番外編(本編5-7前の一幕)
「予備ももらってたけど、結局一枚で大丈夫だったね」
「書き損じなんてヘマはしませんから」
ドヤ顔で言う降谷を「はいはい」と流し、手元に視線を落とす。
夫になる人、降谷零。妻になる人、苗字名前。婚姻届だ。
「証人欄、降谷くんはどうするの?」
「僕は風見に頼もうかと」
「それは……喜ばれそうだね」
「そうでしょうか」
そんな大役、尊敬する上司に任されて彼が喜ばないはずがない。意外と表情豊かな彼が涙ぐむ様子まで容易に想像できる。
「名前さんは?」
「私はキュラソーだなぁ」
「でしょうね」
降谷がふっと緩く笑う。彼にはお見通しらしい。
(え、私キュラソー好きすぎかな?)
***
ある夜。ブルーパロットで隣り合って飲んでいた風見に、降谷は切り出した。
「一つ、個人的な頼みがあるんだが」
「なんでしょうか」
降谷がスーツの内ポケットから取り出したのはよくある茶封筒だ。風見が受け取って中を検めると、折りたたまれた何かの用紙が入っている。
「それの証人欄に記入を頼めるか」
「拝見します」
封筒から出した用紙を広げると、茶色で印字された文字が風見の目に飛び込んできた。
「こ、婚姻届」
「ああ。君に頼みたい」
珍しく柔らかい笑顔を浮かべる上司に、風見は用紙を持っていない方の手でウッと口元を押さえた。すでにその目は涙ぐんでいる。
「ふ、降谷さん…!本当に自分でいいんでしょうか!?」
尊敬する上司に当てにされている。それだけでも恐れ多いことなのに、婚姻届の証人とは。あまりの大役に思わず確認する風見に、降谷は言い聞かせるように笑みを深めた。
「君がいいんだ」
風見の涙腺は決壊した。
***
「日本名、何度書いても馴染まないわね」
風見が記入してくれた婚姻届は、続いてキュラソーの元に渡っていた。
証人欄への記入を頼まれた彼女は、特に動じた様子もなく「光栄ね」と微笑んでくれたのだ。
彼女はすでに新しい戸籍を取得しており、名前と一緒に考えた名前もある。しかしそれを使う機会は公的な手続き以外にはあまりなく、本人もまだ馴染みがないようだ。
「確かに。キュラソーはキュラソーだね」
つけた名前で呼ばない名前が笑う。名前どころか、降谷や風見、それに彼女に指導を受けている捜査官たちも彼女をキュラソーと呼んでいた。
「ふふ、印鑑を捺すキュラソー…なんかいいな」
「…これも慣れないわ」
署名の横に印鑑を捺しながら、キュラソーが苦笑する。
「これで完成ね」
「うん。ありがとね、キュラソー」
「どういたしまして。…なんだか感慨深いわね」
完成した婚姻届を見て、二人は顔を見合わせて笑い合った。
***
「風見、ついでにこれを出してきてくれるか」
助手席から降りようとしていた風見に、降谷が茶封筒を差し出す。よくある長形封筒だが、風見は数日前に手にした封筒を思い出していた。
「えっ?ま、まさか」
「ああ、婚姻届だ」
「!?」
「僕は安室透の知り合いに会ったらまずいし」
「で、では奥さんに」
「彼女は合理主義者でね、君が別件でそちらに行くと言ったら頼んでおけとさ」
「!?」
大役に次ぐ大役を任された風見は、フラフラと頼りない足取りで車を降り、区役所の方向へと歩いていく。
それをサイドミラーで確認した降谷は、スマートフォンを取り出して名前に報告の電話をかけた。
「無事、風見に託しました」
『よかった。今度二人にはちゃんとお礼しなきゃね』
風見くんなら降谷くんの手料理が一番喜ぶかな、と彼女が笑う。
「そうですね。……ああ、名前さん」
『ん?』
「そろそろ僕の呼び方も、変えてもらわなきゃですね」
『呼び方?』
「あなたも降谷になるんですから」
『……あ、うん。そうだね…零くん』
言われて思い至ったのか、彼女の声が少し小さくなる。きっと照れているだろう彼女の表情が、降谷には簡単に想像できた。
ああ、今日はできるだけ早く帰ろう。それから彼女の好きな料理をたくさん作って、テーブルをいっぱいにして帰りを待とう。夫婦になって最初の食事だ。腕によりをかけて作らなくては。
妻になる人の喜ぶ姿を思い描きながら、降谷は愛車を走らせた。
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