5-5


降谷と最後に会ってから三ヶ月ほど経ったある日、名前のスマートフォンに非通知での着信があった。名前がそれに出ると電話の向こうは無言。いわゆる無言電話だった。

名前はそれに対して、誰に聞かれたわけでもないのに三十分以上かけてたっぷりと近況報告をした。

今日の朝食は納豆ご飯だったこと、仕事で部下がちょっとしたミスをしたのでそのフォローをしたこと。仕事帰りに女友達を家に招いて、買ってきたコタツでみかんを食べたこと。

昨日は早めに目が覚めたので久しぶりに外を走ったこと。10km走っても息切れはしなかったので体力は落ちてなさそうだということ。そこまで話して、そういえば以前通勤中に橋の欄干で腹筋をする猛者を見かけたことを思い出した。あれはやばかった、と名前が言っても電話の向こうは無言だった。

一昨日の昼食が行きつけの喫茶店のカラスミパスタだったということも話した。JKに人気のイケメン店員が辞めてしまって女性客は減ったが、彼の残したレシピのおかげで料理の美味しい喫茶店として話題になり、先日はグルメ雑誌で特集まで組まれていた。そこの看板娘がいつも元気で可愛くて仕方ない、と名前は熱弁した。

3日前、4日前、5日前、と遡っては報告し、それが一ヶ月前に及んだところでプツリと通話が切れる。

それを合図に名前は布団に潜り込み、目を閉じた。無言電話がかかってきたのは、その一回だけだった。




***




タンッと小気味のいい音を立ててエンターキーを押した彼女が、メガネの奥の眉間を揉む。今日で残業も三日目だ。しかも毎日毎日終電がなくなるギリギリの時間まで。

新人である自分の処理能力なんてたかが知れている。なのに次から次へと仕事を押し付けられ、彼女はすっかり辟易していた。

「やっと終わったのか」

もっとうんざりなのが、この男の存在だ。脂ぎった顔にギラギラと欲望の色を光らせながら、上司である男がじっとり湿った視線を向けてくる。

「す、すみませんっ。もう帰りますので…」
「ふん…仕事が遅いのも考えものだな」

よく言う。仕事を押し付けてくるのはお前だろ。しかもそれをこんな時間まで一緒に残って、手伝うでもなくただじっと見つめてくる。趣味が悪い。

彼女は男の気色悪い視線を振り切って、帰路についた。



そして翌日。昼休みに彼女が席を立つと、ちょうど宅配業者がオフィスに入ってくるところだった。大きなダンボールを抱えた彼はバタバタと慌てた様子で、ちょうど近くにいた上司にぶつかってしまう。

「痛っ!なんだ貴様は!」
「ああ、すみませんすみません」

ペコペコと頭を下げた男は受付にダンボールを届け、送り状にサインをもらうとそそくさと退散した。それを見ていた彼女は、その業者の男を追いかけた。

「あっ、あの!」

男に追いついた彼女が声をかける。男はちょうど荷台を閉めたところだった。

「え?なんですか?」
「ボールペン、落とされませんでした?」
「え?」

差し出したボールペンを見た男が首を捻る。見覚えがあるような、ないような。

「うーん、僕のじゃないような気が…」
「えっ本当ですか!ごめんなさい、勘違いを……し、失礼します」

わたわた慌てた様子で踵を返した彼女が、うっかり足首を捻ってその場にくず折れる。

「いっ……たぁ…」
「大丈夫ですか!?」

男が手を貸すと、彼女はふらつきながら立ち上がった。

「ご、ごめんなさい…。私ほんとドジで…あ、上着に砂が」

地面につけた手で彼の上着に砂をつけてしまった。彼女がパタパタとそれをはたく。

「本当にごめんなさい。お仕事頑張ってくださいね」

ペコペコと頭を下げながら、彼女はオフィスへと戻っていった。



その夜、例のごとく仕事を押し付けられた彼女がオフィスでパソコンに向かっていると、案の定今夜も上司の男が入ってきた。

「進んでいるのか」
「はっ、はい。急ぎます、すみません…」

今日も自分のデスクから、彼女が必死に仕事をこなすのを下世話な目で眺めるつもりなのだろう。と思いきや、着信を告げたスマホを片手に男は足早に廊下へと出ていった。

「もしもし……えっ、空だった?いやそんなはずは。確かに受け渡しを」

男の焦った声が廊下に反響している。

「ちゃんとデータは入れたはずです!今一度ご確認いただけませんか」

懇願するような声で話しながら、男がペコペコと頭を下げる影が見える。

「そ、そんな…!お願いです!もう一度チャンスを!!」

もはやオフィスに残った女のことなど頭から消えているのだろう。男が今にも泣きそうな声で叫んでいるのが彼女にもよくわかった。やがて「そんな……」と力なく呟いた男がその場にへたり込む。

「あの、どうされたんですか?」

廊下に顔を出した彼女が、憔悴しきった様子の上司に声をかける。

「あ……」

ゆっくり上げられた顔は血の気が失せ、いつものギラついた容貌は見る影もない。

「何かなくしてしまったんですか?大切なもの」

たとえば宅配業者に持たせたはずの、裏献金帳簿とか。

「……え?」

かけられた言葉が飲み込めずにいる男に、彼女はニッコリと笑ってみせた。



『苗字さん!こちらは無事制圧しました!』
「こっちも終わったよ。空のメモリはちゃんと回収しといてね、発信器付きだから」
『了解しました!』
「私は出るから、後でこっちの回収もお願いできる?」

電話越しに力強く了承する部下の声を聞いて、名前は通話を切る。彼女の背後では、両手両足を結束バンドで拘束され、口元をガムテープで覆われた男が力なく転がっている。

(受け渡し現場を押さえるのに今日で三徹目……つらっ)

国内で悪事を働く犯罪組織は、何も黒の組織だけではない。彼を待つだけとは言ってもやることは山積みだ。


降谷と最後に会ってから、すでに半年が経過していた。


prevnext

back