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艶やかなプラチナブロンドを持つ女幹部はベルモットというらしい。
冷たく妖艶な雰囲気を纏った女だが、ジンのような鋭さはない。彼女は研究員たちとしばらく言葉を交わした後、カツカツとヒールを鳴らしながらナマエのいる水槽へと近づいてきた。

ベルモットは冬の海を閉じ込めたような瞳でナマエを見つめ、深い赤の乗った唇で小さく呟く。
それは英語だったが、英語と日本語が混在した世界から来たナマエには問題なく聞き取れた。

―――人になれなかった人魚姫……貴女は海の泡となって消えることすら許されない。

哀れね、と呟く声には確かな憐憫が表れていた。

(この人、他の幹部とは少し違う)

おとぎ話にしか存在しなかった人魚を見て好奇心を露わにする者、期待を寄せる者、その反応はそれぞれだったが、彼女のように同情を向けてくる者はいなかった。
一方でわずかに眉根を寄せたベルモットの表情には苦しみが滲んでいる気さえする。それはよく見なければわからない程だが、長く生きてきたナマエの目にはそう見えた。

彼女にもきっと、何か抱えているものがあるのだろう。
分厚いガラスを隔てながら、二人の間には確かに互いを憐れむ空気が漂っていた。

『綺麗だわ』

黄金色の尾びれを褒めたベルモットに、つい「あなたも」と返しそうになったのは内緒である。




***




ベルモットとの邂逅から一夜明け、再び研究所を訪問する者がいた。
食事を与えられてすぐの時間は、ナマエにとっては睡魔と懸命に戦っている時間でもある。その日のナマエも例にもれずウトウトしながら、仰向けでゆらゆらと水中を漂っていた。

スピーカーから聞こえる雑多な音声に柔らかなテノールが混じり、ナマエはバチッと目を見開く。
即座に身を翻してガラスに張り付けば、現れたのは案の定バーボンだ。彼は柔和な笑みを浮かべながら研究員に挨拶をし、ナマエに向かって小さく手を振った。

「バーボン!」

水中でぶんぶんと手を振る笑顔のナマエは、さぞ滑稽に映ったことだろう。
バーボンはくすっと笑みを零すと、研究員に一言二言告げて巨大水槽へと歩み寄った。

『ナマエ、調子はどうですか』
「バーボンに会えたので絶好調です」

間髪入れず返したナマエに、バーボンは一瞬面食らったように目を見開いてから、ふっと蕾がほころぶような微笑みを浮かべてみせた。

『それはよかった。僕も会いたかったです』

そう言ってバーボンが水槽に手のひらをつけたのを見て、ナマエもそれにつられるように手を重ねた。
そしてあることに気付き、さりげなくそこから視線を外す。

「ちゃんとご飯食べてます?」
『誰に言ってるんですか』
「だってバーボン、忙しいと適当に済ませそうだから」
『信用がないですね。これでも料理はわりと得意な方なんですが』
「そうなんですか?」
『ええ、まあ』

マンションに来ても滞在時間は短いし、食べるとしてもナマエの作り置きしたおかずばかりだしで、彼の手料理を食べる機会はなかった。
いつか食べてみたいと考えながら「へえ」と相槌を打って、ナマエは視界の端でそれを確認する。
白い手袋をしたまま水槽に触れるバーボンの手は、ほんの少しだけ小指が浮いていた。

(指、4本)

『ここで出る料理もそれなりに美味しいでしょう。リクエストがあれば伝えておきますよ』
「じゃあグラタンでお願いします」
『了解です』

ナマエの話す声は水槽の外に設置されたスピーカーを通して研究員たちにも聞こえている。
明かな茶番とわかりながらもしばらく会話を楽しんで、ナマエは研究所を出ていくバーボンを見送った。

(あと少し)

水槽に触れられた4本の指―――
なるほど、水面下ではすでに始まっているらしい。組織摘発へのカウントダウンが。




***




その翌々日、バーボンは再び研究所を訪れた。
よく見れば疲れた顔をしてはいるが、水槽に触れる指は人差し指と中指の二本のみ。他はわからない程度に離されている。
どうやら準備は順調のようだ。

『おや、顔色がいいですね。昨日多めに採血したと聞いたんですが』
「心配いらないです。すぐ元通りですから」
『そういえばそうでした』

反対の手を口元に当ててクスクスと笑い、バーボンは楽しげに目を細める。

『食事のリクエスト、また何かありますか?』
「じゃあ今日はカレーで、明日は……」

ナマエは思わず言葉を止めた。明日は彼らが組織に踏み込む日だから、食事がどうのなんて言っている場合ではないだろう。
しかしここで黙り込むのも不自然だ。ナマエはウンウン唸って悩むフリをしてから、「明日はオムライスがいいです」とそれらしく告げた。
微笑みながら了承したバーボンに違和感はない。彼とて内心は穏やかでないはずだが、さすがのポーカーフェイスである。

『明日、また来ますね』

この場所でその言葉の裏を知っているのは、ナマエただ一人だ。




***




翌日。
この日は朝から研究所内が慌ただしかった。先日切除した尾びれの肉片から培養したものを食餌に混ぜ、マウスに与えるらしい。
白衣の研究員が何人もその周囲に張り付き、固唾をのんで見守っているのをナマエ本人は水槽から眺めていた。
体液や血液によって疲労回復や怪我の治癒が行えることは証明済みだし、その分期待が高まっているのだろう。

ナマエもなんとなくソワソワした気持ちで水槽を漂っていると、何の前触れもなく突然バツンと照明が落ちる。
辺りが暗闇に包まれると同時に全ての機材がダウンしたらしく、あちこちから悲痛そうな悲鳴が上がった。

始まった、とナマエは思った。
しかしすぐさま非常用電源に切り替わり、暗転していた室内が明るさを取り戻す。機材も再び動き出したようだ。
研究員たちから安堵の声が聞こえるとともに、なんのための停電だったのかとナマエは首を傾げた。

続けてジジ、とノイズ音を発したのは水槽の内外に取り付けられたスピーカーではない。

『ナマエさん、お待たせしました』

天井に備え付けられた館内放送用のスピーカーから、研究所内に響き渡るような音量で聞こえてきたのは風見の声だ。

『入口のセキュリティは無効化しましたので、出ていただいて構いません。 "方法は任せる"とのことです』

後半が誰からの伝言かなんて、考えるまでもない。
途端に研究員たちが何事かとざわめき始めるが、ナマエはそれを気にも留めずにんまりと口角を上げた。

ぺた、と両手を水槽につければ、巨大な水槽の上から下まで一気にビシリと亀裂が入った。
水圧に負けたガラスがそこから水を噴き出させるのを、白衣の男たちが怯えの滲む表情で見つめている。
大きな亀裂は小さく細かい亀裂を呼び、ピシピシと繋がりあって噴き出す水量を増していく。そしてそれがついに弾けるように崩れると、水槽からは大量の水が流れ出した。

ヒィッと悲鳴を上げる男たちの足元を人工的な海水が通り抜けていく。
広い研究室に流れ出した水は最終的に人のくるぶし程度の高さになり、ナマエは尾びれのほとんどが空気に触れた状態でぺたりと床に座り込んだ。

「あの……水さえなければ、と思われたかもしれませんけど」

辺りを見回しながら口を開けば、目が合った男たちが皆一様に息を呑む。

「全く水のない建物ってそうそうないので」

ピシ、とまた亀裂の走る音が聞こえ、続けざまに勢いよく弾け飛んだ壁から水が噴き出した。壁の中を走る給水管を破裂させたのだ。
つい、とナマエが指揮をするように指先を動かせば、指向性を持った水が弾丸のように機材にぶち当たる。
速さを伴った細い水流が室内のケージを片っ端から貫き、空いた穴からマウスやラットがわらわらと逃げ出した。

それを絶望した表情で見つめる男たちに視線を走らせたナマエは、首を傾げながら「うーん」と唸る。

「皆さん、武闘派には見えませんしねぇ」

平和的にいきますか。
一つ頷いてから再び口を開けば、そこから発せられたのは伸びやかな歌声だ。
ゆったりとした穏やかな旋律が、その場にいる人間を深い眠りへと導いていく。

ぱちゃん、と最後の一人が横たわったところで、尾びれを人の足へと変える。
ウロウロと研究室を歩き回りながら誰も溺れていないのを確認し、適当に白衣を剥いで身に纏った。
研究所のドアを開ければ留まっていた水がザァッと通路へ流れ出す。これで眠る男たちが人知れず溺死する心配もないだろう。

「わっ」

気配を感じて咄嗟にしゃがみこめば、頭があった位置を黒いものが掠めていった。続いてそれが振り下ろされるのを感じて横っ飛びに転がる。即座に起き上がって距離を取れば、黒いスーツに身を包んだ男が忌々しげに舌を打った。
男が手に持っているのは警棒だ。この研究所の警備を担当している構成員だろうか。

「…方法は任せてくれるんですよね」

ここにはいない家主に向けてぽつりと呟く。
そして武装色の覇気で両腕を硬化すれば、ナマエの白い肌が黒く染まった。それを見て驚きの声を上げた男に一瞬で肉薄すると、慌てたように突き出された警棒を黒い拳で殴りつける。
ガンッと鈍い音を立てて飛んでいくそれに見向きもせず、ナマエはグッと引いた拳を再び突き出した。
硬い拳が男の腹部にめり込み、その体がくの字に折れる。それなりに鍛えられている感触が拳に伝わるが、銃弾さえ防ぐ硬度のそれの前には成す術もない。男は濡れた床に力なく倒れ込んでピクピクと数回痙攣し、やがて動かなくなった。

よし、と頷いたナマエが通路を進んで研究所を出れば、そこに待っていたのは放送でタイミングを知らせてくれた風見だった。周囲をぐるっと見渡すが降谷の姿はない。

「ナマエさん!今までご苦労様でした」
「ふふっ、なんてことないです」

ブイッとピースサインをしながら近づけば、心配そうな表情を浮かべていた風見の視線が上から下へと一往復する。

「あ、あの、ナマエさん。つかぬことをお伺いしますが」
「はい?」
「その格好は」

ああ、と納得したようにナマエが頷く。

「はい、ノーパンです」
「ぶっ」
「裕也!?」

疲れやストレスもあったのだろう、風見の鼻からはプシッと鼻血が噴き出した。
ナマエの今の服装といえば、元々身に着けていた水着と研究員から引っぺがした白衣だけだ。先程まで尾びれだった下半身はもちろん何も履いていない。
降谷がいれば「これでよく公安が務まるな」とでも言いそうなほどの失態だが、それを知らないナマエは大慌てで風見に駆け寄った。




***




結局別の場所にいたという降谷とは合流できないまま、ナマエは久しぶりにマンションへと戻った。
ナマエを送り届けた風見も現場にとんぼ返りし、一人になった彼女はしばしその場に立ち尽くしていた。

「戻ってきた……んだよね」

一体どのくらいここを離れていたのか、その感覚も曖昧だ。
あの研究所に数ヶ月はいたような気もするし、一ヶ月程度だったような気もする。

とりあえず懐かしさに浸るのは後回しにして、ナマエは短いシャワーを終えた。
服を着て冷蔵庫を覗き込み、適当に引っ張り出した魚肉ソーセージを行儀悪く立ったまま頬張る。賞味期限は見ていないがまあ大丈夫だろう。

それから何をする気も起きずぼんやりとベランダで風に当たっていると、ガチャリと鍵の開く音がして玄関へと走った。
部屋に入ってきたのはヨレヨレのスーツを着て、どこかくたびれた雰囲気を纏った男だ。

「零!」

無事を確かめるようにその胸に飛びつくと、背中に手を回すより早くぎゅうっと抱きすくめられる。
強すぎる抱擁に一瞬息を詰めたナマエだったが、腕の中でもぞもぞと身じろぎすると労わるように背中を撫でた。

「お疲れ様です、零」
「ああ……」

全部終わった、と消え入りそうな呟きを落としてから、ゆっくり体を起こした降谷と視線が絡む。
すると疲れが色濃く浮き出た目元にギラリと獰猛な光が見えて、ナマエはぱちりと目を瞬かせた。

「れ、」

名前を呼ぶ前に、その背中が壁に押し付けられる。それから間髪入れずに唇を塞がれてナマエは目を丸くした。
強く押し付けるだけのキスはすぐに終わり、肉厚な舌に唇をこじ開けられる。降谷の疲労度合を察したナマエはそれを抵抗なく受け入れるが、まさかそれが組織摘発で気分が高揚した男の暴走であるとは思いもしない。

「ふ、んっ」

奥に引っ込んでいた舌を乱暴に絡めとられ、思わず鼻から抜けるような声が出た。
先端をくちくちとなぞった後は舌全体をねっとりと擦り合わせ、筋張った舌裏まで丹念に舐め上げられる。舌先を吸い上げられると腰の辺りにもどかしい疼きが走った。

「ん…っ、れい、」

息を弾ませながら縋るように名前を呼べば、は、と熱い吐息が唇をくすぐる。その熱から降谷の興奮が伝わってきて、わけがわからないながらもナマエは無我夢中で彼にしがみついた。
どちらのものともわからない唾液が口端からだらしなく垂れ、淫猥な水音が鼓膜を刺激する。

「ふぁ、ん……」

されるがままに蹂躙されながら、ナマエの目尻にはじわりと涙が滲んだ。

(くるしい)

息苦しいだけじゃない。どこかもっと別のところが苦しい気がする。ぎゅうっと握り潰されるように痛むのはどこだろう。
閉じていた瞼を持ち上げれば、滲む視界に灰青色が映り込んでドキリとする。この水平線近くの空のような青色に、自分は一体どんな風に映っているのか。

絡んだ視線を外せずにいれば、濡れた唇がそっと離れ、小さなリップ音とともに唇の端に口付けられる。
そのまま再び強く抱きすくめられ、遠慮なくかけられた体重に「うっ」と苦しげな声が漏れた。
青い目はもう見えない。それをほんの少しだけ残念に思うナマエの耳に、はあ、と切ないため息が届いた。

「零?」
「いや、ちょっと……」

不自然に言葉が途切れ、それを疑問に思う間もなくさらに体重がかかる。重い。
踏ん張るために慌てて足に力を入れたナマエだったが、ずるりと力なく滑り落ちる体に瞠目した。

「零!?」

咄嗟に抱きかかえようとするが体格差がありすぎる。
ついに倒れ込んでしまった降谷の瞳は瞼で覆われ、澄んだ灰青色は窺えなかった。

「零! 零、どうしたんですか!?」

表情はまるで眠りに落ちたかのように穏やかだ。しかしここまで呼びかけても反応がないというのは明らかにおかしい。
力の抜けた体を必死に揺さぶりながら、ナマエはひたすらにその名前を呼び続けた。


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