03


ポアロに向かう道中、赤信号で停車した降谷はスマートフォンを確認して頬を緩ませた。

『ありがとございました』

たどたどしいが、覚えは早い。
返信はせずにメール画面を閉じ、別のアプリを起動してから青信号で再び車を走らせた。

降谷が安室としてMAISON MOKUBAを拠点としている以上、ナマエを住まわせるのは必然と降谷名義のマンションになる。
万一にも彼女の存在が組織に知られ、さらに人魚であることが明るみに出れば、あの組織が手に入れたがらないとも限らないからだ。

右も左もわからないナマエを一人で住まわせることに不安はあったが、驚くことに彼女の世界には英語と日本語が混在していた。
そのため家電の使用方法をほとんど取扱説明書に丸投げできたのは運がよかったと言えるだろう。

一人旅の長い彼女は自炊に抵抗はないらしく、キッチン家電だけは簡単に説明した。
それから実際に掃除をしながら掃除機の使い方を教え、あとは家中の家電の取説を山積みに置いて終了だ。

『……届いたのかな?』

ジジ、というノイズに遅れてスマートフォンから聞こえてきたのは、ナマエの声だ。
彼女に与えたのは以前別件で使っていた端末で、契約はまだ生きているため使用に差支えはない。

そしてそれには子供に持たせる時のようにガチガチにフィルタリングを掛け、仕上げとばかりに遠隔操作アプリを仕込んである。
渡す際に「これが監視も兼ねている」と伝えれば、彼女は神妙な面持ちでそれを受け取った。

ちなみに、それとは別で何ヶ所か盗聴器を仕掛けたが、それはナマエには教えていない。

『零ー?届いてますかー?…あれ?』

監視を兼ねると伝えたこともあり、画面の向こうで降谷が見ているとでも思っているのだろう。
ちらりとディスプレイに視線を落とせば、こちらを見つめるナマエが画面いっぱいに写っていた。

思わずプッと噴き出すが、あいにくこちらは運転中だ。
ナマエの呼びかけを無視して車を走らせ、普段通りポアロ近くの駐車場に車を停める。
そこにタイミングよくスマートフォンが震え、降谷は遠隔操作アプリを閉じてメールを開いた。

『とどいているか』

武士か、と降谷は思わずツッコんだ。
無事に届いていることと、これから仕事だから連絡が取れないということ。それらを簡潔に伝えれば、少しして『しようちした』との返事があった。いや、武士か。

ナマエは出会って数時間の不思議な生き物で、降谷の多忙なトリプルフェイス生活にさらなる負担を強いる、いわば厄介者だ。
なのにその人柄のせいか、どうにも気が抜けてしまう。

バイト中もいつも通り完璧に安室透を演じつつ、つい彼女の動向が気になってしまった降谷だった。




***




ポアロで閉店作業を終えた降谷は、その足で遅くまで開いているショッピングモールへと向かった。
とはいえこちらもすでに閉店時間間際なので、素早く目的のものを購入する。

買ったのはナマエに着せるワンピースと、下着代わりの水着だ。
どちらもナマエのリクエストで、水着は尾びれに変わる時に脱ぎやすいようサイドは紐で、なんて細かい要求もあった。

(居候の身で図々しすぎるだろ)

そんなことを考えながら再び降谷宅へと車を走らせるが、練習とばかりに何通もメールを送りつけてきていた彼女が数時間前からやけに静かだ。
遠隔操作アプリを起動しても無音の暗闇が広がるばかりで、もしかしたらすでに眠っているのかもしれない。

マンションに到着してドアを開ければ、案の定部屋は真っ暗だった。
LDKに人影はなく、降谷はそのまま寝室のドアを開け、そして小さく息を呑んだ。

LDKと違って寝室は想像以上に明るい。
どうやら掃き出し窓のカーテンが全開になっていて、そこから月明かりが差し込んでいるようだ。
そしてその光が淡く照らすのは、予想通りベッドに横たわって眠るナマエの姿だった。

月光が溶け込んだような神秘的な輝きを放つのは、黄金の鱗を持つ優美な尾びれだ。
サイズの合わないシャツはウエスト辺りで結ばれ、美しい尾びれの全貌を露にしていた。

(……なるほど、これは確かに)

ナマエ曰く、貴重なコガネウオの鱗を売り捌こうと目論む者も多く、鱗狙いで襲われたことも少なくないらしい。
その時は聞き流していた降谷だったが、こうも幻想的な姿を目にしてしまっては納得せざるを得ない。

カサッと音を立てて紙袋を置いても、ナマエは微動だにしない。
降谷は尾びれが隠れることにわずかな名残惜しさを覚えつつ、そっと毛布を掛けた。が、それでも彼女が起きることはなかった。

降谷にとっても今日は目まぐるしい一日だったのだから、きっと彼女も疲れたのだろう。
そう考えた降谷だが、彼女は現在御年80歳。
単に早寝早起きなだけだということに彼が気付くまで、そう時間はかからなかった。




***




夏島の海域に入り、オーロ・ジャクソン号の甲板には暑さにダレる船員たちの声が響いていた。
陽射しは容赦なく照りつけ、カラリと乾いた風が否応なしに喉の渇きを自覚させる。

左舷の手すりに力なくもたれかかっているのは、麦わら帽子を被った赤髪の少年―――シャンクスだ。

「あっちィー……おっ、ナマエー!水かけてくれ!」

シャンクスは眼下の海にきらりと輝く黄金色を見つけると、大声とともに手を振った。

「はーい!」

澄んだ声がそれに応え、煌めく尾びれを持った人魚がサービスとばかりに大ジャンプを見せる。
着水と同時にバシャンと尾びれを叩きつければ、勢いよく上がった水柱が甲板へと降り注いだ。

「おお、冷た……くねェ!」
「深海なら冷えてますよ。深いところから水持ってきましょうかー?」

不満そうなシャンクスにそう声を掛ければ、彼が「おう!」と返事をすると同時に背後から別の少年が現れた。
シャンクスを押しのけるように身を乗り出したのは、彼と同じ年頃で赤っ鼻が特徴的なバギーだ。

「ナマエ!おれが先だ!このヤローおれにデッキ掃除押し付けやがって」
「その前におれの肉横取りしたのはお前だ」
「その前に花札でイカサマしたのはてめェだろうが!」
「イカサマじゃねェ!」

甲板を見上げるナマエの視線の先で、いつものように二人が言い争いを始める。
あっという間に掴み合いに発展したそれを止めるべきか迷っていると、ガンッという音とともに二人の姿が見えなくなった。

「まーたケンカか、てめェらは!いい加減にしろ!」

代わりに見えたのは、金髪を後ろに流した厳めしい顔立ちに特徴的な顎髭を携えた男、この船の副船長でもあるレイリーだ。
二人の声が聞こえなくなった辺り、おそらく強力な拳骨でもお見舞いされたのだろう。

ハァ、とため息を零しながら、レイリーが手すりから下に向けて両腕を伸ばす。

「ナマエ、来い」
「はーい」

ナマエは海水をポンプのように噴き上げさせ、それに乗って甲板へと飛び上がった。
そして差し出されたレイリーの腕に飛び込む頃には、その尾びれに一滴の海水も残ってはいない。

レイリーはナマエを危なげなく受け止めると、その体を横抱きにして踵を返した。
その肩越しに背後を見やったナマエの目には、蹲った少年たちが頭部を押さえてプルプルと震えている姿が見える。

「中で冷たい茶でも飲もう」
「二人はあのままでいいんですか?」
「放っとけ。お前はアイツらに甘すぎる」
「ふふっ、小さい頃から見てますから」

楽しげに笑みを零したナマエを、レイリーは鋭い目に優しさを滲ませて見下ろした。

「なぁナマエ、今日はあれ着よう。この前買ったワンピース」
「え、嫌です」
「!?」
「レイリーが買う服、長いし厚いし苦しいんですもん」
「……!……!!」

眼鏡の奥で目を見開くレイリーに、甲板にいたクルー達がぶはっと噴き出す。

「おいおいレイリーのヤツ、言葉失うほどショック受けてんぞ!」
「アイツ過保護すぎんだよなぁ」

そう、彼は過保護なのだ。
ナマエはクルー達のヤジに同意するように頷いた。

「ロジャーなら短いのも薄いのも「いいじゃねぇか」って言ってくれるのに」
「アイツは気にしなさすぎなんだ!」

くわっと目を剥いたレイリーに、ナマエは説教の始まりを察知してげんなりする。
横抱きにされたまま両耳を塞ぐが意味はなかった。大体その水着も布が小さすぎるだの、海中は涼しいんだからもっと肌が隠れるのを選べだのと小うるさい。

ナマエは仲間達の豪快な笑い声を聞きながら、レイリーの説教をハイハイと聞き流した。




***




カーテンの開いた窓から柔らかな朝の日差しが注ぎ、ナマエは淡い色の睫毛を震わせる。
ゆっくりと瞼を上げれば、彼女はどんな高級な宿にも置かれていないような上質なベッドに横たわっていた。
肌触りのいい毛布がするりと滑り落ちていくのを感じながら、緩慢な動作で体を起こす。

「…………あ…そうだ」

思い出した、と小さく呟く。
ここは宿でもなんでもない。昨日から居候することになった部屋だった。

カサ、と音を立てて指先が触れたのは、二つ折りにされたメモのようだ。
開いてみれば、買った服はクローゼットに入れたと書かれている。どうやら寝てる間に家主が訪れていたらしい。

尾びれを足に変えてベッドから下り、クローゼットを開く。
ハンガーに掛けられているのはリクエスト通りワンピースばかりで、どれも膝丈くらいの清楚なデザインだ。
短めで、というリクエストを付け加えてあったのだが、どうやらそれは聞き入れられなかったらしい。

夢で見たことを思い出して、ナマエは懐かしさにふふっと笑った。

(レイリーみたい)

そういえば名前もなんとなく似ている。

すっかり渋みを増した同世代の男が思い浮かぶが、最後は会いに行く直前で捕まってしまったから、彼には結局会えずじまいだ。
そのことに一抹の寂しさを覚えつつ、ナマエは水着とワンピースを選んで取り出した。

新しい服に身を包みながら口ずさむのは、海賊が島に上陸する前に歌う定番の唄だ。

「ビンクスの酒を、届けに行くよ……」

海風 気まかせ 波まかせ

歌いながら、ナマエの口角がゆるゆると上がっていく。どんな時も笑顔でいるのが彼女のモットーだった。

(笑顔で、丁寧に)

何十年も繰り返し続けた言葉を胸に、ナマエは一人で歌い続けた。


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