06


零、と名前を呼ぶ声がして、降谷はゆっくりと瞼を上げた。
随分と深く眠っていたようで、すぐには思考が追いつかない。それでも自身を覗き込んでいる蜂蜜色の瞳にはすぐに気が付いた。

「ここで寝てて大丈夫なんですか?」

降谷は緩慢な動作でぱちりと瞬きをした。そういえば彼女には安室宅に帰ると伝えたんだった。
起きたところでソファで寝ている降谷を見て、用事は大丈夫なのかと心配してくれたのだろう。
長い髪が垂れないよう耳にかけながら、ナマエが返答のない降谷に小首を傾げる。

「あの…寝ぼけてます?」

きょとんと見つめてくるその瞳に、降谷はぼやけた思考に任せて手を伸ばした。頬に手を添え、目尻に指先を滑らせるがナマエは逃げない。
零?と目を瞬かせるナマエを無視して、頬に触れていた手を後頭部に回した。

「わっ」

バランスを崩したナマエが、倒れ込まないようソファに手をつく。それを気にも留めずグッと引き寄せ―――互いの唇が触れ合う直前でピタリと静止した。

(いや…なんで抵抗しないんだ、この女)

本気でするつもりはなかったが、あまりの無防備さに思わず眉根が寄った。
ナマエの吐息が唇をくすぐり、柔らかな髪が頬を撫で、なんともいえない感情がムクムクと頭を擡げてくる。

「……悪い。寝ぼけてた」

そう言ってパッと手を放せば、ナマエは乱れた後ろ髪を整えながら体を起こした。
なんだか周りに疑問符が飛んでいそうな表情をしているが、まさか80年も生きてきて何をされそうになったか解らないだなんて言わないだろうな。

「もしかして、まだ疲れてます?」
「いや……」

降谷は上体を起こしながら、ため息が出そうになるのをグッと堪えた。まさか本当に?

(でも、あり得ない話ではない…か?)

海中で過ごしていた40年はわからないが、陸上に出てからの40年はそのほとんどが一人旅。
そのうち8年間は海賊として過ごしていたそうだが、荒事ばかりでそういうことに縁がなかったと思えば―――

(いや、僕は一体何を考えているんだ)

大前提として彼女は人間ではない。こちらの常識に当てはめるのも、勝手な想像を巡らせるのも意味はないだろう。

返答が途切れたのを気にしたのか、思考に沈む降谷を覗き込んだナマエが「疲れが取れないなら舐めますか?」と問いかけてくる。
訝しげに顔を上げた降谷の視線の先で、ナマエは赤い唇からちろりと舌を覗かせた。

「…………はっ?」

思わずそれを凝視しながら、たっぷり数秒固まってしまった。
それを疲れているからだとでも思ったのか、心配そうに眉尻を下げたナマエが舌を引っ込めて口を開く。

「睡眠不足は補えないですけど、疲労感や体調不良なら体液か血液を少量摂取するだけで軽減できますから」

さすがに血液舐めるのは嫌でしょう?とナマエは続けるが、舌なら抵抗なく舐められるとでも思っているのか。
曰く、涙は自在に出せないから舌を舐めてもらうのが一番手っ取り早いらしい。そんな手っ取り早さいらない、と降谷は半目になった。

「それ、向こうでもやってたのか」
「え?ああ、したといっても片手で足りるくらいですかね。レイリー……副船長に一度ものすごい剣幕で怒られて、それ以降は本当に必要に迫られた時だけ」

なるほど、海賊といっても随分と大事にされていたらしい。
そしてナマエにとってキスは疲労回復の手段でしかないのだろう。それを理解した瞬間、降谷は一気に脱力した。

昨夜は彼女の尾びれ枕と子守唄で、子供のようにあっさりと寝かしつけられてしまった。
意趣返しにその余裕を崩してやりたいと思ったが、この様子ではたとえキスしたところで「疲れてたんですか?」と聞かれて終わりそうだ。ついでに「くっつけるだけじゃ体液は摂取できないですよ」と言われるのまでバッチリ想像できてしまった。

嘆息してから、降谷は気分を切り替えるように壁の時計に目をやった。

「ナマエ、今から一緒に出掛けないか。しっかり寝たし、疲れなら大丈夫だから」
「え?」

言葉の意味がすぐに理解できなかったのか、ナマエは一瞬きょとんとしてからハッと息を呑んだ。

「そ、外にですか?いいんですか?」
「ああ。せっかく靴も一足買ってあるしな」
「あれ履いていいんですか?えっ、冗談じゃないですよね?」

本気だよ、と返せば蜂蜜色の瞳が見る見るうちに輝きを宿らせる。
「やった!」と跳ねるように身を翻したナマエは、早速鼻歌混じりで服や靴を用意し始めた。

相変わらず、正の感情面においては充分すぎるほど表情豊かだ。
それを微笑ましく思いながら、降谷は全身鏡と睨めっこするナマエを見つめていた。




***




外はまだ暗く、日の出の気配は遠い。
テールランプの尾をなびかせて走るのは、降谷の運転する白いRX-7だ。

「零、曲変えていいですか?」
「またか。どうぞ」

テレビでしか見たことのなかった"クルマ"に、ナマエのテンションは上がりっぱなしだ。
そわそわと車内を見回し、音楽をかけたりパワーウィンドウを開閉したりとせわしない。
窓から身を乗り出そうとした時はさすがに止めたが、あまりに嬉しそうなので降谷もしたいようにさせていた。

「それにしても、いつもこんなに早起きなのか?」
「今日はたまたまです。いつもは日の出と同じくらいに起きてますよ」

それでも充分すぎるほど早い。さすが御年80歳、と降谷はまた「おばあちゃん扱いしてる」とツッコまれそうなことを考えた。
しかし一人旅中は野宿も多かったそうだし、旅慣れしていれば自然とそうなるものなのかもしれない。

「こっちの世界には慣れたか?」
「新しく知ることばかりですけど、楽しいですよ」
「君は本当に泣き言を言わないな」
「ほら、海賊って順応力が高いんです。島ごとに気候も色々だし、独自の文化が発展してることもザラですから」

ここまで発展してる島は見たことないですけど、とナマエは楽しげに笑う。
彼女がいた世界のことを、話の流れで聞いたことはある。気候も潮の流れもコロコロと変わる不思議な海の話に、思わず聞き入ってしまったのは記憶に新しい。

途中、安室宅に寄って着替えを済ませ、必要な道具を持って車に戻る。後部座席に積み込まれたその道具を見て、ナマエはまた目を輝かせた。

「えっまさか、これから行くのって」
「ああ、海だよ」

外はまだ暗いが、朝釣りにはすでに遅いくらいの時間だ。
海、と呟きながら、ナマエは口元をにやつかせている。彼女は本来海の生き物だし、こちらに来て初めての外出先が海とあっては喜びもひとしおだろう。

「楽しみだなぁ」

窓の外を見ながらぽつりと零れたのは、きっと心の底から出た言葉だ。
万感籠ったその呟きに、思わず降谷も眦を柔らかくした。




***




埠頭に着くと、そこにはすでに先客がいた。
一人で釣りを楽しむ老人と挨拶を交わし、降谷は早速釣り糸を垂らす。

「釣りが好きなんですか?」

ナマエは隣にしゃがみ込んでそれを眺めながら、疑問に思っていたことを問いかけた。
ただでさえ忙しい身で突然朝釣りに出かけるなんて、何かあると思って当然だろう。
降谷は小さく笑って「遊びに来たわけじゃない」と返した。

「働いている店のお客さんで、魚の生臭さが苦手だという人がいてね。新鮮な魚なら生臭くないというのを教えてあげたいと思って」
「へえ。確かに時間が経つと生臭さが出るんですよねぇ」

納得したように頷いているが、その辺りは海生まれ海育ちのナマエの方が詳しそうだ。

「…仕事について、聞かないんだな」

ぽつりと落とした呟きに、海面に垂れる釣り糸を眺めていたナマエが「え?」と顔を上げた。

「疑問には思ってるだろ」
「まあ…気になることはありますけど、多分聞いても私にはわからないだろうし」

それに、と続ける。

「どんな仕事でも、私が面倒見てもらってる立場なのは変わらないので」
「それは殊勝な心掛けだな」
「でしょ?大体、私自身お尋ね者ですもん。零がもし殺し屋でも文句言いません」

悪戯っぽく笑うナマエに降谷が笑い返したところで、強めの潮風が二人の髪や服をばさばさと揺らした。

「ふふっ、いい匂い」

潮の香りを胸いっぱいに吸い込んで、ナマエはすっかり上機嫌だ。
それから再び海面に視線を落として―――その表情がわずかに曇った気がして降谷は眉根を寄せた。

「ナマエ?」
「え?あ、風が気持ちいいですね」

こちらを向いたナマエはにっこりと楽しげに笑っている。
気のせいか、と正面に視線を戻すが、垂らした釣り糸はうんともすんとも言わない。

その時、先客の老人から「お兄さん達、どうだい?」と声がかかった。

「ボウズですよ…」
「お兄さんの分も俺が釣っちゃってるのかなー、悪いねぇ」
「参ったなぁ」

どうやら老人は調子よく釣れているようで、その様子を見た降谷が苦笑を浮かべる。

「あっ引いてますよ、零」
「お」

ようやくアタリだとリールを引くが、釣り上げたのは手のひらサイズにも満たない小さな魚だった。

「まだ小さいな……戻してあげよう」
「ついてないったらないな。今日は諦めるかい?」
「もう少し粘ってみますよ。待つのは苦じゃないんで」

あくまでも大物狙いだと降谷が笑ってみせると、老人はその姿勢を「釣り好きの鑑だ」と褒めた。
降谷は長期戦を覚悟して、ナマエの隣に座り込む。

「君は?退屈しないか」
「全然。すっごく楽しいです」
「ならいいけど。眠くなったら車に戻っててもいいから」
「いえ」

立てた膝を抱えながら、ナマエは明るくなりはじめた地平線を見つめていた。

「ここにいたいです」

その笑顔に憂いの色が滲んで見え、やっぱりさっきのは見間違いじゃなかったか、と降谷は目を細める。

「でも残念。誰もいなかったら泳げたのに」
「誰もいなくても勘弁してくれ」
「私が海に入れば、きっと魚の方から飛んできますよ?」
「ホォー…それは助かるな。次回はぜひともお願いしたいところだ」
「信じてない顔で言わないでください」

不貞腐れたような口調だったが、その顔には笑みが浮かんだままだ。
会話は途切れず、しばらくして狙い通りに大型のチヌが釣れるまで、二人の間に沈黙が落ちることはなかった。


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