05


「ふ、降谷さん…?」

風見は目の前で今にも笑い転げそうな上司を、怯えの滲む表情で呆然と見つめた。
仕事を終えて車へと戻る道すがら、ふとスマートフォンを確認した降谷が突然立ち止まって噴き出したのだ。
彼はプルプルと上体を震わせながら、鍛え抜かれた腹筋に手を添えている。

「どうかしたんですか?」
「…っ、ふっ、ああ、いや……っ」

口では否定したものの、再びディスプレイに視線を落として「ぶはっ」と豪快に噴き出した。
箸が転がるだけで笑えるような年頃はとうに過ぎているはずだが、徹夜が続いてついにおかしくなってしまったのだろうか。

「な、何か面白いことでも……」
「くふっ…」

あ、ダメだこれ、答えてもらえないやつだ、と風見は諦めた。
結局降谷はその場でひとしきり笑った後、「あー笑った」と上機嫌に呟きながらスーツを整えた。

「悪かったな。さあ行こうか」
「はっ、はい」

颯爽と歩き出した降谷に、なんだったんだ?と疑問符を浮かべながらも風見が続く。
結局何もわからずに終わるのかと思ったところで、降谷が足を止めずに口を開いた。

「実はさっき、知人から面白いメールが届いていてな」
「面白いメール…ですか」
「ああ。なんでも、玉ねぎのまじんぎりで泣いたそうだ」

思わず「は?」と間の抜けた声が出た。

「くっ、会心の一撃を狙ってどうする…」

再び笑いがこみ上げたのか、降谷が手で口元を覆う。
"まじんぎり"。まさかこの上司の口からドラ〇エの技名を聞くことになろうとは。というか、

「玉ねぎを?」
「みじん切りの打ち間違いだ」
「ああ、なるほど。それは……プッ」

納得してから、思わず小さく吹き出した。確かに思い切った誤字ではある。
そんな風見の様子を見た降谷は「面白いだろう」となぜか得意げだ。

にしても、この上司があれほどわかりやすく笑うのは珍しいのではないだろうか。相手はよっぽど親しい人物なのかもしれない。
そんなことを考えながらRX-7の助手席に乗り込んだ風見は、降谷がインカムを装着するのを見て内心で首を傾げた。後は本庁に戻るだけのはずだが。
それから降谷は何やらスマートフォンを操作し、それを仕舞って愛車を発進する。

「降谷さん、それは何を?」
「これか?これは自宅の様子を確認しているだけだ」
「どなたかいらっしゃるんですか」
「いや、ペットモニターの音声を聴いているようなものでな。特に何ということはない」

ペットとは、なんとも意外な返答だった。
犬か猫でも飼い始めたのだろうか。しかし風見がそう質問すれば、さらに意外な答えが返ってきた。

「魚?金魚や熱帯魚ですか」
「そんなところだ」

どうやら上司が飼い始めたのは魚類らしい。
犬や猫に比べれば手もかからないだろうし、散歩も必要ない。確かに我々のような職種の人間にとっても飼いやすい生き物かもしれないな、と風見は納得した。

(いや、しかし……音声を聴いてるのはおかしくないか?)

魚が立てる音なんてせいぜい水が跳ねる音くらいだろう。
ではこの上司は一体何の音を聞いているのだろうか。疑問には思ったが、ハンドルを握る降谷が驚くほど穏やかな表情を浮かべているのを見て、風見はそれ以上突っ込んで聞くことはしなかった。

もちろんこの時の風見は、近々自分がその魚と対面を果たすことになるとは思いもしていない。
そしてそれが自身の想像する魚とはかけ離れた存在であることなど、この時はまだ知る由もなかった。




***




本庁に戻って風見と解散した降谷は、安室宅で着替えてからポアロに出勤した。
そしてシフト通りに上がると、今度はその足でナマエのいるマンションへと向かう。
現在時刻は19時。ナマエの場合、寝ているか起きているか微妙な時間だ。
遠隔操作アプリを立ち上げても画面は暗く、音声も聞こえない。きっと寝ているだろうと思いながら部屋に入れば、予想に反して彼女は起きていた。

「……なんて格好をしてるんだ」

降谷の呟きは聞こえなかったようで、ベッドにうつぶせになったナマエは静かに本を読み続けている。
読んでいるのはおそらく降谷が与えた児童書だ。その傍らにはスマートフォンが画面を伏せるように置かれていて、映像が映らなかった理由はすぐにわかった。

「ナマエ」

先程より大き目の声で呼びかければ、ゆらゆらと揺れていた尾びれがピタリと止まる。

「あ、零。おかえりなさい」

にっこり笑いかけられて、降谷は一拍置いて「ただいま」と返した。
ここも間違いなく自分の家であるはずだが、安室名義の部屋を契約してからはほとんど空き家状態だった。
そこで待つ人がいて、しかも「おかえり」と言われるというのは、相手が居候とはいえ未だに少しくすぐったい。

「それで、その格好は?」
「え、なんかダメでした?」

パタンと本を閉じて、ナマエが体を起こす。彼女が身に着けているのは胸元を覆う水着だけだ。
布面積広めでスタンダードなデザインを選んだはずだが、白く形のいい双丘がやけに窮屈そうに存在を主張している。

「ダメじゃないが、体を冷やすぞ」
「別に寒くないですし……。それに、この方が楽なんですもん」

80歳が「もん」ていうな。
そうツッコみたくなった降谷だが、結局見た目だけなら自分より下に見える彼女にそれを言うのは諦めた。

するとふいに、蜂蜜色の瞳が降谷をじっと見つめる。

「どうした」
「零、ひどい顔してますね。何日寝てないんですか?」
「まあ…三日ってところじゃないか。そう珍しいことじゃない」

そうは言いつつも体は疲れていて、降谷はベッドの端に腰掛けた。

「買ってきた食材は仕舞ってある。追加の本とDVDもソファの脇に置いておいたから」
「ありがとうございます」

外に出せない代わりに、ナマエにはなるべく多くの娯楽を与えるようにしていた。
中でも今のお気に入りは魔法学校を舞台としたファンタジー小説のようだ。

「零、明日の予定は?」

唐突に尋ねられて、一瞬間が空いた。

「明日は……朝から仕事だけど、日の出前に少しやることがある」
「早起きの予定なんですね」
「まあ、そうだな」

それがどうしたのかと様子を窺うと、ナマエは顎に手をやって「うん」と頷いてみせた。

「移動時間ももったいないので、今日はここで寝ていったらどうですか?」
「は?」
「寝不足でクルマに乗るのは危ないんでしょう?テレビでやってましたよ」

言いたいことはわかる。わかるのだが、思わず「何を言っているんだ」という顔をしてしまった。
置かれているのは長身の降谷に合わせたロングサイズのダブルベッドだが、それでもベッドは一つしかないのだ。

「……君と、一緒に寝ろって?」
「ダメなんですか?あ、私がソファで寝てもいいですけど」
「いや……あー」

大きな尾びれがソファからはみ出しているのを想像して首を振る。が、正直すでに立つのも億劫だ。

「じゃあ…一時間だけ、寝させてくれるか」
「それだけでいいんですか?」
「ああ。少し寝れば楽になるし、そうしたら帰るから」
「ふうん……あっ」

ナマエは名案だとばかりにニッコリ笑うと、枕元へと移動する。
それから横座りをするように反対側へ尾びれを曲げ、人でいう太ももにあたる場所をポンポンと叩いた。

「枕、どうぞ。ひんやりしてて気持ちいいですよ」

どうやら膝枕ならぬ尾びれ枕を提供してくれるつもりらしい。
は?と再び声を上げかけて、降谷は反論を飲み込んだ。確かにひんやりツルツルした尾びれで寝たら気持ちがよさそうだ。
これは寝不足で頭が回らないせいだと心の中で言い訳しながら、降谷は体勢を変えると無言でそこに倒れ込んだ。

素直な行動に、頭上で「ふふっ」と笑うナマエの声が聞こえる。
後頭部には確かにひんやりとした感触があって、頭部が沈み込まない絶妙な弾力が心地いい。

「よしよし、よく頑張ってますね」
「……子供扱いするな」

頭を優しく撫でるナマエの手に、つい不満げな声が出た。

「実際年下ですし」
「君の場合は大体の人間が年下だろ」
「確かに。じゃあきっと、誰に対してもこうしますよ」
「それは……」

それは面白くない。
降谷は流れでそう言いかけて、自分は一体何を言おうとしたのだと頭を抱えたくなった。
それじゃまるで、彼女を独り占めしたがっているみたいだ。

「子守唄でも歌いましょうか」
「……君は眠くないのか?」
「小説、今いいところなんです。零が寝たらもう少しだけ読もうかなって」

そう言うと、ナマエの唇から小さな歌声が零れ出す。
それは随分とゆったりしていて、温かく包み込むような調べだった。きっと彼女の世界の子守唄だろう。

(やっぱり、この歌声……)

人を操るとまではいかないにしても、歌声に何らかの力があることは確かだ。
強制力を感じるわけではないが、意識がじりじりと引っ張られていく気がする。降谷はそれに抗わず、訪れる眠りに身を任せた。




***




それからどれだけの時間が経ったのか、瞼越しに何かの影が揺らめくのを感じて降谷は目を開けた。
見上げた先には相変わらずナマエが見えるが、蜂蜜色の瞳は瞼に隠れ、その頭部はゆらゆらと揺れている。どうやら降谷の枕となったまま眠ってしまったようだ。

視線だけで壁の時計を確認すると、ちょうど一時間ほど経過している。
早寝早起きの彼女は、いつもならとっくに眠っている時間だ。

視線をナマエに戻した降谷は、その頬にそっと手を伸ばしてみた。
白い頬に触れると、すりっと手のひらに擦り寄ってくる。起こしたか、と様子を窺うが、どうやら眠ったまま無意識にとった行動のようだ。

(魚というより、猫みたいだな)

無意識下とはいえ、懐かれているようで悪い気はしない。
降谷はふっと頬を緩ませて、頬に触れた手でナマエの横髪を耳にかけた。

「ん……」

赤い唇から吐息混じりの声が漏れ、降谷はピタリと動きを止める。
そのまましばらく待つが、再び規則正しい呼吸が聞こえてきて小さく息を吐いた。遊ぶのもこれくらいにして、そろそろちゃんと寝かせてあげなくては。

ナマエを起こさないよう慎重に体を起こした降谷が、今度はナマエをそこに横たわらせる。
そして毛布をかけてベッドを下り、電気を消してから玄関へ向かおうとして一瞬考え込んだ。

(……うん)

顎に手をやり、壁掛け時計とナマエを視線が往復する。
逡巡ののち、降谷は予定を変更してリビングのソファにごろりと寝転んだ。

(たまにはいいか)

日の出前の用事に、ナマエも誘ってみよう。
目を覚ました彼女が驚く姿を想像しながら、降谷は再び目を閉じた。


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