4-14
降谷が電話を受けてからちょうど一時間後。名前はいつかと同じように早朝の警察病院を訪れていた。
あの日と違うことは、部下ではなく風見が病室の外で待機していること。それから眠っていた彼女が目を覚ましていることだ。
彼女は起こしたベッドに上体を預け、感情の読めない表情でこちらを見ていた。
「初めまして」
名前が笑顔で話しかけるが、反応はない。今回、記憶に問題がないことはすでに確認されているので、単に名前を警戒しているのだろう。
「警察庁警備局の苗字といいます」
警察手帳を見せながら名乗ると、ドアの向こうで風見が動揺する気配がした。あっさり身分を明かしたことに驚いたのだろう。
ベッド脇のパイプ椅子に座った名前が、再び口を開く。
「体調はいかがですか。もう何か食べられました?」
返事はないが、視線はずっと絡んだままだ。名前は「本題に入りますね」と前置きした。
「あなたに選択肢を示せないのが心苦しいのですが…あなたには組織について、知り得る限りの情報を開示していただかなければなりません」
キュラソーは名前をじっと見つめている。
「その上で協力への対価として、義肢の手配や戸籍の用意など、できる限りの援助をします」
「……戸籍?」
そこでようやく彼女が口を開いた。
「ええ。調べましたが、あなたの身元を特定することはできませんでした。組織の工作によるものだとは思いますが、あなたの指紋やDNA情報、歯の治療痕に至るまで、いかなるデータベースにも一致するものはありません。今後の生活のため、新たな戸籍を取得する必要があります」
「……」
「組織のことが片付けば、住居の用意や当面の生活のサポートもします」
「…犯罪者に、ずいぶん手厚いのね」
相変わらず感情の乗らない表情で、彼女が言う。そう言われることを予測していた名前は、口元に笑みを浮かべたまま淡々と答える。
「戸籍さえ作ってしまえば、あなたは守られるべき国民の一人ですから。これまでの犯罪歴も記録自体ありませんし、罪に問われることはありません」
「警視庁への侵入や、ノックリストの持ち出しについては?」
「そもそも、あなたはリストを閲覧して記憶しただけでしょう。簡単に暴かれたセキュリティにも問題がありますし、公安はこの一件についてすでに隠蔽を決めています」
そこまで言うと、キュラソーはわずかに眉根を寄せた。公安という組織のやり方に不快感でも覚えたのだろうか。名前にもその気持ちはわからないでもない。
「あなたが、すでに組織への未練を持たないことは把握しています」
「!」
「あなたの大切な人達が安心して暮らしていけるよう、力を貸していただけませんか」
今彼女の脳裏には、あの子達の顔が浮かんでいることだろう。彼女が命を賭して守った存在だ。
「……すでに組織を裏切った身だもの。今さら足掻くつもりはないわ」
案の定、少しだけ表情を和らげた彼女が言う。
「ご協力に感謝します」
これでここへ来た目的は達成できた。名前はニッコリ笑ってみせてから、「お話したかったことは以上です」と締めくくる。キュラソーもこれ以上言葉を交わすつもりはないのか、それまで彼女に向けていた視線をようやく反らした。
「……それで、ここからは仕事の話ではないんですが」
まだ何かあるの、と言いたげな表情でキュラソーがこちらを見る。
名前は足元に置いていたハンドバッグからある物を取り出すと、彼女から見えるように差し出してみせた。
「! それ……」
それは偽苗字名義のスマートフォンだった。可愛らしい手帳タイプのカバーが付けられたそれには、真っ白なイルカが揺れている。
「あなたのは、こっち」
ベッド脇のキャビネットから取り出したのは、同じイルカのキーホルダーだ。水族館の一件ですっかり薄汚れてしまったそれは、汚れを拭き取っても少しくすんで見える。
くすんだイルカを受け取ったキュラソーが、瞳を揺らしてそれを見つめた。
「……どうしてそれを、あなたが?」
キュラソーが視線で示すのは、名前の手元で揺れている白いイルカだ。キュラソーから見た今の彼女は、似合わないデザインのスマホケースに自分とお揃いのイルカをぶら下げた怪しい警察官だろう。怪訝そうな表情を隠しもしない。
「水族館の一件の後、あの子達からもらったの」
「え?」
「これ、友達の証なんだって。あなただけじゃなくて、私も友達だからって」
「……あなた、まさか」
キュラソーが切れ長の目を見開いて、唇をわずかに震わせた。
あの日偽苗字名前の姿で過ごしながらも、記憶を取り戻したキュラソーと対峙した彼女は偽苗字らしさを装ってはいなかった。その時の名前と、目の前にいる警察官の口調や雰囲気が重なったのだろう。キュラソーがその神秘的なオッドアイでじっと見つめてくる。
「“驚いた?”」
偽苗字の声でそう問うと、彼女はハッと息を呑み、それから脱力したように長いため息を吐いた。
「……ええ、驚いたわ」
「ふふ、よかった」
いたずらが成功したように笑う名前に、キュラソーも気が抜けたような笑みを見せてくれる。
「あなたが、私を助けてくれたのね」
「五体満足とはいかなかったけど」
「十分よ」
そう言うキュラソーに、名前に遠慮している様子は見られない。本気でそう思っているのだろう。彼女が足を失ったことが気がかりだった名前は、肩の荷が一つ下りた気がした。
「あのね、一つ個人的なお願いなんだけど」
「何かしら」
名前の言葉に、キュラソーが小さく首を傾げる。そこに先程までの警戒心はなく、名前の表情も自然と綻ぶ。
「キュラソーって呼んでもいい?」
一瞬呆気に取られたように目を瞬いたキュラソーだったが、やがて「今更ね」と笑ってくれる。
「好きに呼んでいいのよ、友達なんだから」
その言葉に、「友達になって」と言うタイミングを見計らっていた名前は思わず破顔した。
警察官になってすぐ公安に配属となり、それまでの友人との関わりを絶っていた彼女にとって、カバーではなく苗字名前自身の友達というのは本当に久しぶりだ。緩んだ頬はしばらく隠せそうになかった。
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