5-6


深夜二時。
ある捜査の指揮を執っていた名前は、ようやく自宅マンションへと帰宅した。

無人のエントランスを抜け、エレベーターで目的の階へ向かう。自室に着いてカードキーを通し、内開きのドアを開けたところで、それがガンッと何かにぶつかって止まった。

「……」

それに既視感を覚えた名前が、ドアの隙間からなんとか体を滑り込ませる。案の定、玄関から廊下にかけて大柄な男が倒れ込んでいた。

パンプスの先でチョンチョンとつつくが、反応はない。空いているスペースにパンプスを脱いで部屋に入った名前は、とりあえず男は放ってシャワーを浴びることにした。

短めのシャワーを終えて出てきても、男に動きはない。完全に見覚えのある光景だ。

「おーい…」

今度は肩の辺りをつついてみる。反応はない。

くたびれた金髪を摘まんで持ち上げると、褐色の肌の美貌には濃い疲れが滲んでいる。

「……」

名前はとりあえずところどころチリチリになっている金髪を撫でてみた。チリチリでも相変わらず柔らかかった。

以前と違う点といえば、全身のあちこちに浅い傷があることだろうか。それに前回はスーツ姿だったが、今回は黒を基調とした服装だ。その服も何か所か焦げて穴が開いている。

彼がここにいるということは、終わったのだろうか。スマートフォンを確認しても、赤井やコナンからの報告はない。

「…う……」

もぞもぞと体を動かしながら、彼が唸る。

「名前さん……?」

うっすら目を開けた彼と、視線が絡んだ。

「おかえりなさい…」

ぼそぼそと話しながら顔の位置を変えて、再びフローリングにぺたりと頬をつける。冷たくて気持ちいいのだろうか。

「ただいま…って違う違う。降谷くん?」

とりあえず起きて、と体を揺さぶると、彼は緩慢な動きで体を起こして座り込んだ。緩めの体育座りに上体をだらりと垂れさせた姿は、放っておいたらまた寝てしまいそうである。

「だいぶ汚れてるし…シャワー浴びれそう?怪我の消毒もしたいんだけど」
「……そんなことより、名前さん…」

顔を上げないまま降谷が話し出す。

「ん?」
「赤井がいたんですけど、どういうことですか」

どこか不貞腐れたような声色だった。

「…あそこで、赤井が出てくるなんて…。あいつに助けられるなんてクッソ…今思い出しても腹が立つ…屈辱的すぎる……。あの澄ました顔撃ち抜いてやりたい……」

独り言のようにブツブツ続ける降谷の頭を撫でると、彼の言葉が止まった。

「……生きて帰ってきてくれたから、あとはどれだけ怒られてもいいよ」

その言葉に、彼はゆっくりと顔を上げる。

「おかえり、降谷くん」

微笑む名前をまるで眩しいものでも見るかのように見つめた後、彼も口元に小さく笑みを浮かべた。

「………ただいま」




***




彼は理事に報告する前に名前のもとを訪れたようで、翌朝になると世界的な犯罪組織の壊滅に霞が関が揺れるほどの衝撃が走った。

もちろん組織の壊滅はテレビはおろか、新聞やネットニュースでも報道されることはない。

それでも巨大組織壊滅の後処理となれば、警視庁のみならず警察庁まで総動員されるほどの大騒ぎだ。まずは小さな拠点も余すところなく制圧し、全ての残党を確保しなければならない。それから組織が所有する不動産も差し押さえ、武器の密輸ルートも残さず潰す必要がある。

そして名前もまた、その後処理に駆り出された一人だ。

帰ってきた日こそゆっくり朝まで過ごせた二人だが、それから一か月近くは顔を合わせることもできなかった。

二人がようやく落ち着いて会うことができた時には、それからさらに一か月以上が経過していた。



「本当にお疲れ様」
「苗字さんも」

酒の入ったグラスで乾杯すると、久しぶりのアルコールを舌先で堪能する。

「あー……生き返る」

珍しく疲れたサラリーマンのような声を上げた降谷を、名前は可笑しそうに見つめていた。

二人がいるのはプールバー「ブルーパロット」。ビリヤード台が備え付けられたオーセンティックなバーだ。

ここは警察関係者の客も多く、外食に気を遣わなければならない公安捜査官が気兼ねなく訪れられる店でもある。スーツ姿で並んだ二人がこうして酒を楽しめるのも、彼の潜入捜査が終わったからこそだ。

「そういえば、久しぶりにコナンくんに会いました」

彼を協力者として獲得したんですね、と降谷が名前を見る。

「うん。元々そのつもりで彼に近づいたわけだし」
「なるほど。気持ちはわかります」

サミット会場爆破事件を思い出したのか、降谷が「彼は恐ろしい男ですからね」と笑った。

「それで、色々話を聞いたんですが」
「ん?」

言葉を切った降谷が、意味深な笑みを浮かべている。赤井とコナンの件はすでにバレたし、他に何かあっただろうか?彼女が内心首を傾げていると、降谷の笑みがどこか意地の悪いものに変わる。

「“降谷零が生きて帰ってくることが唯一の願い”って……すごい殺し文句ですよね」
「ぐっ」

危うく酒を噴き出しかけて手で口を押さえる。あのガキ言いやがった。

「それは、まあ……」
「嬉しかったです」

言葉を濁した名前だったが、降谷があまりに嬉しそうに笑うので言い訳は諦めた。あの時は本当にそう思っていたとはいえ、今思うと恥ずかしい。

「そういえば苗字さん。偽苗字名前はどうするんですか?」
「え?」

話題が変わり、名前は首を傾げる。曖昧な言い方はここが外だからだろうか。

「もう結構経ちますよね」

言われて、「確かに」と返す。大学一年生の設定から使い続けてもう五年目に突入した偽苗字名前のカバー。今年就職した設定なので登場回数は激減したが、潜入用でもないカバーで五年は長い。

「気に入ってたけど、そろそろ潮時かな」

そう返すと、降谷はどこか嬉しそうだ。

「どうしたの?」
「ああいや、これで外でも下の名前で呼べるなって」

なるほど、と名前は納得した。自分を下の名前で呼ぶ人なんていないし、よく使うカバーだからと気にせず同名にしていたが、今降谷だけは彼女を下の名前で呼んでいる。確かに紛らわしい。

「そうだ。僕の“願い”も一つ、聞いてもらえませんか」

願いの件はもう引っ張らないでほしい…。そう思いながらも名前は「どうぞ」と先を促す。

「僕は」と彼は前置きをする。その目がどこか真剣な色を帯びた気がして、名前はそのグレイッシュブルーの瞳から目を離せなくなった。

「苗字でも偽苗字でもなく、あなたを降谷名前にしたいです」

パチリ、名前が目を瞬く。一拍置いて彼は続けた。

「僕と結婚してくれませんか、名前さん」

彼女の時が止まり、店内に流れるBGMの音すら遠ざかる。早速下の名前で呼ぶ彼に、気が早すぎるだろうと思いながらも言葉が出ない。

固まったままでいる彼女の返事を、降谷は優しく微笑んで待っていた。


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