5-7
人知れず巨大な犯罪組織が壊滅してから、とりわけこの米花町ではいくつもの変化が起こっていた。
まず、江戸川コナンと灰原哀という二人の小学生が姿を消した。コナンは両親のもとへ戻り、哀は遠方の親戚に引き取られたのだという。
死亡したとされていたFBI捜査官 赤井秀一は生存が確認され、FBIに復帰した。彼は他の捜査官とともに本国へ帰国し、それと同時に工藤邸に居候していた沖矢昴という男もひっそりと姿を消した。
その一方で、新聞やテレビではまた目立ちたがりの高校生探偵の活躍を目にするようになった。名前の知るとある製薬会社では、優秀な女性研究員が新薬開発に勤しんでいるらしいとも聞いている。
本来の姿を取り戻した米花町を、名前は素顔のまま、のんびりとした足取りで歩いていた。
今のこの町で彼女を知る人は一人だけだ。そしてその一人も、今は事件の捜査に首を突っ込んでいて米花町にはいないはず。
途中通りかかった公園では、子供たちが笑い合う声が聞こえる。
「あっ、見て―!あの雲の形、イルカみたい!」
「本当ですね!」
「写真撮ってコナンと灰原に送ってやろーぜー」
空に向けてスマートフォンを構える少年探偵団は、人数が減っても相変わらずのようだ。
ポアロの前を通る時にチラッと覗いた店内では、看板娘の梓が笑顔で客に応対していた。半端な時間にもかかわらず客もたくさん入っているようだった。
上階の毛利探偵事務所は窓が一つ空いていて、そこから風に乗って男性のイビキが聞こえてくる。
しばらく歩いたところで、名前の向かう先に白いRX-7が停まっているのが見える。彼女は迷わず助手席に乗り込んだ。
「楽しかったですか?散歩」
車を発進させながら、運転席の降谷が聞いてくる。
「ふふ、うん。楽しかった」
見てきた光景を一つずつ話す名前に、降谷も穏やかな表情で相槌を打つ。
「予約の時間、間に合いそう?」
「多分ピッタリです」
二人が向かったのは錦座のジュエリーショップだ。中に入ると店先のディスプレイを見ることなく奥の個室に案内され、やってきた壮年のスタッフがトレーに乗せたそれを並べていく。
「シンプルなのがいいね」
「そうですね。プラチナは柔らかいので純度は少し下げましょう」
「多分よく外すし、チェーンも一緒にもらおうか」
二人の視線の先にあるのは指輪だ。短期間しか身に着けない婚約指輪は非合理的だと断った名前だったが、結婚指輪はセオリー通り二人で選ぶことにした。
「指輪の内側に刻印もできますが、いかがなさいますか」
名前や日付、メッセージなど、いくつかのパターンをスタッフが示す。二人は一瞬顔を見合わせてから、どちらからともなく答えた。
「―――数字のゼロで」
***
「あー、緊張する……」
名前は丸椅子に座りながら、いつになく緊張した面持ちでそう呟いた。
「とってもお綺麗ですよ」
答えたのは、この日のために降谷が手配した女性だ。名前が着た真っ白なウエディングドレスを整えてくれている。
メイクとヘアセットは自分でできる名前だが、ボリュームのあるウエディングドレスは補助がなければ着られない。名前を立ち上がらせて、女性はドレスのトレーンを整えた。
(死ぬまでにウエディングドレスが着られるなんて、思ってもみなかったな)
仕事柄結婚式なんてできないと思っていた名前だったが、降谷はさっさとフォトウエディングの手配を済ませていた。写真?撮るの?と呆気に取られる彼女に、彼は「後ろ姿だけでも残しましょう」と提案したのだ。
変装であらゆる衣装を着てきた名前にも、こればっかりは初めてだ。先程から緊張のため息が止まらなかった。
「さあ、行きましょう」
女性に手を引かれて向かう先は教会だ。教会自体は小さいがステンドグラスに凝っていて、何より周囲に建物がないことから即決した。
控室を出て教会の入口に回り、女性ともう一人、カメラマンとして手配した男性が重い扉を開けてくれる。
(………あ)
降谷はすでに、バージンロードの先で待っていた。
こちらに背を向けている彼の金髪が、ステンドグラスから差し込む光でキラキラと煌めいている。なんだかとても神聖な光景を目にした気がして、名前は柄にもなく泣きそうになった。
一人でバージンロードを進むと、降谷がゆっくりとこちらを振り向く。純白のタキシードは、白が似合う彼のために仕立てられたかのようだった。
「……名前さん」
精悍な彼の顔が、名前の姿を見てふっと緩む。名前はこの瞬間を見るのが何より好きだった。
「とっても綺麗です」
「降谷くんも、すごく格好いい」
向かい合って名前の両手を取った降谷は、「呼び方」と言って小さく笑う。
「あ……、零くん」
「はい」
名前を呼ばれた彼は柔らかく眦を下げ、溶けそうなほど甘い笑みを浮かべた。それを見た名前も頬がだらしなく緩むのを感じる。
職場への届け出も婚姻届の提出も済ませた今は、もう正真正銘の降谷名前だ。職場での旧姓使用は彼がいい顔をしなかったので、「奥さんの方の降谷さん」なんて呼ばれ方をすることもある。
「名前さん。僕たちはこれからも、お互いを一番には優先できない」
「うん」
彼の言葉に、名前は迷いなく頷く。
「それでも僕は、二人並んで歩いていけることを嬉しく思います」
「……そうだね」
二人が守るべきは国で、そしてそこに生きる人々だ。二人で同じ正義を全うできることを、名前は誇りにすら思っていた。
「私が零くんを幸せにするから、私のことはよろしくね」
名前が言うと、降谷は一瞬きょとんとした後に破顔する。
「……やっぱり、あなたには敵わないな」
唇を重ねながら、二人はお互いの幸せを誓い合った。
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