15
鼻孔をくすぐる香りに降谷の意識は浮上した。
これは最近、すっかり嗅ぎ慣れてしまった香りだ。しかしなぜ今?と降谷は薄ぼんやりとした意識の片隅で考える。
組織幹部の拘束と連行が完了して、一度ナマエの様子を見ようとマンションへ戻ったことは覚えている。
顔だけ見てすぐ本庁に向かうはずがついグラッときて―――まあそこは、うん。気が昂っていたとはいえあれは完全にやらかした。しかも二回目だ。
ただしあれだけ暴走しても彼女には何も伝わっていなそうなのが悲しいところで。
(それで、確かその後……)
キスの後、強い目眩に襲われたことを思い出す。そしてあっという間に立っていられなくなって、崩れ落ちる体をナマエが必死に支えようとしていたことも。
そして気が付いたら、降谷は倒れ込む自分を他人事のように傍らで眺めていたのだ。
目を閉じて倒れ込む自分と、それを見つめながら立ち尽くす自分。いわゆる幽体離脱というやつだろうか。
そして自身の体を必死の形相で揺さぶるナマエに声をかけようとしたところで、背中を強く引っ張られるような感覚があって―――その後のことは、正直何も覚えていない。
(僕は……ナマエは、あれからどうなったんだ)
ようやく少し感覚が戻ってきて、降谷はゆっくりと瞼を持ち上げた。
そもそもどこかフワフワとした感覚が続いていて落ち着かないし、もしかしたら自分は今夢を見ているのかも―――
「…………はっ?」
目を開けた降谷は、自身の置かれた状況に思わず言葉を失った。
見渡す限りの青、青、青――なんだこれは。
先程から感じていたのは潮の香りだし、自分が今いるのは空中だ。それもかなり高く、眼下に一つの島が丸ごと見渡せるほどの高度にいる。降谷はそれを確認して一気に肝が冷えるのを感じた。
降谷は何もない空中に、それがまるで当たり前であるかのような自然さで浮いているのだ。
おそるおそる手足を動かしてみても落ちる様子はない。とはいえ状況がわからなすぎて何一つ安心できなかった。
眼下には大海原にぽつんと浮かぶ島が一つ。
その周囲をもっと広く視認するためにさらに高度を上げるべきか、それとも唯一の手掛かりである島に降り立ってみるべきか。
逡巡した降谷だったが、島の岩場に何かが顔を出したのが見えて後者を選んだ。
(あれは……人か?)
遠目だがそれは人の頭のように見える。周囲に何もない大海をまさか泳いできたとでもいうのだろうか。
降下の仕方などわからなかったが、降りようと考えれば体がふわふわと降りていくのだから不思議だ。内臓の浮く感覚にうっかり悲鳴を上げかけた降谷だったが、腹筋にグッと力を入れてそれに耐えた。
(何か話を聞けるといいんだが)
なんともファンタジーすぎる状況だが、まずは情報収集が先決だ。
散々ナマエのことをファンタジーな存在だと評してきたのに、まさか自分までこんな摩訶不思議体験をする羽目になるとは。
岩場に降り立った降谷だったが、何故か足が地面につかない。が、細かいことを気にしてももうきりがないだろう。降谷は地面から少し浮いたまま空中を滑るようにして移動し、岩にぐったりと上体を預けた人物に近づいた。
その人物の胸から下は未だ海の中で、その表情はぐっしょりと濡れた短い髪に覆われて窺えない。ひとまず声を掛けてみようと降谷は口を開いた。
「あの」
「!」
その人物がバッと顔を上げるのと同時に、周囲の海面が不自然に渦巻く。
「え?」
渦巻いた海水がぶわりと巻き上がって襲ってくるのをスローモーションのように眺めながら、降谷はその光景に既視感を覚えていた。この感じ、まさか。
「うわっ!」
猛烈な勢いで向かってきた海水が全身にぶち当たる。それを覚悟して顔を両腕で覆った降谷だったが、痛みも苦しみもやってくることはなかった。水に濡れる感触すら全くない。
え、と顔を上げれば目の前の人物も同じように目を丸くして驚いている。
「え……すり抜けた?」
相手がぽつりと零した呟きによれば、どうやら海水は降谷の体に当たることなくすり抜けたらしい。
どういうことだと手をかざせば、空中では気付かなかったが半透明になった手のひらが視界に映る。その先の景色が透けて見えるのが信じられない。
やはりこれは夢なんだろうかと、降谷はすぐにでも現実逃避したくなった。
「なんだ、幽霊か」
一方で、相手は納得したように頷いてしまった。ちょっと待て、幽霊扱いにも物申したいがなんでそんなにあっさり受け入れてるんだ。そう反論しようと口を開いた降谷だったが、相手の顔貌をまじまじと見て驚きに目を見開いた。
「……ナマエ?」
「は?」
眉間に皺の寄った無表情と短い髪ですぐには気付けなかったが、その顔つきは確かにナマエだった。とはいえ降谷の知る彼女よりも随分と若く、10代後半くらいの少女に見える。
未だ下半身を海に浸したまま、水着姿の彼女は訝しげに顔を顰めた。
「なんで幽霊が私のこと知ってんの?」
「僕は幽霊じゃ」
「いや、人間じゃないならいいんだ。追手かと思っただけだから」
話を聞け。そう思いながらも降谷は追手という単語に反応する。
「追手って、まさか海軍か?」
「厳密には世界政府……ってそこまで知ってんの?幽霊ってすごいな」
「いや、だから僕は幽霊じゃない」
今度こそ否定すれば、ナマエは蜂蜜色の瞳をわずかに丸くして「スケスケのくせに?」と首を傾げた。
「幽霊はスケスケで浮いてるって本に書いてあったよ。アンタ透けてるし浮いてる」
「本?」
「お父様がくれた本で……」
言いながら、彼女の表情があからさまに曇る。そういえばナマエから家族の話を聞いたことはない。この表情からして、もしかしたら今は一族が滅ぼされてあまり時間が経っていないのかもしれない。
ナマエの姿と追手という単語から、これは彼女がいた世界の過去なのだろうと降谷はアタリをつけていた。
もちろん自分が見ている都合のいい夢という可能性も捨てきれないが、ファンタジー展開はもはや今更だ。まずは最悪の状況―――つまりこれが現実であるという想定のもとで動かなくては。
「…なんでもない。なんで幽霊と会話してんだろ、私」
緩く首を振ったナマエは、降谷の存在を気にしないことにしたらしい。
ザバッと岩場に乗り上げれば見慣れた黄金色の尾びれが露わになる。腰には麻袋のようなものが括り付けられてて、ナマエは岩場に座ってそこから布のようなものを取り出した。
ばさりと一振りすればそこから水分が飛んでいき、それが服であることがわかる。
「どうしたんだ?それ」
そう問いかければ、ナマエが無表情のままこちらを見る。
「海底に沈んだ難破船から拝借してきた」
「……そうか」
降谷がなんともいえない表情を浮かべていると、ふいにナマエが尾びれを人の足に変えた。
「!」
前置きくらいしろ、と言いたくなる気持ちを抑えて慌てて目線を逸らす。
しばらく続いた衣擦れの音が終わると、服を着たナマエが「よいしょ」とやけに大仰な動きで立ち上がった。片足ずつ踏みしめるように立って、それからぐらりとその体が傾くのが見える。
「危ない!」
咄嗟に降谷が支えようとするが、今は半透明で水すら触れられない身だ。差し出した手もすり抜けてしまい、ナマエは「ぎゃっ」という短い悲鳴とともに海へと逆戻りした。
***
(過去だとは思ったが、まさかこれが初上陸だったとは……)
感慨深げに頷く降谷の視線の先で、ナマエは覚束ない足取りでゆっくりと前に進んでいる。
一族を滅ぼされて海中を猛スピードで逃げてきた彼女は、なんと今日初めて陸地に上がったらしい。もちろん人の足で歩くのも初めてた。
「いっ、痛い…!」
ナマエが足先を抱えるようにして蹲る。これももう何度目だ。
「大丈夫か?」
「足で歩くのってこんなに痛いの?人間ってすごいな」
「普通は靴を履くからな」
「………忘れてた、クツ」
舗装された道ならまだしも、道らしい道のない島で素足はさすがに厳しいだろう。
しかし傷ついた足もすぐ治るからと構わず進んでいくあたりは猛者である。
「人目につきたくないんだろう。どこに行くんだ?」
「ここ無人島だし。適当にここで暮らすよ」
その言葉に降谷は目を瞬かせた。確かに上空からも緑と岩場しか見えない島だとは思ったが、まさか無人島だったとは。
「初上陸のわりには詳しいな」
「魚たちに教えてもらった」
「なるほど」
降谷は納得して頷いた。彼は以前、海でナマエを慕うように群がる魚たちを目の当たりにしている。
少し開けた場所に出ると、ナマエはきょろきょろと周りを見渡した。
それから「ここにしよう」と呟いて腰を下ろす。聞くと近くに沢の気配があり、水にも困らなそうなのでここを拠点にするらしい。
サバイバルに慣れているのかと思った降谷だったが、しかしそんなことは決してなかった。
そこからのナマエの行動といえばツッコミどころのオンパレードだ。というか実際に何度もツッコんだ。
まずは火を熾すと意気込んだ彼女だが、選んだ方法は本で読んだという「きりもみ式」だった。木の板に木の棒を立てて擦る原始的なアレである。
それでは初心者が二時間やっても三時間やっても火は熾せないと降谷が説得したが聞く耳もたず、結局五分擦ったところでギブアップした。そもそもの体力がなさすぎる。
見かねた降谷が島中を飛び回って探索し、浜辺に打ち上げられていたゴミの中から見つけたロープで「舞いぎり式」を教えて火は無事に熾せた。
ついでに木の皮とツルで足を包むよう教えれば、不格好ながらも靴のようなものを作り出した彼女が「幽霊の知識って凄い」と感動に目を輝かせていた。だから幽霊じゃないし、幽霊ならなんでもアリみたいな認識は本当に改めた方がいい。
続いては食料探しだが、島にある植物も果実も正直なところ降谷の知識にはないものばかりだった。
ナマエもその辺りはよくわからないらしく、「死ぬような猛毒でもない限りそのうち中和するし」と適当に食べ始めたのには驚愕した。案の定すぐにえずいて吐き出した彼女に、降谷が柄にもなく慌てたのは言うまでもない。ただしえずいたのは毒ではなく強烈な酸味が原因だったのだが。
無人島だから人がいないのは当然としても、だからと言って生き物が全くいないわけでない。実際に野生の獣にも幾度となく遭遇し、ナマエはその度に猛ダッシュで逃げる羽目になった。
降谷に見せた身のこなしも体術もこの頃はからっきしらしい。むしろ体力も筋力も知識もない箱入り娘といった感じで、水を操る以外は何一つできなかった。
「いったぁ!!」
木に後頭部をぶつけたナマエが頭を抱えて蹲る。今度は大きな虫に驚いて飛び退いたらしい。
大丈夫か?と降谷が心配するのももう何度目だろうか。
「アンタはいいな。なんでもすり抜けるから」
「好きでこんな状態になったわけじゃない」
幽霊じゃないと言っても信じはしないし、「アンタじゃない。降谷零だ」と名乗ったところで「やっぱ霊じゃん」と返ってくる始末だ。アホなのだろうか。
「あ、これ」
立ち止まったナマエが見上げたのは、大きな木に生った一つの果実だ。しかしこれまでに見た果実とは全くもって様相が異なる。
毒々しい紫色に、うずまきのような不思議なグルグル模様。ナマエはそれをもがずにしげしげと眺めてから、「悪魔の実だ」と感心したように呟いた。
「悪魔の実?」
「食べると超人的な能力が身につく果物で、物凄く珍しいものなんだけど。こんなところにも生ってるんだ」
へえ〜とウンウン頷く彼女は、昔図鑑を見たことがあるのだと話す。
「そんなファンタジーな食べ物が……いや、今更か。それで君は食べないのか?これ」
「食べたら能力を得る代わりに海に嫌われてカナヅチになるから」
なるほど、それは人魚であるアドバンテージを全て捨てるようなものだ。
しかし果物を食べるだけで超人化できるとは、きっとこの世界には彼女クラスの化け物がゴロゴロいるのだろう。そこで長年一人旅をしていたのだから彼女の強さにも頷ける。もちろん強いのは未来での彼女で、今はまだ野生の獣にすら泣かされているわけだが。
売ればかなりの大金になるらしい悪魔の実だが、この島から出るつもりはないから別にいらないと彼女は続けた。
「島から出ない?ずっとか?」
「悪い?」
ギロリと睨むような視線を寄越してから、ナマエはスタスタと先に進んでしまった。
結局思うように食料は見つからず、最後に彼女がやってきたのは最初に上陸した岩場だった。
海面にほど近い岩の辺りまでよろめきながら飛び移り、片手をピチャンと海に浸す。すると少しして、一尾、また一尾と魚が跳び上がってきた。
岩の上でピチピチ跳ねる魚を見つめながら目を白黒させる。
「それは……」
「ごめんね、ありがとう」
ナマエが声を掛けたのは魚たちだ。彼女は二尾の魚を両手に掴んで拠点へと戻った。
そして内臓も取らずにそのまま火の中へ突っ込もうとしたナマエを慌てて止めた降谷は、平たい石か何かを探して腹を捌くよう助言する。
慣れない手つきでグチャグチャになってしまった魚をなんとか焼き上げ、彼女はようやく初めての食事にありついた。
そしてその夜。
焚き火の傍で暖を取りながら、体をぎゅっと丸めた姿勢でナマエは眠りについた。
相変わらず半透明で浮いたままの降谷に睡魔は訪れない。娯楽もない無人島では見張りくらいしかやることもなかった。
「……う、うぅ」
「!」
呻き声が聞こえてナマエの顔を覗き込むと、彼女は苦しそうに眉根を寄せていた。魘されているようだ。
「ナマエ」
声を掛けるが起きる様子はない。
しかし悪夢を見ているのでは辛いだろうと手を伸ばすが、その手が彼女の肩に触れることはなかった。それもそうだ。今の自分は何にも触れられはしない。
触れることのできない手が空を彷徨い、感じることのできない夜の空気にひやりと冷やされた気がした。
「…ぅ、あ……やだ……」
ぽろりと、その目尻から涙が零れるのが見えた。お父様、お母様、お兄様、みんな。途切れ途切れに家族を呼びながら、何かを掴もうとその手が宙を掻く。
「ナマエ……」
触れられないというのは、なんてもどかしいのだろう。何も出来はしないのに、なぜ自分はここに来てしまったのだろう。
若き日の想い人が哀しみの中もがいているのを、降谷はただ見つめていた。
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