。それでも、これまで一度も精神的な弱さを見せたことのない彼女だ。きっと自分の前でも上辺を繕うのだろうと思っていた。
「…名前さん?」
玄関に足を踏み入れたまま、動かずにいる彼女に声をかける。ゆっくりと上がった視線が降谷の姿を捉えると、その瞳がごまかしようもないほどに揺れるのが離れていてもよくわかった。
自身の手当てのため、床に座り込んでいた降谷が思わず腰を浮かそうとする。しかしそれよりも、彼女が靴を脱いで胸に飛び込んで来る方が早かった。
「!名前さん」
咄嗟に力を込めた降谷が、上半身だけでその勢いを受け止める。細い体に腕を回すと、小さな震えが伝わってくる。
「降谷くん……」
「…はい」
ぎゅっと腕に込めた名前が、「無事でよかった」と小さく呟いた。負傷した姿を見て、彼もまた爆発に巻き込まれたのだと気付いたのだろう。強く抱き締められながら、降谷も腕の力を強める。
ふいに彼女が顔を上げた。瞳は揺れ、涙の膜が張っている。眉尻も力なく下げられ、瞬き一つで涙が零れてしまいそうに見えた。
「名前さ、」
呼びかけようとして唇に感じた彼女の温度に、降谷は思わず瞠目した。
「……あ、ごめん…私…っ」
狼狽えたように体を離した名前の瞳から、ついに堪えきれなくなった涙が零れ落ちる。それを見た降谷は、離れた体を引き戻して彼女の唇を強く奪った。一瞬見開かれた彼女の瞳がまたぎゅっと閉じられ、涙が頬に筋を残す。息つく間もなく貪られ、名前は降谷の腕にしがみつくようにして耐えていた。
「……っ、は………降谷、くん…」
ようやく解放された名前は荒い息を整えながら、至近距離で鼻先を触れ合わせたままの降谷を見つめる。後頭部に添えた手をぐっと引き寄せ、降谷はその体を掻き抱いた。
「…もっと、僕を頼ってください」
お願いだから。
祈るようなその声色に、名前はそっと目を伏せた。
***
「本当に休んでいかないんですか?」
これからポアロに出勤するという降谷を、名前は玄関まで見送っていた。
「うん、この顔洗ったらすぐに出るよ」
赤くなった目元を指差しながら苦笑する。それを降谷が気遣うように見るが、彼女もこれから偽苗字名前として過ごすため、すぐにでもそちらの家に向かわなければならない。
「……あ、そうだ、これ…」
玄関に投げ捨てられたままだったバッグから、名前が長細い箱を取り出す。
こんな時になんだけど、と自嘲気味に笑いながら箱から出したのは、以前約束したボールペンライトだ。見た目は細めのボールペンにしか見えないそれを、彼女は降谷の着るシャツの胸ポケットに差し込んだ。
「遅くなっちゃってごめんね。変装したら、またしばらく渡せなくなるし…持って行って」
「……ありがとうございます」
胸ポケット越しにそれに触れ、降谷は微笑んだ。
降谷が部屋を出て行くと、名前は顔を洗うため洗面所に向かう。洗面所の鏡には、目を赤くした頼りない表情の女が映っている。
(…ごめんね、降谷くん)
彼に渡したあれには、協力者の手によって盗聴器と発信器が仕込まれている。見た目の変化はないし、耳を近づけたとしても作動音は聞こえない。それでも彼なら気付くだろうと名前は確信していた。
(仮にも自分を好いてくれてる同僚にハニトラ仕掛けるなんて…最低だな、私)
気付いたら呆れるだろうか、怒るだろうか。非難されるならまだしも、何も言われず見放されたら少し寂しい。それでも名前に後悔はなかった。
彼女の脳裏に、捜査から外れるよう淡々と告げた理事の声が蘇る。
(降谷くんの邪魔をする?捜査に介入する?……そんなことがしたいわけじゃない。犯人に制裁を下すのも、警察官の仕事じゃない。……でも、この目で犯人の姿を見て、この耳で動機を聞きたい。ただそれだけ)
できれば、殴るか蹴るかしてやりたいけど。
これまで組織人としてひたすら忠実に職務を全うしてきた名前だったが、彼女は今初めて、自分のためだけに動いていた。
***
『なんでこんなことするんだ!』
装着したイヤホンから、コナンの悲痛な叫び声が聞こえてくる。公安は爆発が事故で処理されるのを防ぐため、毛利小五郎を容疑者に仕立て上げて事件化に持っていくつもりのようだ。
こんな時に降谷がポアロに出勤しているのも、傷だらけの姿をコナンに目撃させたのも、全てはコナンに降谷の関与を確信させ、自身への反感と猜疑心を植え付けるため。
―――彼は、自分の代わりにコナンに事件を追わせるつもりだ。
それなら、名前が取るべき行動は決まっている。
『僕には、命に代えても守らなくてはならないものがあるからさ』
降谷の強い言葉が、彼の敵対をコナンに予感させる。
それと同時に、盗聴に使用しているのとは別のスマホがバイブ音を響かせた。有栖川名義のスマホだ。画面には「蘭ちゃん」と表示されている。
(手間が一つ省けた)
名前は人知れず口角を上げ、通話ボタンをタップした。
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