13
深夜、荷物を取りに来たマンションを後にしようと電気を消してから、降谷は暗くなった部屋を振り返った。
室内は静寂に包まれ、家電のランプがちらほらと小さな光を灯すのみだ。
少し考えて、リビングを通り抜けて寝室へと向かう。そこは相変わらずカーテンが開けっ放しで、三日月の頼りない光が窓際を中心に淡く照らしていた。
寝室に備えたキャビネットから取り出したのは、黄金色に輝く一枚の鱗だ。
ほんのわずかな光源ですら眩く輝かんとするそれを手に、降谷は使う者のいないベッドに荒々しく腰を下ろす。
見つめるそれはかつてナマエが生活費にと渡してくれたたった一つの物だ。
普段はつるりとして柔らかな鱗も、表皮から離れれば乾燥して硬くなる。
加工しやすそうなサイズ感に硬く丈夫な質感、見た目の美しさもあって闇業者に狙われるのも頷ける―――と取り留めのないことを考えてから、降谷はため息とともに項垂れた。
結局こんな鱗より、よっぽど大きなものを彼女に支払わせる羽目になってしまった。
しかしそのおかげで組織でのバーボンの立場が揺るぎないものとなり、与えられる情報や入れる場所が増えたのもまた事実だ。
組織の摘発まで、すでに秒読み段階に入っている。あと一歩。あと一歩で何もかも終わる。
なのになぜこんなにも気が重いのだろう。良心の呵責?それこそ今更だ。これまでこの任務のために、どれだけのものを犠牲にしてきたと思ってる。
(理事に報告する前だったのも、結局は結果オーライだったじゃないか)
おかげで彼女という存在を最大限に有効活用できた。彼女がこの部屋の風呂場に現れたのも、それをずっと養ってきたのも、きっとこの時のためだった。
人魚ということを除けば彼女があまりに「普通の人」だから、関わるうちに情が移ってしまったんだろう。だからこの感情はきっと単なる罪悪感だ。
「……違う」
思考を巡らせれば巡らせるほど心の表面を上滑りしていくような空虚感があって、降谷は知らず知らずのうちに否定の言葉を吐いていた。
「違う。そうじゃないだろ」
はっきりと口にすれば、それがすとんと心に落ちてくる。
そうだ、この痛みも重苦しさも、ただの罪悪感じゃない。辛いんだ。自らをあっさり差し出す彼女の潔さも、その提案を受け入れた「正しい」自分も。
ゼロとして正しいことをした自分をこんなにも忌々しく思うのなら、それは多分ゼロではなくただの降谷零としての感情だ。
(……そろそろ認めるか)
薄闇に輝く鱗を見つめながら、降谷は緩やかに口角を上げた。
淡い色の髪に蜂蜜色の瞳。屈託のない笑顔を思い浮かべるだけで胸がこんなにも温かくなるのだから、きっとそういうことなんだろう。
相手は人間じゃない。住んでいる世界だって文字通り違う。いつあちらに戻ってしまうとも限らない。
それでも、いつしか手放したくないと思うようになっていた。
「こんなところで情けなく項垂れてる場合じゃないな」
彼女の頑張りを無駄にするわけにはいかないし、何よりこれ以上あの体にメスが入るのは自分が耐えられない。
時間がないわりにやることは山積みなのだから、動きを止めるのもこれが最後だ。
立ち上がり、月光を背にした降谷がキャビネットに鱗をしまう。
足早にマンションを後にしながら、彼が振り向くことは一度としてなかった。
***
「こら、ナマエ。またそんな格好を」
長いローブを脱いだナマエは、水着とショートパンツしか身に着けてはいない。
それを見咎めたレイリーの小言にも彼女が動じる様子はなく、カウンターチェアに腰掛けながら正面のシャッキーに注文を告げた。
「相変わらずの過保護ですね、レイリーは」
「昔馴染みを心配して何が悪いのかね」
「お互いもうそんな歳でもないでしょう」
二つ隣の椅子に座るレイリーにそう笑いかければ、彼は「全く…」と呆れたようにぼやいて手元の酒を呷る。
レイリーとナマエは同年代だが、金髪が白髪に変わってすっかり落ち着いたレイリーとは見た目年齢が大幅に異なる。ナマエも少しは大人びたはずだが、若々しい見た目のせいか彼はいつまで経っても過保護だった。
「あ、こないだシャンクスに会いましたよ」
「おお、それはよかったな。元気だったか」
「相変わらずです。すぐ宴を開いてくれて」
「ハハ、目に浮かぶようだ」
「ふふっ、最後は真っ先に潰れてました」
大いに盛り上がった宴を思い起こすと、頬がだらしなく緩むのがわかる。
一人旅が寂しくないのは、こうやって昔の仲間に会えるからだ。
「やっぱりナマエの笑顔って素敵だわ」
目の前にゴトリと置かれたジョッキとともに、シャッキーの落ち着いた声色がそう告げる。
目を瞬かせたナマエの視線の先で、彼女は口角を上げて艶やかに微笑んだ。
「いつ見てもキラキラしてるもの。色んな海賊を見てきたけど、いつまでも変わらずいられるのって本当にすごいことよ」
「えへへ、嬉しいです」
「辛い境遇を微塵も感じさせないものね」
「それは私のモットーですから!笑顔で」
「丁寧に、でしょう?」
「…ふふっ、言われちゃいました」
何度も繰り返してきたセリフを奪われ、蜂蜜色の瞳が気恥ずかしそうに細められる。
照れをごまかすように酒を口に運ぶ傍らで、レイリーが「懐かしい言葉だ」としみじみ呟いた。
「ナマエのそれはもう何度聞いたかわからんな。確か誰に言われたかも覚えていないんだったか」
「そりゃ、もう何十年も昔の話ですから」
笑顔で、丁寧に。
それがナマエの生きる指針となったのはもう40年も前のことだ。覚えていないのも当然だろう。
「言ったのって男じゃないかしら?女は共感する生き物だもの。すぐ具体的な方法を示そうとするのって男に多いわ」
「へえ〜。シャッキーってやっぱり物知り」
「あら、ナマエが男女についてだけ知らなすぎなのよ」
ふふ、と笑うシャッキーに、ナマエは居心地悪そうに肩を竦めた。
「んん…だって旅には必要ないし。いつか必要になったらまた考えます」
「いくら長命って言ったって、人の倍程度でしょう?気長すぎなのも問題ね。これからずっと一人じゃつまらないわよ」
「んんん」
畳み掛けられて思わず唸る。
そうは言っても、世界貴族や政府機関から逃げ続ける生活では誰かと一緒に過ごすなんて考えられない。こうして昔馴染みとたまの交流を図るだけで充分幸せなのに、と力なく眉尻を下げた。
「命は有限。後悔のないように。私、家族のような関係を大事にするあまり、結局気持ちを伝えられずじまいの男を知ってるもの」
「ぐふっ…おいおい……」
レイリーが咳き込むのを聞きながら、ナマエは「なるほど」と深く頷く。
「後悔のないように、かあ。確かにそうですね」
それは男女関係に限らずそうだろう。
特に自分は長命だからと、つい一つ一つのことがおろそかになりがちだ。ナマエはシャッキーの言葉を肝に銘じるべく拳を握り締めてから、「大丈夫ですか?」とレイリーの背に手を伸ばした。
***
緩慢な動きで瞼を持ち上げれば、人工的な照明を受けてゆらゆらと煌めく水面が視界に入った。
眠っていたわけではない。いくら水槽が広いとはいえ、やることがなさすぎて暇なのだ。
暇潰しに回想にふけっていたナマエは、のんびりと水中を漂いながら外を観察した。
分厚いガラス越しに、なにやら精密そうな機械に向かう研究員や、バインダー片手にマウスの様子を窺う背中が見える。マウスに与えているのはナマエの唾液から培養したものらしい。毎日決まった時間に与えては様子を観察し、書類に書き入れる姿をよく目にした。
暇を持て余したナマエがスピーカーから聞こえる雑然とした音声を何とはなしに聞いていると、誰かを迎え入れるような声が聞こえて慌てて身を翻す。
バーボンだろうかとガラスに張り付けば、黒ずくめの男が二人、研究員に伴われて入室してきた。
一人は研究員のもとへ、一人はナマエのいる水槽へと近づいてくる。
(なんだ、またジンか)
ガッカリした気持ちがそのまま顔に出そうになるが、レイリーたちとの会話を思い出してグッと堪える。
自分らしくニッコリ笑って迎え入れれば、ジンは意外そうに片眉を上げた後で薄く笑った。
『お似合いの檻を用意してやったのに、もう戻ってきちまったのか。まあこの透明なガラスも、俺には冷たい鉄の檻に見えるがな』
スピーカーから聞こえる声には嘲るような響きがある。ナマエは返事一つ返さず、笑顔のままその鋭い顔貌を見つめた。
『バーボンの野郎、よほどお前にご執心と見えるぜ。あるいは二度と大海に戻れねぇ哀れな魚に地獄と悟らせないためのご機嫌取りか……』
回りくどい物言いにもナマエの笑顔が崩れることはない。
その時背後から『兄貴』と声が掛かり、ジンは足先をそちらに向けた。呼んだのは研究員と何かを話していたサングラスの男だ。
ジンは最後とばかりにナマエを鋭く見据えると、片側の口角だけをクッと持ち上げた。
『あんな胡散臭い男に捕まっちまったのが運の尽きだ。諦めて組織に尽くすんだな』
それだけ言って遠ざかる背中を、ナマエは歯を剥くこともなく見つめ続ける。
その顔に浮かぶのは穏やかな笑顔だ。そもそもここに飛び込んできたのは自分の意思だし、バーボンを待つことになんの不安もない。
ガラスから手を離し、尾びれを大きく振って水を掻く。人工的な海水に体躯を漂わせながら、ナマエはまた温かな回想に身を委ねた。
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