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「名前さんはどんな外国語が話せるの?」

金曜日の夕方。混み合うポアロでカウンター席に並んで座ったコナンと名前の話題は、名前の大学生活についてだ。東都外国語大4年の偽苗字名前は、卒業研究以外の単位はすでに足りており、就職先も早々に決まって悠々自適なモラトリアムを楽しんでいる。

「入学時に選択したフランス語と、必修の英語と……。 3年の時イタリアに留学したから、イタリア語もちょっと話せるよ」
「へえ、すごいね」
「ちなみに今は中国語を勉強中!」
「それはなんで?」
「内定もらってる商社が中国に進出してて、いつか駐在業務が回ってくるかもしれないからね、念のため」

なるほどね、と腑に落ちた様子のコナンに「実は結構努力家でしょ?」と笑いかける。「名前さん見た目に反して真面目だもんね」と返され、ぐっと言葉に詰まってみせた。

「卒業研究は何を?」
「六法全書をフランス語に翻訳してるよ」
「そ、そうなんだ……」

クス、という笑いが前方から漏れ、二人して顔を上げる。

「安室さん」
「ああ、すみません。とても興味深いお話だったので」

名前にコーヒーのおかわりを、コナンの二杯目にオレンジジュースを出しながらカウンター越しの安室が言う。

「六法全書の翻訳なんて、大変でしょう」
「え、えっと、大変ですけど結構楽しくて。法律にもちょっとは詳しくなりました」
「それは素晴らしいですね」
「ひえ」

顎に手を添えた安室がふふ、と笑うと、名前は直視できずに頬を赤らめた。それにまた笑った安室が、梓に呼ばれて去っていく。

「……名前さん、本当に安室さんに弱いね」
「安室さんっていうか…イケメンに弱いの…!」

うちの大学じゃなかなかお目にかかれないよ…!
両頬に手を添えて悩ましげに息を吐く名前を、半目のコナンが「ふーん」と眺める。

「じゃあ一番タイプなのは?」

芸能人でもいいよ、と付け足すと、問われた名前は途端にウンウン唸って悩み始める。サイドの髪を指先で弄びながらひとしきり唸ったあと、「あっ」と顔を輝かせてコナンに向き直る。


「工藤新一くんとか、タイプかも!」




***




ガタンゴトンと規則的な音を立てる電車に揺られながら、名前は先程別れた少年を思い出した。幼い顔を真っ赤に染めて、「そそそそうなの? どど、どういうところが?」と動揺を隠せずにいた姿を思い浮かべてくすりと笑う。ついでにレジで「名前さんは工藤くんみたいな涼しげなイケメンがタイプなんですね。参考になります」と意味深に笑う店員の表情も浮かんだがすぐに消した。それに赤面してあわあわ慌ててみせた自分の姿にいたっては回想すらせず消した。

夕焼けの赤が差し込む喫茶店には平和な日常が満ちていたが、その実、名前の周りに限って言えば嘘と虚構まみれだった。

フランス語と英語、イタリア語が話せるのは本当だし、中国語を現在進行形で勉強中なのも本当だ。大学時代に六法全書をフランス語に訳したのも本当だ(7年も前の話だが)。しかし偽苗字名前も安室透も―――江戸川コナンだって偽物だ。偽物同士で楽しく笑い合うなど、なんて滑稽だろうか。

そう、名前は江戸川コナンが工藤新一であることを知っている。そして、名前がそれを知っていることをコナンはもとより、同僚である降谷零も知らない。

しかし職務上、こんなのは慣れっこだ。いたいけな小学生、もとい高校生を騙し続けるのも、信頼のおける同僚に情報を隠し続けるのも、いつも通り。偽ることに罪悪感を覚えていたのは、まだ新人捜査官だった頃の話だ。この仕事を選んだのは自分なのだから、もはや後悔などあるはずもなかった。

パーティーは翌日に迫っていた。




***




「わーっ、素敵な会場!」
「できたばかりのホテルだもの!いやー本当に綺麗ねー」

土曜日。
山路製薬会社社長の婚約記念パーティーに訪れていた園子たちは、煌びやかな会場に感嘆の声を上げていた。

「こりゃあ飯の方も期待できそうだ」
「もう!お父さんったらそんなことばっかり」
「あはは、有名ホテルの系列ですから、食事もお酒も一流だと思いますよ」
「安室さん…今日は付き合ってもらっちゃってごめんなさい」

申し訳なさそうに眉を下げる蘭に、安室は「いえいえ」と手を振ってみせる。

「尊敬する毛利先生に同行できるなんて、光栄ですから」
「ふふ、ありがとうございます」

園子の同伴者としてやってきたのは、毛利と蘭、コナン、安室の4人だ。園子は梓にも声を掛けていたが、さすがにポアロの営業時間帯に店員が二人抜けるわけにもいかず、自分が残ると断られてしまった。

「にしても安室さん、やっぱりスーツ似合ってるわー!」

私の見立ては正しかった!と、園子が興奮したように声を上げる。
そう言う園子や蘭はドレスを着ているし、毛利は余所行きのスーツだ。コナンはいつも通りのジャケットと蝶ネクタイ姿である。

「そうかな、ありがとうございます」

にこやかに賛辞を受け入れる姿は、確かに周囲の視線を集めていた。

ネイビーのスリーピーススーツとシルバーのネクタイ、上質なブラウンの革靴でシックにまとめた安室は、人目を引く長身も相まって一般人には見えない。後ろに撫でつけた金髪からは色気が駄々漏れだ。きゃいきゃい騒ぐ園子に動じる様子もない安室に、コナンは蘭に手を引かれながらチベスナ顔である。

受付を済ませた一行が会場に足を踏み入れると、一組のカップルがゲストに囲まれていた。

「あっ、あそこにいるのが山路製薬社長の山路光久さんよ!」

園子が指を差すと、それに気付いたのかカップルの一人がこちらに目を向ける。

「ああ、園子ちゃんじゃないか。今日は来てくれてありがとう」

割れた人波から現れたのは、体格のいい美丈夫である。歳は30代後半から40代前半といったところか。やり手の経営者らしく仕立てのいいスーツを着て、高級そうな靴や時計を身に着けている。

「山路さん、ご婚約おめでとうございます!」
「ありがとう。そちらはお連れさんたちかな」
「はい!友達の蘭とそのお父さん、そこの居候の子と、おじさまのお弟子さんをしている探偵の方です」
「はは、面白い組み合わせだね」

紹介された面々と山路が和やかに言葉を交わすが、ふと何かに気付いたコナンが声を上げる。

「あれ? おじさん、具合悪いの?」
「え?」
「なんか顔色悪いんじゃない?」

指摘された山路が小さく肩を揺らす。

「…いや、そんなことはないよ」

人に酔ったかな? と苦笑した山路は、園子や毛利と一言二言交わしてから婚約者たちのもとへ戻っていった。

(………)

コナンはしばらくその背中を見つめていた。


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