04


朝日がビルの合間から顔を覗かせる頃、降谷は本庁を出て愛車へと乗り込んだ。
徹夜明けの眉間を強めに揉み込みながら欠伸を噛み殺し、反対の手で遠隔操作アプリを立ち上げる。
早朝にもかかわらず、ディスプレイに映ったのは動く人魚の姿だ。

(早いな、起きるの)

起きてからすでに時間が経っているようで、ベッドは綺麗に整えられている。
端末が置かれているのはベッド脇に置かれたサイドテーブルで、降谷が監視しやすいように何かに立て掛けているらしい。意外に律儀な性格をしている、と降谷は感心した。

ふと、画面に向かってナマエが近づいてきて、唐突に映像がブレる。
画面の揺れからしてどこかに移動しているらしいが、すぐに答えは出た。彼女が向かったのは洗面所だ。
床にぺたんと座り込んだナマエは端末を近くに立て掛け、洗剤などのボトルを洗面台下の収納から取り出して眺め始めた。

『洗剤、柔軟剤……漂白剤?』

ぶつぶつと呟きながら、取り出したボトルと洗濯機の説明書を交互に睨みつける。

『…どれ使うの?順番とかあるのかな』

どうやら洗濯の仕方がわからないらしい。
ひとしきり唸ってから、ナマエは『あっ』と声を上げた。
立て掛けられていたスマートフォンが持ち上げられ、ナマエがその画面をじっと見つめる。
ゴソゴソとボトルに触れる音がする辺り、スマホカメラで写真を撮って降谷に送ろうとしているようだ。それで彼の指示を仰ぐつもりなのだろう。

こちらから電話を掛ければそれで解決する話だが、降谷はなんとなくその様子を眺め続けていた。
するとナマエの顔に困惑したような表情が浮かぶ。

『え、これ両手で持ってたら、どうやって撮るの…?』

説明書を読んで操作方法はわかっていても、実際に写真を撮るのはこれが初めてなのだろう。
両手で端末を掴みながらシャッターボタンをタップするにはどうすればいいのか、と困惑しているようだ。指を一本だけ離すという方法は思いつかないらしい。

降谷はプッと吹き出してから、今度こそアプリを終了させてナマエに電話を掛けた。

『もしもし?ちょうどよかった。聞きたいことがあるんです』
「ああ、わかってる。最初から見てた」

へ?と気の抜けた声が聞こえて、降谷はまた吹き出しそうになる。

『み、見てたんですか!?それならすぐ教えてくださいよ』
「悪かったな。一生懸命な姿が面白くて」
『性格悪いって言われません?』
「言われないが」

しれっと返した降谷に、ナマエが『嘘だぁ』と嫌そうに言う。

『それ絶対周りが遠慮してますよ。陰で暴君扱いされてそう』
「…聞きたいことがあったんじゃないのか」
『あ』

そうでした、とナマエが聞いてきたのは案の定洗濯の仕方だ。

「さて、どうするかな。どうやら僕は暴君らしいから」
『そういうとこですよ!』

明らかに不満そうな声に、降谷は「ははっ」と笑い声を上げた。
顔は見えないが、彼女がどんな表情を浮かべているかは大体想像がつく。

ナマエと話している間に、蝕むような疲労感はすっかり紛れてしまっていた。




***




ある日の夕方、ポアロのシフトを終えた降谷は車に向かいながら新着メールを確認した。
ナマエには終わり次第行くと伝えてあるので、一通目のメールには買ってきてほしい物がリストアップされている。
それに目を通してから、次に先ほど受信したばかりの二通目を開いた。

『何分どつきますか』

どつくつもりはないが…?と内心で首を傾げてから、『何分で着きますか』だと思い至る。

(思い切った誤字だな)

ふっと口元を緩め、大体の到着時間を返信する。
しかし道も店も空いていて買い物がスムーズに終わったこともあり、実際にマンションに到着したのは彼女に伝えたそれよりかなり早い時間だった。

部屋に入ると彼女の姿はなく、洗面所の方から歌声が聴こえてくる。どうやら入浴中のようだ。
時折聞こえるぺちんという音は、尾びれが水面を叩く音だろうか。

―――ヨホホホー、ヨーホホーホー

随分とご機嫌な歌声だ。
手に持った荷物を片付けながら、降谷はその歌声に耳を傾けた。

―――ビンクスの酒を届けにゆくよ 海風、気まかせ、波まかせ

聞いたことのない歌詞に、聞いたことのないメロディ。
しかしどこか懐かしさを覚えるそれに、降谷は思わず頬が緩むのを感じた。

彼女は歌声で人を操る能力はないと言っていたが、影響力が全くないわけではないらしい。
そうでなければ歌声一つでこんなにも気分が上向くはずがない。

―――潮の向こうで夕日も騒ぐ 空にゃ輪をかく鳥の唄

伸びやかで楽しげな歌声と、時折混じるぺちんという尾びれの音。
それが聴こえなくなるまで、降谷はすっかり聴き入っていた。



「あれ、零だ」

洗面所のドアを開けたナマエが、腕を組んで壁にもたれていた降谷に目を丸くした。

「早かったんですね」
「ああ。……髪、濡れてるぞ」

淡い色の長髪はしっとりと湿り気を帯び、頬や首筋に張り付いている。
ナマエはきょとんと目を瞬かせてから背後の洗面台に目をやった。すると見る見るうちに髪から水分が吸い出され、シャボン玉のように洗面台へと飛んでいく。

なるほど、指や手はあくまで指向性を持たせるために使うものらしい。降谷は納得しながら「相変わらず便利な能力だな」と呟いた。

「零、ご飯はもう食べました?」
「いや」
「おかず残ってますけど食べます?」
「…おかず?君が作ったのか」
「そうですけど」

我ながら何を当たり前のことをと思うが、ナマエと料理のイメージが全く繋がらない。
自炊ができるとは聞いていたものの、タイミングが合わず、アプリの画面越しにも見たことはない。
人魚が一体どんな料理を作るのだろうという好奇心もあり―――結局短い沈黙の後で降谷は「食べる」と答えていた。

そして彼女が温め直してテーブルに並べたのは、拍子抜けするほど普通の料理だった。
ただし全体的に茶色い。
玉ねぎと鶏肉を炒めたものや芋だけの煮物など、彩りや見栄えを無視したラインナップだ。

「……うん、味は美味しいな」
「本当ですか?やったぁ」

含みのある言い方には気付かず、ナマエは嬉しそうに笑った。
味は確かに美味しい。素材の味を生かした素朴な味付けで、なんというか、こういう表現が正しいのかはわからないが帰省先の実家で出てきそうなイメージだ。
それを悪い言い方だとするなら、よく言えば「温かみがある」だろうか。

なんにせよポアロ以外で他人の手料理を食べるのは久しぶりで、降谷はどこかくすぐったいような気持ちになった。

「ご馳走様」
「ふふっ、お粗末様です」

食べ終わって食器を洗っていると、ナマエが「零」と近寄ってくる。

「そういえば、これ」
「それは……」

彼女が差し出したのはキラキラと輝く何かだった。
タオルで手を拭きながら見つめれば、その正体はすぐにわかった。彼女の鱗だ。

「これ、こっちで売れないですか?あっちだといい値段がつくんですけど」
「わからない…が、こちらには存在しないものだし、悪質なコレクターが出てきても困る。流通させるわけにはいかないだろう」
「えー」
「どうしたんだ、急に」

そう言いながら受け取ると、明るく照らされたそれが月下とはまた違った煌めきを放つ。

「居候させてもらって、ただここで暮らしてるのもなって」
「…どうやって取ったんだ。毟ったのか?」
「そりゃあ、まあ」
「痛みは?」

畳み掛けるように聞けば、ナマエは一瞬言葉を選ぶように躊躇ってから「えへ」と笑った。
ぺしん、と降谷の指先がその額を軽くはたく。

「いたっ」
「二度とするな。気遣いは無用だ」
「でも」
「ここは君が来る以前から契約していた部屋だし、あいにくと一人分の生活費が負担になるような仕事ぶりはしていない」

それに、と言いかけてやめる。
額を押さえたままの体勢で、ナマエは目を瞬かせて降谷を見上げていた。

(それに、いつまでも上に黙っているわけにはいかないしな)

様子見として住まわせてはいるが、今のところ彼女が元の世界に戻る様子はない。
能力は危険だがやみくもに害意を向けるタイプではないし、タイミングを見て上に報告すべきだろう。
彼女のような生き物はきっと上にとっても前代未聞だが、ここにいるよりはよっぽど適切な部署に回されて、そして。

(その後どうなるかなんて、僕が気にすることじゃない)

自分には他にやるべきことがあるのだから。

「零?」

黙り込んだ降谷を蜂蜜色の瞳が見つめている。
降谷は気が抜けたようにふっと笑い返して、「いや」と小さく首を振った。

「これは記念にもらっておくよ。ところで君、たまには外の風に当たってるのか」
「え?まあ……たまーに?」
「ベランダまでは出てもいいって言っただろ。籠ってばかりじゃ体調を崩すぞ」

そう言いながら、降谷は冷蔵庫から缶ビールとノンアルコールビールを一本ずつ取り出した。

「今夜は満月だし月見酒でもするか」
「え、いいんですか?」
「ああ。それともそろそろ眠いか?」

からかうように言えば、ナマエは半目になって「おばあちゃん扱いやめてください」とビールを奪う。

それから二人でベランダに出ると、ほどよい温度の風が穏やかに頬を撫でた。
見上げた先では丸い月がいつもより近く見え、美しい星々が夜空を彩っている。

「そういえば、風呂場で歌ってたの…何て歌だ?」
「ああ、"ビンクスの酒"ですよ」

缶のプルタブを開ける降谷を見ながら、ナマエがそれを真似てプシュッと小気味のいい音を立てた。

「海賊なら誰でも知ってる歌です」

そう言って缶を口に運び、「美味しい」と目を輝かせる。
どうやらこちらの酒をお気に召したらしい。

「そういえば元海賊だったな。懸賞金も懸けられて、立派なお尋ね者だ」
「手配書にはコガネウオのナマエって書かれてました」

そのままでしょ、とナマエが可笑しそうに笑う。

「ずっと逃げていたのに、そんなに目立ってよかったのか?」
「あの頃は頼もしい仲間達と一緒だったので」

そう言う彼女の表情は穏やかで、楽しい記憶を思い起こしているように見える。

「君は……」

そこで一度言葉を切れば、ナマエが続きを促すようにこちらを見た。

「…君は、いつも明るいな。壮絶な身の上で、今も知らない場所で一人だっていうのに」

それは褒め言葉でもあり、問い掛けでもあった。
彼女は明るいが能天気ではない。しかし敵意を向ける姿を見たのも最初の一度だけで、悲しむ姿は画面越しにも見たことがないのだ。

どうしてそんな風にいられるのだと、一度聞いてみたかった。

「一人だったら、こんな素敵なおうちに住めてませんけど」

彼女は形のいい目を細めて笑った。

「逃走生活が終わったのも嬉しいですし。あとは、ただ決めてるだけです」
「決めてる?」
「はい。笑顔で、丁寧に。それが私のモットーなので」
「丁寧に、か。敬語もその一環か?」

そうです、とナマエは肯定してビールを呷った。

「誰に何て言われたのかは昔すぎて忘れちゃいましたけど……一族が襲撃された後、ツンツン尖ってる時に言われたんです。そんな感じのことを」
「ツンツン?君がか」
「はい、ツンツンしてました」

ふふっと笑うナマエは楽しそうだ。
40年前に言われた言葉が彼女を変えたというなら、それはよっぽど大切な出会いだったんだろう。

「それがここまで君を生かしたんだな」
「まあ、そういうことですねぇ」

ふにゃりと目尻を下げたナマエが、ふと空を見上げて「あっ」と声を上げる。

「今、流れ星見ました?」
「いや。願い事はできたか?」
「あんな一瞬じゃ間に合いませんよ」
「確かにな」

降谷が小さく笑って同意したところで、ナマエがクシュンとくしゃみをした。

「冷えたか?戻ろうか」
「大丈夫です、病気も怪我もしないので。そういう」
「そういう種族なんです、か」

続く言葉を奪った降谷にナマエが笑みで答える。
病気や怪我をしないといっても、どうせ治りが早いとかそんなところだろう。
浴室で掴んだ腕は細くてあっさり折れてしまいそうだったし、決して無敵というわけではないはずだ。

「せっかくこんなところまで逃げて来たんだ。もう少し自分を大事にしろ」

そう言ってちょうどいい高さにある頭部にポンポンと手を置けば、ナマエは一瞬きょとんとした後で破顔した。

「零って面倒見いいですよね。妹います?」
「いないし80歳の妹もいらない」
「失礼すぎません?手料理まで食べといて」
「今度彩りというものを教えてやろう」
「失礼すぎません?」

不満げに頬を膨らませるナマエに、今度は降谷が声を上げて笑う番だった。


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